西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#31
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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#31

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最終章
See You Again

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※本連載は第31回です。最初から読む方はこちら

 アルバムやシングルが出ると、全国各地のラジオ局や出版社を巡り、ゲスト出演や取材を受ける全国キャンペーンを行うことがメジャー・デビュー後のルーティンとなっていた。特に音楽メディアの多い大阪・京都・神戸はリリース・タイミングで欠かさず訪れ、2、3日かけて目まぐるしい移動を繰り返すこともあり「また恒例の『三都物語』が始まるんですね」などと言って気合を入れたものだ。自分の作品をプロモーションするために新幹線や飛行機に乗ることはアマチュア時代にはなかったこと。最初は何もかもが新鮮だったが、朝から晩までぎっしりスケジュールが埋まり、時には邪険に扱われることもある新人時代のキャンペーンは精神的に過酷でもあった。地方キャンペーンは、アーティストとレーベル担当者がふたりきりで移動することも多く、長時間話しながらコミュニケーションをとる。「人」を知れば知るほどお洒落でカッコいい恒川光昭社長の元、家族的なムードが漂うワーナーミュージック・ジャパンの雰囲気が僕は大好きになっていた。

 デビュー時、大阪営業所で最初に宣伝を担当してもらった関西出身の梶野勇人さんは、仕事終わりの夜に「せっかく大阪に来たから、たこ焼きが食べたいんですよ」と駄々をこねたところ、「そんなん言うんやったら探そうやないか」と閉まる店も多い中タクシーを飛ばし見つけてくれた。次に僕らを担当した藤井「ジャーマン」之康さんは Kiss FM KOBE に出演した際、同じ神戸ポートタワーの麓にある中突堤中央ビル2階の喫茶店「ワラジヤ」で名物「オムソバメシ」を勧めてくれた。その後、大阪に行くたびに毎回食べるようになる「インデアン・カレー」も藤井さんから教わって、心底ハマった店のひとつだ。

 担当は思いのほか早い周期で変わってゆく。神戸出身の新卒プロモーター・竹原功記君がワーナーに入社し、僕らの担当となったのは1999年のこと。彼は僕より2歳下。初めて会った時に「インディー時代からノーナが好きで、ノーナと仕事がしたくてワーナーに入った」と興奮しながら語ってくれた男前のナイスガイ。それまで仕事の現場では渡辺忠孝さんのようなレコード業界のベテランか年上のスタッフと絡むことしかなかったのだが、デビューから年を重ねると当然自分より若い社員も増える。人懐っこい竹原君と僕はウマが合い、すぐにお互いタメ口の関西弁で深い会話を交わす兄弟・親友のような間柄になった。

 アルバム《ディスティニー》をリリースした2000年秋、竹原君に連れられて神戸 Kiss FM を訪れた時、ポートタワー近くの「レンガの壁」に僕は初めて気がついた。阪神・淡路大震災に見舞われた翌年、オリックス・ブルーウェーブが日本一に輝いたことを記念して作られた記念碑。仰木彬監督、イチロー選手、田口壮選手ほか埋め込まれた多数のサインが目に入る。僕は何気なく神戸育ちの竹原君に向かって「ご家族を亡くした人もこの街にはいっぱいいるんやろうなぁ」と呟いた。すると当時23歳の彼はこう言ったのだ。

「ゴータ君、言ってなかったけど……。俺の両親、地震で死んでしもてん」

「え?」

「2階建ての一軒家で、俺2階で寝ててんけど。あの日。下で寝てたおとんとおかんは下敷きになってしもて……。ドーンって落ちたけど俺はなんとか大丈夫でさ」

 言葉が出なかった。1995年1月17日、朝。すでに東京で暮らしていた自分にとって、震災はブラウン管の中の出来事でしかなかったことを思い知らされた。この後、竹原君は会社から東京への転勤を命じられ、大ベテラン渡辺忠孝さんに代わりノーナの新しい制作ディレクターとなる。ちょうど僕自身がクラブ・シーンで様々なアーティストやDJと仲良くなり、真夜中のイベントに顔を出すのが習慣になっていた時期と重なり、ふたりで一緒に色んなクラブに遊びに行き、朝まで今後の展開を語り合う日々が続いた。どちらも20代半ば。ノーナのワーナーとの契約更新がすでに厳しい状況に直面していたこともあり、彼と僕は共闘精神を分かち合う同志となった。

