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山内昌之「将軍の世紀」 本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(3)聖堂雨漏るべし、感応寺起さざる可らず――「おねだり」の政治

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。

※本連載は、毎週木曜日に配信します。

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 三方領知替のように「御続合の者ばかり能き事これある段」は、松平越中守定信・松平伊豆守信明・酒井讃岐守忠進(ただゆき)の執政時代にはなく、水野出羽守忠成の登用の頃から起きたことであり、大塩平八郎の蹶起も「公義の悪敷より事起り申し候」と家斉の将軍末期と大御所晩年の失政から生じたと非難する落文も流布した(『荘内天保義民』前篇)。

 田沼意次であれば役職や官位を求めて贈賄した人物たちに対して事が成就しないと返金したのに、忠成は同じ役職の競争者から金を全部とりこんだというから老中や側用人の職を汚す点では際立っていた。藩主になってすぐ水戸斉昭は忠成を収賄や「色々の不正」で田沼より甚だしく、若年寄・御側・勘定奉行らも同類であり、根を絶てば枝葉は枯れると老中・大久保忠真に告発したが、具体的な証拠や罷免の道筋を提起できないあたりにこの人物の限界があった(『水戸藩史料』別記上、国会図書館DC二七コマ)。忠成はある日、町奉行に台附なる手軽な富籤の取締を厳命したところ、もっと大きな富籤を禁止せずに、小前の台附を減らせるはずもないと陰口をきかれたという。これは富籤がもともと湯島天神・芝神明・感応寺に限られていたのに、忠成への賄賂の効き目で三十三箇所にも増えた結果、正業を極める者が減り商売も不景気になった点をあてこすったのだろう。台附は一文でも二文でも買え、一文で当たる時は八文となり、八文が六十四文となる勘定でおおいにはやった。親の富籤がなくならないのに、子の台附がなくなるはずもなく、まずは社会悪の本尊の富籤興行厳禁をと同僚に迫られても、忠成は放置せざるをえなかった。忠成の道理に合わない政治は予算支出にも表れた。湯島聖堂の修繕費八百両足らずを認めずに、感応寺の建立新築費の十八万両の大金をすかさず認めるといった塩梅である(『想古録』1、一三三。2、九四四、一一二五)。それでは、日蓮宗に戻すなら年間三十万両を幕府に献納すると約束しつつ運動した霊験あらたかなのか、新規建立が認められた感応寺とはいかなる仏閣なのだろうか。ここに半世紀に及ぶ家斉の長期権力の腐臭と汚濁の原因を探る手がかりが潜んでいる。

 雑司ヶ谷の鼠山感応寺はもともと谷中にあった長耀山感応寺の流れを引く。元禄十二年(一六九九)に、『法華経』の信者でない者の布施を受けず与えもしないという日蓮宗不受不施派問題のあおりをくらって天台宗に改められた寺であるが、桜桃の二花で春爛漫となり人気を博していた。かつて会式(日蓮追悼)が行われ「貴賤群集なしける」賑わいだった(『江戸名所図会』五。『新訂東都歳事記』下)。家斉の愛妾・お美代は池上本門寺四十八世の日萬の意も受けて、溶姫付老女・染嶋を頤使しながら、東叡山から感応寺を奪おうとした。一つには、富籤の巨大利権を手に入れたかったからだろう。この欲得は鞍馬寺を滅却して比叡山を破壊するがごとしと寛永寺から強烈な逆ねじをねじこまれた。富籤の利権の取得には失敗したにせよ、ともかく感応寺という寺号を返してもらい、天保五年(一八三四)五月に雑司ヶ谷村鼠山の三万坪に及ぶ土地に新感応寺の伽藍を建立させた。老中・水野忠成の気前よさによることはすでに述べた。将軍家菩提寺の上野寛永寺に掛け合うだけでも相当に腹を括らなければならない。熱心な法華信者の多い大奥を押さえたお美代は、ただ「沈魚落雁閉月羞花」(月が雲間に隠れ、花が恥じてしぼむ)の美女だっただけではない。怜悧捷給とは彼女にこそあてはまるのだろう。頭の働きが鋭く話し方が巧みで応対がすばやい様は、まるで幕政を動かしていた四高官の家老用人の才気を一緒にしたようだと褒められた。老中・水野忠成の用人・土方丹下(縫殿助)、若年寄・林忠英の家老・広部広平、側用取次・水野忠篤の家来・黒田仲左衛門、側用取次・土岐朝旨(ともむね)の用人・保田茂左衛門はいずれも利け者として通っていた(『三田村鳶魚全集』第一巻)。

