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なぜ江戸城はあっさり明け渡されたのか 門井慶喜「この東京のかたち」#18

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※本連載は第18回です。最初から読む方はこちら。

「無血」という語は、むやみやたらと様子がいい。国語辞典を引けばまず、

 ――戦争の手段によらずに革命、クーデター等をおこなうこと。

 というような語釈になる。この世でもっとも野蛮で暴力的ないとなみを、もっとも知的で文明的な方法で解決するという人類至高の達成。

 その具体例として誰もが挙げるのはイギリスの名誉革命だろう。勃発したのは1688年だから、日本ではいわゆる元禄時代。ちょうど江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉がはじめて生類憐みの令を出したころ。

 英語の Glorious Revolution の語感もあり、さぞかし紳士的な話し合いが持たれたのだろうと想像してしまうが、実際はどうか。この革命は、ひとことで言うと宗教騒動だった。国王のカトリック推しがあんまり激しすぎるので、プロテスタント派の貴族たちが、海の向こうのオランダ総督に、

 ――兵をさしむけてくれ。

 と頼んだところ、おどろくことに総督みずから上陸してきたので、貴族たちは相次いで馳せ参じた。

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 国王は側近にまで寝返られ、孤立無援となり、ロンドンを去ってフランスに逃亡したというしだい。なるほど血が流れなかったから「名誉」革命というわけだが、しかしこれは単なる結果論にすぎないと見ることも可能である。

 少なくとも総督のイギリス上陸の時点では、双方、戦争する気まんまんだったはずだからだ。どうやら国王派と総督派が知的かつ文明的に話し合った結果と見るのは、なかなかむつかしいようだ。

 だいたい国王とオランダ総督はこのとき対立関係にありながら、同時に義理の親子の関係でもあったので(国王ジェームズ2世の娘メアリが総督オラニエ公ウィレムの妻)、その意味ではこれは革命でも何でもなく、家庭内の権力譲渡にすぎないともいえる。いずれにしても、こんなふうに歴史上「無血」と呼ばれる事件というのは、つぶさに見てみれば、だいたいは未遂に終わった流血にすぎないのだ。スウェーデンのグスタフ3世による王権奪回も、リビアのカダフィによる政権掌握もまず同様だったと思われる。どちらも軍人と行動をともにしている。

(もっとも、イギリス史の名誉のために言っておくと、この名誉革命を機にこの国の政体がいわゆる絶対王制から立憲君主制へ変化したことは事実である。これは世界史の画期だった。王権よりも法律や議会といったものの力が大きく国を動かすようになった点では、たしかに「話し合い」の世の中への大きな一歩ではあった。)

 ならば日本の場合はどうか。和製「無血」の代表は何と言っても江戸城の無血開城だろう。高校の教科書などにも「無血」とはっきり記してあるのではないかと思うが、これははたして知的かつ文明的な話し合いの結果だったかどうか。

 そもそもの話のはじまりは、鳥羽伏見の戦いである。
 慶応4年(1868)1月、京都南郊の鳥羽および伏見の地において、薩摩・長州藩兵を主体とする新政府軍が幕府軍に勝利した。

 幕府側はもちろん勝ったほうですら「ほんとに?」と思ったであろう劇的な結末。それに乗じてヤレ行け、押せ押せとばかり進撃をたくましくする新政府軍。めざすは徳川の本陣、つまり江戸城の攻め落としである。
 実際、彼らは3月6日の時点ではもう甲府に入っていて(以下日付にご注意)、その日の軍議で、

  ――3月15日、江戸城総攻撃。

 と決定している。

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 9日後である。将軍・徳川慶喜はすでにして寛永寺に謹慎しているから大将はいないのだけれども、しかし何しろ江戸の街には、

 ――旗本8万騎。
 と称される将軍直属の親衛隊が駐屯している。いやまあ実際はその駐屯というやつも天下泰平300年のうちに単なる定住と化したわけだが、それでも人数は圧倒的だ。