 僕が一番のホームにしていたのは「三宿Web」。田園都市線・池尻大橋駅と三軒茶屋駅のちょうど真ん中あたり、首都高速が頭上に聳え立つ246通り沿い、1階には牛丼の松屋がテナントで入るビルの地下に「真夜中の公民館」のようなそのクラブは存在していた。店長のナガサワタケシさんが醸し出す独特のユーモア精神の元に多種多様なDJ、ミュージシャン、音楽ファンが集まるその小箱クラブは、長きに渡り僕にとって大切な居場所となる。初めて僕が三宿Webを訪れたのは、1998年の大晦日。誘ってくれたのは、 JUDY AND MARY のヴォーカル YUKI ちゃん。彼女が紅白歌合戦に出場しヒット曲〈散歩道〉を歌っている生放送を自宅のテレビで観ていた僕と弟・阿楠は、その後、約束通り渋谷に向かい YUKI ちゃんと少数の仲間が集まる打ち上げに参加。数時間前までブラウン管の中にいてセサミストリートのキャラクターと絡んでいた彼女とリアルに乾杯するのは流石に少し不思議な気分だったが、「この後、友達がクラブで年越し DJ をやるから」という YUKI ちゃんの提案を受け入れてタクシー数台に分乗し向かったのが Web だった。

 一時期毎晩のように飲み騒いだ下北沢に顔を出すことは無くなっていた。下北沢がプロのバンドマンや舞台俳優を目指す若者にとってエキサイティングで魅力的な場所であることは変わらない。ただし夢と現実が複雑に絡み合う長屋のように濃密で狭い空間は、それぞれの時代、主役級の演者達による幾つかのドラマがクライマックスを迎えると登場人物がある程度入れ替わる。若さを謳歌し、一緒に呑んだくれていたバンドマン達もある者はデビューし、ある者は音楽を諦め別の道を歩いている。

 解散したギター・バンド「マーズ・クライメイト」のベーシスト里中憲(サトケン)さんの彼女だった志賀芽衣子さんは、最近になってバー「敦煌」のケースケさんと付き合い始めた。歌手としてデビューする寸前で夢を絶たれただけでなく、同棲までしていたサトケンさんとも別れ意気消沈していた芽衣子さんが新たなパートナーを見つけて元気になったことは素直に嬉しい。ましてや、その相手が信頼できるケースケさんであるならば僕にとってはめでたさしかない。しかし、音楽活動をすでに辞めたサトケンさんにとっては「ケースケさん派」である僕が軽い憎悪の対象になってしまったようだ。サトケンさんのバンド、マーズ・クライメイトはメジャーとの契約後、深夜のTVドラマのタイアップ・ソングに選ばれたデビュー・シングルがスマッシュ・ヒット。ただし歌以外の演奏を敏腕セッション・ミュージシャンに任せることをディレクターに要求されたことで演奏陣が激怒し全員脱退、バンドは消滅していた。サトケンさんは、ダイヤルQ2の事業で大成功した同郷の先輩からインターネット通販事業に誘われ、就職。1999年、秋。スタジオでの撮影のため中目黒の立体交差点を歩いていると、角のガソリンスタンドにスポーティなオープンカー、黒いシボレー・カマロに給油する彼の姿を見つけたので近寄って挨拶した僕に、サトケンさんは開口一番こう言った。

「ゴータ、まだ音楽なんかやってんのかよ、へー」

「あ、はい……」

「もし契約切れてダメになったらすぐ俺んとこ来いよな、まだ若いんだし絶対稼げるぜ」

「え?」

「俺のケータイの番号知ってるだろ。ネットはこれからだから。服も本もレコードも通信販売がこれからメインになるから。嫌味で言ってんじゃないよ、これホントだから。おまえマックでデザイン出来るだろ。困ったら連絡しろよ」

 誰よりも音楽が好きだったはずの彼のあまりの変わりようと攻撃的なテンションに驚く僕を背に、駒沢方面に向けてせわしなくハンドルを切ったサトケンさんはスピードを上げ瞬く間に見えなくなった。