 お美代の信じた日蓮宗の人気は大奥で他を圧した。感応寺建立の「おねだり」は、お美代が日頃切った家斉の手足の爪を三つの日蓮像の腹に入れて、身延山と大奥と新寺に安置したいとのことだった。家斉実父の一橋治済重篤の時にも日蓮宗僧侶は祈りを続けたが、その甲斐なく死去した。その時の言い分が振るっている。

「祈りはききたれども御寿命はなき時節なればぜひなし」と。それでも祈料二百金を求めたというから図々しい。さすがに一橋家は死去したのだから払わないとあしらった。「そのとき寿命なり」としつこく食い下がったらしい(『三川雑話』天保八年丁酉、九年戊戌)。

 鼠山の方は、天保七年から十二年まで六年間に、本堂・客殿・庫裡・玄関・惣門が建てられた。御三家・御三卿はじめ、お美代が生んだ溶姫の嫁いだ加賀前田家や末姫の安芸浅野家はもとより、家斉の子女の続柄となった大名たちはこぞって祈禱や寄進に熱心であった。お美代らは、本堂竣工・家斉隠居・西之丸移徙など大行事の度に何かとこじつけて、祈禱や代参や奉文を通じて感応寺と大奥ひいては将軍・大御所との関係を強めて幕府から寺領三十石を拝領する強盛ぶりだった。開堂供養の七日目施主を勤めたお美代は、大奥の日蓮宗勢力をまとめて、天台宗寛永寺、浄土宗増上寺と並んで日蓮宗感応寺を将軍家菩提寺にしようと企てたようだ(畑尚子「宗教・信仰と大奥」『論集 大奥人物研究』)。

 大奥は、水戸斉昭が天保六年四月に老中・大久保忠真に明言したように私の見聞する限りでも「莫大の御費」なのだから、私の知らないことにどれほどの費えがあるのか計り知れない。斉昭は、大奥に限らず奢侈を抑えるだけで「格別の御益これあるべく候」と提言していたが(『水戸藩史料』別記上、国会図書館DC三一コマ)、実現の道筋を具体的に描けなかった。これは、大御所・家斉が生きている限り、大奥を仔細に取り調べるなら火の粉は必ず家斉にも及ぶからであった。斉昭は天保九年九月の書状で老中・水野忠邦を相手に、しきりに「牝鶏の害」(女性が政治に口を出す悪行)とか「後宮権を弄び候婦女」(大奥で権勢を振う女性たち)を批判した上で、「万一後宮の婦女奸僧へ党与致し候事にも候ハバ厳重糾弾すべき事に御座候」と大奥の女性と破戒僧或いは売僧(まいす)との結びつきに警戒心を促している。しかし、大奥が幕府政治の癌たることは政務を執る老中なら誰でも知っており、規制の筋道を描けないから歴代の執政は苦労したのだ。定信のように予算削減でプラグマティックに対処するか、忠成のごとく大奥の意を迎えるか、やがて登場する阿部正弘のように妥協しつつ政策貫徹をはかるか、いずれかの道しかない。斉昭は「たとひ二、三の婦女老女(引用者補足)また死に候ても、また二、三の婦女代りて権を取り申すべくいつ迚も陰気増長いたすべし」と憂えるのはよいとして、牝鶏から羽翼もぎとる証拠を握り罪を鳴らして「群陰退散一陽来復の大機会」が到来と楽観視できただろうか。斉昭の書状が出された天保九年は大御所家斉が老いてもまだ実権を手放していない。斉昭が政策項目として、贅沢三昧の中止・貨幣改鋳による物価騰貴・閣老の政道不明・側用取次の専権などを批判的に列挙しても、いずれも家斉の奢侈と遊興を支える上で必要とされた政策だから、大御所が逝去しない限り「一陽来復」の機が来るはずもない。また、「女謁専ら行ハれ候事」と大奥の女性がひそかに大御所・将軍にねだることは、それを許した君主の狭量あるいは雅量こそ問題にすべきであり、儒学道徳で女子にすべての政治的失敗を押し付けられてはたまらない。