  もらう給料(米の石高)も多いから、士気も高いと思われる。戦闘は苛烈をきわめるだろう。江戸は火の海になるだろう。だいたい城攻めというやつは、攻め手が勝つにしろ、守り手が勝つにしろ、どっちかが街に火を放つものと相場がきまっている。しかしその最悪の事態は、結局のところ、回避されることになった。

 新政府代表・西郷隆盛、および幕府代表・勝海舟が二度の会談をし、交渉をし、合意をしたことによる。会談日は3月13日と14日。つまり江戸城は、かろうじて前日に総攻撃をまぬかれたことになるわけだ。

 その後の実務は、淡々としていた。4月に入ると新政府側の要人はつぎつぎと入城を果たしたし、5月には、徳川家を相続した6歳の徳川家達(いえさと)の、駿河城70万石への転封が決定した(24日)。

 家達および家臣団は、これにあっさりと従った。たしかに血は流れなかったのである。これをイギリス名誉革命とおなじ知的かつ文明的な達成と見るか、それともイギリス名誉革命とおなじ流血未遂にすぎないと見るかは人それぞれだが、しかし日本の江戸開城があれと大きくちがうのは、これ以後に、大規模戦闘が続発したことだった。

 言いかえるなら、無血開城後に血が流れた。

5月15日 上野戦争(天野八郎ら彰義隊が寛永寺で抗戦)
7月29日 北越戦争(河井継之助ら長岡藩兵が長岡城で抗戦)
9月15日 会津戦争(松平容保ら会津藩兵が若松城で抗戦)
(翌年)5月18日 箱館戦争(榎本武揚ら旧幕兵が五稜郭で抗戦)

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 日付はいちおう、新政府側の勝利が確定した日で統一した。つまり旧幕側は全敗したわけだ。このうち上野戦争は、厳密には徳川家達の駿河転封決定より前に起きているけれども、とにかくこうして年表をながめていると、こんにちの私たちは、

 ――どうせやるなら、なんで開城前にやらなかったのか。

 正直なところ、そう首をひねらざるを得ない。そのほうが兵力の分散も避けられたし、臣下の一分(いちぶん)も立ったろう。さんざん将軍の禄を食んでおいて、いざその危急のときに指をくわえて敵の城入りを見ていましたでは、後世はもちろん、同時代に対しても、かっこ悪いことおびただしいのである。

(なおこの場合、もちろん長岡藩兵と会津藩兵は話がべつである。彼らは将軍直属ではなく、それぞれの藩主に属しているため、江戸防衛および江戸城防衛の義務はないのである。)

 やっぱり旗本どもは、300年の泰平ですっかり腰ぬけになってしまったのだ。尚武の心を忘れたのだ……という批判はかならずしも誤りではないけれども、しかし私には、それは何となく他人の後知恵という感じがする。

 想像力が足りない。もうちょっと彼らの身になって考えるなら、もしかすると、彼らはそもそも江戸開城という事件自体をそう大したものとは思わなかったのかもしれない。

 おどろくに値しない、とまでは言えないにしろ、

 ――あっても、おかしくない。

 そんなふうに見ていた。

 これを考えるとき参考になるのは、当時の用語である。当時の人々はもちろんイギリス名誉革命を知らなかったし、「無血開城」という語も知らなかった。「無血開城」は後代の歴史家が名づけた一種の概念語である。

 私がこれまで開城と呼んできたところのものは、一般的には、お城の、

 ――明け渡し。

 と呼ばれたはずだ。実際、西郷隆盛と勝海舟も、例の2日間にわたる交渉の席ではこのことばを使っている。そうしてこの「明け渡し」の語は、幕末にとつぜんあらわれたのではない。どころか徳川期を通じて一種の流行語でありつづけた。その実例は全国に、つねに存在していたからである。