 1999年から通うようになった渋谷宇田川町の Organ bar や、三宿Web で繰り広げられる真夜中の新しい社会は自分にとって居心地が良かった。渋谷 Organ bar、90年代の東京を象徴する老舗クラブでの想い出は数えきれないほどあるが、まず最初に浮かぶのが「フリー・ソウル」ムーブメントを牽引するDJ、選曲家の橋本徹さんと会え、歓喜の夜をいくつも過ごせたことだ。90年代半ば以降、ザ・スピナーズの〈イッツ・ア・シェイム〉の眩いギター・イントロから始まる《Free Soul Parade》、ロバート・パーマーの〈エヴリ・カインダ・ピープル〉を含む《Free Soul Universe》など橋本さんの美学で紡がれたコンピレーションCDによって一世代若い僕らがスポンジのように吸収した70年代ソウルの名曲は数多い。特に僕の人生を大きく変えたのは、1995年5月に彼がコンパイルした2枚、アイズレー・ブラザーズの《グルーヴィー・アイズレーズ》と《メロウ・アイズレーズ》。ワム!が1984年にカヴァーした〈イフ・ユー・ワー・ゼア〉や、ザ・パワー・ステーションが1985年にカヴァーした〈ハーベスト・フォー・ザ・ワールド〉をきっかけに小学生の頃からアイズレーのファンだったつもりの僕だったが、橋本さんが彼らの長いキャリア、膨大なアルバムから選りすぐりの瑞々しいナンバーをチョイスし《グルーヴィー》《メロウ》というテーマで区切りその魅力を凝縮してくれたことが、自分がバンドをスタートさせる上で大きなヒントとなった。

 お酒を酌み交わし大音量の音楽に全身を委ねるクラブは、人間的な距離が近づく。東京に暮らしながら「メディアの中」の登場人物だった様々なジャンルのスターと実際に交流できる、僕にとってはアミューズメント・パークのような場所だった。ファースト・アルバム《I LOVE NY》を貪るように聴き大好きになったニール・アンド・イライザの松田「チャーべ」岳二さんや、カジヒデキさんと初めて話したのは三宿Web でのエスカレーター・レコーズ主催イベント「ESCAPE」の夜のこと。一晩に200人近い客が詰めかけ、まるで満員電車のように混み合ったフロアでは気軽に身動きがとれない。誘われて自分もDJになって以降は特に否応なく自分の作る音楽も影響を受けてゆく。結果、よりダンサブルで「機能的」なパーティ・チューンが増えていった。

 「職業・フランス」と自称するマルチ・クリエイター「アトリエ・ラパレイユ・フォト」の梶野彰一さんと知り合い意気投合したのもクラブでのこと。セルジュ・ゲンスブール、フェニックス、エールなどフランス人アーティストを愛する彼が発売されたばかりのダフト・パンクの新曲〈ワン・モア・タイム〉をDJブースで歌い踊りながらプレイする姿はハッピーなエモーションを周囲に振り撒いた。僕は知り合ってすぐ彼にアート・ディレクターとしてアルバムやシングルのデザインを依頼、その後長きに渡り濃密な共同制作を重ねてゆく。YOU さんとのコラボレーション曲〈DJ! DJ! ~とどかぬ想い~〉が名刺代りとなったおかげで、憧れていたDJ 須永辰緒さんや、小西康陽さん、ヒップホップ界隈のレジェンド達、マイクロフォン・ペイジャー、BUDDHA BRAND、ソウル・スクリーム、そしてライムスターの面々などともオレンジやパープルのライトで染められたカウンターやフロアで乾杯する機会が増えた。タイミング的に1999年がシュガーヒル・ギャングが時代を変えたシングル〈ラッパーズ・デライト〉をリリースしてから20周年という節目だったこともあり、僕らがバンド生演奏で再構築したオールド・スクール的な明るいパーティ・ラップ・チューン、ディスコ的なサウンドにリバイバルの波が来ていたことも新参者があたたかく受け入れてもらえた理由のように思う。

 そうして弟や新しいディレクター竹原君と共にフットワークの軽い僕がクラブに顔を出せば出すほど、そこで新たな出会いが増えれば増えるほど、それまでプロデュースを任せていた師匠・湧井さんとの距離は少しずつ遠くなっていった。

次回に続く

★今回の一曲――Daft Punk - One More Time(2000)

西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としても少年隊、SMAP、V6、YUKI、鈴木雅之、岡村靖幸、私立恵比寿中学などの多くの作品、アーティストに携わる。
日本屈指の音楽研究家としても知られ、近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。代表作に小説『噂のメロディー・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
現在 Amazon Music Podcast「西寺郷太の最高!ファンクラブ」でホストを務める。
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