 さらに感応寺建立についても触れているが、これも家斉の裁許によるものだ。しかも斉昭は、往時の護持院と似ているが「法華の盛なる勢同日の論にこれなく候」と綱吉と比べても家斉が格段に強い将軍・大御所権力を行使したと示唆している。また斉昭は、「後宮権を弄び候女子」が増上寺安国殿を参拝してから病になり毎月家康の命日十七日に体調を崩したと酷評している。斉昭は自注でこれを老女・野村とし、その者と飛鳥井と瀬山は権勢があり表役人の任命も賄賂で決めただけでなく、将軍御側の小姓や小納戸の希望者は三人に頼んだと明記する(『水戸藩史料』別記上、国会図書館DC四四コマ)。

 さて、この野村は第十代将軍・家治の時から本家付老女を務め、家斉から家慶への代替わりに際しても上臈御年寄になる飛鳥井と一緒にずっと本丸で仕えた。他方、瀬山は家斉が大御所になるとその御年寄となり、死ぬと本丸に戻って飛鳥井、野村とともに家慶の大奥を仕切っている(『徳川政権下の大奥と奥女中』)。水戸斉昭は老女たちの名を公然と明かしても、時に「御直御願」と呼ばれる御台所・寔子(ただこ)の家斉への口頭での「おねだり」や、子を儲けた愛妾たちの「おねだり」に触れないのはどうしたことか。なかでも、家斉が晩年もっとも寵愛したお美代は感応寺建立の仕掛け人なのに、それを臭わせることすらしないのは何故なのか。

 お美代の身元はかなり謎に包まれている。公には、清水家小姓・内藤造酒允就相(よりすけ)が娘に貰い受け、小納戸頭取・中野播磨守清茂(致仕後に石翁)の養女として大奥に入った。本丸御次から御中臈に上り、溶姫・仲姫・末姫を生んだことはよく知られている。御上臈御年寄上座まで進んだ身分は、御台所を除けば大奥の老女たちの頂点である「お清」の上臈年寄を越える御方様にほかならない。その実父は、下総中山・法華経寺の智泉院(日蓮宗)住職の日啓とされてきた。そして、中山法華経寺は将軍家祈禱所となり、智泉院はその「御法用取扱」となっていたが、天保十二年の家斉急逝による政変で五月に智泉院を手入れした寺社奉行・阿部伊勢守正弘が大奥取締の役職・留守居宛に届けた「達し」によって、その資格を剥奪された。そのうえ、雑司ヶ谷の感応寺は廃寺となり寺領も没収となったと阿部正弘は伝えている。日啓(現・八幡別当守玄院)は「清僧」でありながら百姓の後家りもを尼・妙栄と名乗らせ「密通のうえ度々女犯に及び候次第」で遠島処分とされた。また子の現・智泉院住職の日尚は「清僧」で将軍御用の祈禱を勤める身分でありながら船橋の旅籠でその下女ますに酒の相手をさせ、「密通のうえ度々女犯に及び候段」で晒し(江戸日本橋)となった(『藤岡屋日記』第二巻、第拾三)。感応寺は巨費を投じて建立したのに、解体など人足費用が七百両もかかるので、いっそ雨天の日を選んで焼き捨てるかという物悲しい話になる。いくらなんでもこれはひどく、阿部正弘は池上本門寺の願いで本堂ほかを取壊して木材を引きとらせる形式にした(『遊芸園随筆』十一)。家斉とお美代の壮大な無駄遣いは幕府の寿命を縮めたにすぎない。