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 徳川期を通じて、幕府権力はおおむね絶大だった。

 全国の大名から所領を没収することも、あるいは彼らを別の土地へ移動させることも容易だった。前者は改易、後者は転封という。

 もしくは前者は「おとりつぶし」、後者は「国替え」とも。或る統計によれば改易はぜんぶで200件以上、転封は300件以上あったというからたいへんな数だ。なかば日常茶飯事である。そうしてこれらの実行には、当然いちいち城の明け渡しがともなうわけで、ほとんどの場合、じつに平和裡におこなわれた。

 早い話が、赤穂浪士だ。これは幕末から数えると160年ほど前の話になるけれども、播磨国赤穂藩主・浅野(あさの)長矩(ながのり)がとつぜん江戸城内で吉良(きら)義央(よしなか)に斬りかかり、軽傷を負わせたため、幕府はただちに、

 ――浅野長矩には切腹を命ず。その所領は没収する。

 典型的な改易である。家臣たちは全員解雇。浪人ぐらしの始まりである。のちにその家臣たちが、というより旧家臣たちが、

 ――主君の仇(あだ)。

 とばかり吉良邸に乱入して義央その人を殺害したことは、いうまでもなく後年、いわゆる忠臣蔵ものの芝居や小説となって一種の神話と化したけれど、考えてみれば、あの旧家臣たちは、それほど血の気が多かったにもかかわらず赤穂城の明け渡しのときは何らの抵抗もしなかった。

 指をくわえて見ていた、かどうかは知らないけれど、とにかく後任者をあっさり城に入れた。自分はあっさり出て行った。当時のことばでは「引き退(の)く」という。これはほんの一例で、ほかの改易200件、転封300件の場合にもほとんど混乱はなかったようである。

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 接収、退去はつつがなくおこなわれたのだ。もともと改易はともかく転封のほうは浅野長矩のごとき不祥事が原因とはかぎらず、単なる幕閣内の人事異動の反映にすぎないことも多かったから、その場合はなおさらいっそう抵抗の理由がなかったにちがいない。徳川時代とは、無血開城の連続だった。ほとんど「引っ越し」と同義ではないか。

 そんなふうに古今無数に存在する「明け渡し」のうちの最後のひとつがすなわち今回の江戸城なのであると、旗本たちは、もちろん口には出さないにしろ心のなかで思ったろう。

 もともと平和的に事の運ぶほうが当たり前なのだと、理屈ではなく経験則で感じただろう。だからこそ彼らには、

 ――開城前に、戦争すべし。

 という発想がなかった。

 城をまくらに討ち死にするとか、江戸を火の海にするとか、そういう行動を思い浮かべることがなかった。それでも開城後にあるいは上野寛永寺で、あるいは箱館五稜郭で、それぞれ抗戦した連中は、それはそれで臣下の一分を立てたと言うことができるのではないか。彼らはようやく事態の重さを理解した。徳川家達はただ駿河へ「転封」されたわけではなかった、と気づくには、逆に言えば、それだけの心理的手続きが必要だったのである。

 江戸の無血開城は「知的かつ文明的な」話し合いというよりも、こうした無意識のずるずる感というか、時代の余勢で実現した。そういう面があると思う。この意味では西郷隆盛も、勝海舟も、江戸泰平の旗本たちもみな共犯者のようなものだった。あの名誉革命でロンドンを追い出されたカトリック推しの国王、ジェームズ2世が見たら何と言うだろう。

 ――日本人は、自我がない。

 と軽蔑するだろうか。それとも逆に、

 ――大衆の知恵だ。

 と賞賛するだろうか。なおこの国王はフランスに逃亡したあと、まだイギリスをあきらめず、逆襲とばかりアイルランドに上陸してさんざん兵士に血を流させたあげく惨敗した。

(連載第18回、写真・小社杉山拓也)
★第19回を読む。

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。

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