 押込めを命じられた妙栄やますは気の毒にも思えるが、二人はとんでもない政治の渦にまきこまれたのだ。また、清僧とは肉食・妻帯をせず品行方正な僧を指し、どことなく大奥の「お清」を思い出させておかしい。日尚とますとの行為は「住職以前の義には候えども」罰せられたのは、智泉院・感応寺と大奥との関係を表に出さず、構造的に大奥と僧侶との間で繰り返される醜聞を「清僧」による後家・下女への破戒行為にすり替えたかったからだ。この背景は、『藤岡屋日記』の阿部正弘の「達し」のすぐ後に付された一文書を仔細に読むと浮かび上がってくる。「下総国葛飾郡 正中山法華経寺塔中 智泉院」から始まる日啓と日尚などの続柄に関する文書は寺社奉行が関係者への処分通知に添付した可能性を排除できない一方、その史料的性格を厳密に判定しきれない要素を残している。たとえば、「於美代方、溶姫君様御腹」と家斉の子を産み加賀前田家に嫁がせた側室と破戒僧との近親関係を公然と書けたのは何故かという疑問である。しかも、十六年前に病気で退院した住職(法号不詳)の二男二女のうち一人が日啓で女一人を於美代(おみよ)とするなど貴重な情報を含みながら、両親の名を明らかにしていない。二人の母が同じかどうかも分からない。日啓とお美代が親子でなく、兄妹である事実はこれまで証明されていない。さらに、お美代のもう一人の兄は船橋で旅籠屋を営む市兵衛であり、「右お美代の方」は市兵衛の「宿請」で石翁方に奉公し、「後又石翁の養女ニ致し、大奥え御奉公ニ出、追々昇進致して御中臈ニなる也」と記しているのはほぼ間違っていない。寺社奉行史料だとすれば、女性と不義密通を重ねた咎で遠島処分を下した日啓の子がお美代であっては、さすがに家斉の威光にもかかわるので不義色を少しでも薄めるために妹と記録したのかもしれない(『藤岡屋日記』第二巻。『日本都市生活史料集成』二所収、『藤岡屋日記』天保十二年条)。いずれにせよお美代は不義の子である可能性が高い。事情通の『燈前一睡夢』は、「その実の素性は、感応寺の邪淫に出生せし児也」と遠慮がない。そのうえ、日啓のために「殊に日蓮宗ゆへ、肉食女犯は勝手次第と申すこと」とまで法華の徒に手厳しい(『鼠璞十種』下巻所収)。 

 ほぼ事実として、お美代のおねだりで文化七年頃(文政三年説もある)に智泉院は将軍家御祈禱所となり、天保四年には本丸大奥女中の中山法華経寺参詣が実施された。天保六年になると日啓は徳ケ岡八幡別当守玄院住職となり智泉院は一人おいて実子・日尚が住職となったのも間違いない。大御所時代になると、お美代と日蓮宗の力はますます威をふるい、感応寺や智泉院への代参がはやった。大八木醇堂は祖父からつぶさに聞いた話として、感応寺の住僧の不行跡はとても延命院日道らの「はるかに踵及ぶべきにあらず」、「住職を初め、伴僧等申し合せ、各自に競争して不義を行ひ、これに姦通し」という行いが目にあまるようになったという(『燈前一睡夢』)。延命院事件は享和三年に日道が坂東三津五郎、市川男女蔵ら歌舞伎役者四名を寺で大奥女中に取持ち、日道らも女中らと通じた廉で斬首となった事案である。阿部正弘はお美代ましてや家斉の権威に累が及ばないように智泉院事件を巧みに日蓮宗僧侶親子の女犯にすりかえたのだ。延命院事件を摘発した寺社奉行・脇坂中務大輔安董(やすただ)、智泉院・感応寺事件を処理した寺社奉行・阿部正弘はいずれも老中まで昇進するパワー・エリートである。その彼らをもってしても大奥という聖域に立ち入るのはむずかしかった。それは、将軍を中心とする権力が大奥の側室・老女の小宇宙、奥(中奥)の側用人・側用取次という別の小宇宙を軸に排他的な人脈によって成立していたからだ。将軍或いは大御所の表の役人といえども、大御所らの「御思召し」なる御用の実施を妨げ予算支出を拒否することはできない。勿論、政務を仕切る表はかなり完成された官僚制の小宇宙であるが、いかに将軍の大命を受けても三つの空間のすべてにまたがる幕府という大宇宙の統御者ではない。そのすべてを結び付けられるのは将軍をおいていない。賢明であれ暗愚であれ、将軍の意志なくしてそれぞれの空間が自律的に動くことはない。

 老中であれ、寺社奉行であれ、感応寺や智泉院の醜聞を大奥との関連であばけないのは、そこに家斉との関係が出てくる惧れがあるからだ。何故なら、いわゆる三佞人と中野碩翁は、奥で勤務するか、機嫌伺いに現役同然に出仕するだけでなかった。彼らは大奥に縁者や養女を送ることで大奥老女もしくはお美代のような側室を自らの分身ないし代弁者として丁重に扱ったのである。

 実際、お美代が将軍の内意や下賜品を養父石翁や幕府役人を通して大名たちに通したことは、古河藩の「御内用日記」からも知ることができる。たとえば、文政四年(一八二一)八月に家斉は浜御殿で取れた冬瓜三個を「此の節の御薬」(夏バテ対策の食品)として土井家に贈り、先日下賜した金魚はその後成長したか、と「中野様御娘女様」(お美代)を介して尋ねてきた。そこで当主・土井利厚(実は老中首座)は直筆で御礼口上書を出している。文政六年十一月には御庭の菊苗一鉢を土井家に遣わすようにお美代に沙汰があり、御錠口から石翁に渡された。御錠口とは、大奥と奥をつなぐ二本の鈴廊下のうち下鈴御廊下の方であろう。厳格に性が隔離された両空間をいともたやすく往来できたのは家斉の威光があればこそではないか。土井家は利位(としつら)に代替わりをしていたが、すぐに拝領御礼に植木鉢二、かハり鯉一を「内献」している(「御内用日記(文政三~同七年)」、文政四年八月十日条、文政六年十一月廿四日、十二月三日各条、『鷹見泉石日記』第一巻所収)。

 古河藩が大奥のなかで恒常的に品物や金を贈っていたのはお美代だけだった。御三卿の一橋や清水、側近の中野や林と並んで「大奥御勤之御娘様」「御息女様」が初めて日記に出るのは、文政三年九月廿一日の縞縮紫紅二反と御裏地紅一疋を献上した時であるが、文政五年正月廿日の縮緬三反箱入、四月二日の紅白縮緬三疋、六月八日のすきや縮三反箱入と続くのは、十二月に新藩主・利位が老中への登竜門たる奏者番の心願をまず雉子橋(御三卿の清水斉明)に提出したのと無縁ではない。奏者番に次いで寺社奉行兼帯を目指して、大奥の好意的な取りまとめをお美代に期待したと思われる。お美代にはそれだけの辣腕と伎倆があったのだろう。他方、『燈前一睡夢』の言葉を借りれば、彼女は禍心をもって「長舌の厲階を為せしも多かるべし」(婦女のおしゃべりで怒を招く悪の緒を多く作ったに違いない)。

 阿部正弘はこの構造を知っており、政治生命の喪失が怖くて大奥や奥の全面摘発をできなかった。将軍を囲繞する側室・側近を核とし、大奥と奥を中心に表の政治空間に連なる排他的人脈とまず友好関係を築かねば、定信は無論、水野忠成も、水野忠邦や正弘さえ老中になるのは難しかった。家斉以降の将軍権力は、もはや徳川吉宗の藩屏ともいうべき御三卿や、家康以来の御三家はたまた三河以来の門閥譜代ではなく、将軍と大奥の側室・上臈上席者と、それにつながる奥の側近集団(側用取次・小納戸頭取など)の連携した少数派に握られたといっても過言ではない。この構図を作ったのは家斉であり、その排他的発言権は家慶や家定の時代まで残り、大老・井伊直弼を登用し一橋慶喜を斥けて第十四代将軍に紀伊慶福(家茂)を押し立てる原動力となった。斉昭がいくら正論をぶってみても、そのエスプリ・ザニモーを嫌った大奥は将軍と側近集団と結束しながら、権力中枢に入ろうとする斉昭ひいては一橋派を排除したのである。大奥に倹約を実行させ、幕府財政の改革に協力させるのは定信でさえ絶望的に困難であった。本丸大奥御右筆から出す文箱は、長さ九尺ほどの総(ふさ)のついたフクサ糸の紐で巻かれていたが、紐の簡素化を求めると、これは御寿命紐というのであり上様の御寿命を縮めよとの御心かと一本とられた。(関口すみ子『御一新とジェンダー』)。

 大奥の経費は一か年におよそ二十万両であった。定信は、幕政を仕切った寛政元年から五年にかけて、納戸などの八か所役所経費を除いた奥向経費(女中合力・扶持方)の一年平均を二万六千両余に削減した。大奥金方全体では七十%も削ったといわれる。しかし、家斉が親政を始める文化十一年になると、奥向経費は五万両に増え、その後も上昇を続ける一方であった。家斉死亡の三年後、弘化元年(一八四四)の米方の場合、奥方合力米・女中切米扶持が六千三百石、ほかに前田家に嫁いだ溶姫、浅野家に出た末姫、水戸家の峯寿院(峯姫)などに合力米六百五十石余が出されていた。溶姫と末姫はお美代の方の娘である。総計が六千九百六十石余で幕府全体の米方総支出の一・一%である。しかし金方になると幕府の負担がぐんと上がる。奥方合力の三万両余はじめ、「奥向別段御入用」が八千四百両余、天保十五年に死んだ広大院(家斉正室・寔子)の「御遣金幷被下金」(おつかいきんならびにくだされきん)一万二千三百両余、同人の葬儀・法事費用四千六百両、納戸などの八か所役所経費二十四万八千九百両、これらを合わせて金方支出の総計は三十四万五千両余となり、貨幣改鋳の原資を除いた幕府全体の金方総支出の十五・五%に上昇する(飯島千秋「大奥の財政」『徳川「大奥」事典』)。

 定信の大奥改革はその経費の三分の一まで減らしたが、女中の不満は大きく、倹約は「奥から壊(くず)れて来た」「いつでも奥の方から壊れて来る」と回顧している(『旧事諮問録』上)。大奥とはそれほど難しいところだったのである。明治も末になってからでも最後の将軍・慶喜は、「大奥の情態を見るに、老女は実に恐るべき者にて実際老中以上の権力があり、ほとんど改革の手を著くべからず」と述べたほどだ。また、大奥の改革に着手したことがあるかとの問いにも、「いや、無い、手を著けてはむずかしい」と答えている。正直なところだったろう(渋沢栄一編『昔夢会筆記』)。大奥改革は容易ならぬことであり、父・斉昭のような直情径行の士からはいちばん遠い世界であることを最後の将軍は理解していたのである。

★次回に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
 
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