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迫り来る医療崩壊 「命の選別」が始まる

新型コロナウイルス患者への対応でひっ迫する医療現場。「高齢者から人工呼吸器を外すべきか?」。医師たちが直面する「究極の倫理」とは。/文・河合香織(ノンフィクション作家)

河合香織氏 プロフィール写真

河合氏

医療資源は限られている

新型コロナウイルスの感染拡大により、医療はひっ迫しつつある。その要因のひとつは院内感染だ。

「今、私は自分のPCR検査の結果を待っています」都立墨東病院の最後の砦・救命救急センターの閉鎖が決まった翌日の4月22日、同センター部長である濱邊祐一医師は口を開いた。医師7人の感染が前日に判明し、院内感染者数は39人に上っていた。

墨東病院は都内に4つある第一種感染症指定医療機関で、クルーズ船の時から感染者を受け入れていた。だが、院内感染は受け入れたコロナ患者から発生したわけではないという。4月14日の午後に院内感染が判明し、17日には濱邊医師から「今、墨東病院閉鎖の瀬戸際です」と返信があった。新規の入院や外来受け入れ停止が決定される以前から救命救急センターに入院していた患者にも感染者が出た。別の疾患で搬送される患者がコロナに感染していることも想定し、この間センターの医療従事者は防護服を着て診療していたが、逆に病院内で患者に移ってしまった格好となった。

「当該患者に濃厚接触したと認定された医療従事者は、PCR検査の結果が陰性でも2週間の自宅待機を命じられ、センターを停止せざるを得ませんでした」(濱邊医師)

日本救急医学会と日本臨床救急医学会は4月9日の時点で、「医療崩壊が生じる際の最初の兆候は『救急医療体制の崩壊』ですが、これは私達がすでに実感しているところです」と声明を出していた。発熱や呼吸器症状などコロナが疑われる患者を受け入れる病院が少なくなり、救急搬送が困難な事例が増加。その結果、救命救急センターで肺炎疑いの患者を受け入れざるを得なくなり、緊急を要する重症患者が治療のタイミングを逸することを危惧した内容だった。

すべての命を救いたいという思いは、どの医療従事者にも共通の大前提だ。けれども、人工呼吸器に「エクモ」と呼ばれる人工肺、ICUベッドやコロナ患者用のベッド、医療スタッフや環境整備スタッフの人的資源は患者が急増すれば限られてくる。さらに医療資源が不足すれば、「命の選別」は避けて通れなくなる。

「たとえば救急隊の要請に病院が応需するかについて、コロナ以前と比べて年齢が大きな要素になっています。様々な医療資源の投入の多寡(たか)について、かつては隠然と無意識下で行われていた年齢による線引きが、コロナ以降はより意識化されたものになると考えます」(濱邊医師)

本稿執筆時点(4月下旬)では、1台しかない人工呼吸器を誰に使用するかを悩む事態には直面していないという。だが濱邊医師は「現に行われていることとして、高齢者、あるいは基礎疾患を有している新型コロナ患者の場合、治療は高流量酸素の投与までとし、それ以上の集中治療は予後不良につき医学的適応がないと対処しています」と指摘する。

その一方で、院内感染のコロナ患者の場合はたとえ80代で基礎疾患があったとしても、できうる限りの治療をしているという。

「感染症は運命的な部分があります。けれど、院内感染は人為的なもので防ぎ得たと見なされるからです。その部分についてはやれるだけのことは最後までやります」

人工呼吸器をどう配分するか

年齢か、医学的適応か、本人の意思か、それとも一切選別しないのか――。命の選別といっても何を基準にするかは、我が国ではコンセンサスはない。

4月22日、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の記者会見で、尾身茂副座長は人工呼吸器などの医療資源の配分は重要な問題であると強調した。さらに、記者からの「市民も一緒に考えるべき問題なのか」という質問に、専門家会議の武藤香織委員(東京大学医科学研究所教授)は、「難しい判断を医療従事者だけにさせてはいけない。優生思想からの危惧も出ている。あくまでも緊急事態に限ったものとして学会を中心に原則となる考え方を決めることが大事だ」と述べた。

これに先立った3月末、医師や弁護士から成る生命・医療倫理研究会の有志は人工呼吸器配分の判断プロセスの提言を発表した。この提言の「はじめに」には、我々が重い局面に立たされていることを示唆する文章が書かれている。

〈このような非常時は、災害時医療におけるトリアージの概念が適用されうる事態であり、これまで私たちが経験したことのない大きな規模で、厳しい倫理的判断を求められることとなる。これは、一人ひとりの患者に最善をつくす医療から、できるだけ多くの生命を助ける医療への転換が迫られるということである〉

提言をまとめた医師で医療倫理を専門とする竹下啓・東海大学教授によると、考えられるケースは大きくわけると2つあるという。1つは治療を開始する際のトリアージである。たとえば人工呼吸器が必要な人が3人いるのに2台しかないような場合を想定する。2つめは、空いている人工呼吸器がなくなった状態で、救命可能性の低い人から人工呼吸器を外して、新たに来院した救命可能性がもっと高い他の患者に装着する再配分である。後者の方が医療従事者の倫理的なハードルは高い。

「慎重に行うべきですが、医療資源がどうしてもない場合は、救命可能性が低い人から人工呼吸器を取り外し、救命可能性が高い人につけることは容認されるべきではないかと考えています。もしもそれを否定するのであれば、明らかに助かる命を諦めることを社会として受け入れるという選択をしたことになります」

本人の事前意思を尊重

提言では医学的適応による制約を原則としたが、本人の事前意思を尊重することを盛り込んでいることが大きな特徴だ。海外では非常時のトリアージでは本人の同意やインフォームド・コンセントは必要ないという意見が大半である。トリアージと本人の意思の尊重は対立する概念になり得る場合もあるが、どうして本人意思を前面に押し出したのか。

「同意なく人工呼吸器の取り外しをした場合、日本では医療従事者が非常に重い法的社会的なリスクを抱えます。過去の最高裁判例を見ても殺人罪に問われる可能性もあるし、民事訴訟も考えられる。事前に意思表示をしてもらうことで、本人の意向に沿うこともできるし、医療側の負担を減らすこともできます」

2019年、東日本大震災の際に95歳で亡くなった女性の遺族が、病院正面玄関で行われたトリアージに過誤があったとして約3200万円の損害賠償を病院に求めて提訴した。この訴訟は同年末に和解が成立したが、トリアージに特別な免責事項はなく、法的整備を急ぐべきだという声も広がった。

「法的な懸念があると医療現場は萎縮してしまい、患者のためよりもリスクの少ない選択をしようとしてしまいます。一定のルールを作らないと極端な選択がなされてしまうことも考えられます」

新型コロナウイルスは感染症であるがゆえ、家族との面会もままならない。本人の意思がわからない場合、家族による推定意思が適用されるため、万が一の時にどのようにしたいかを日頃から話し合っておく必要があると竹下教授は強調する。

「集中治療を譲る意志カード」

本人の意思を尊重してほしいという意見は、当事者からも出ている。

大阪の男性更年期外来で診療する石蔵文信医師は、「新型コロナウイルス感染症で人工呼吸器や人工肺などの高度治療を受けている時に機器が不足した場合には、私は若い人に高度医療を譲ります」と書かれた「集中治療を譲る意志カード」を作成し、署名して携帯している。

「妻や娘にも話をしたら、『いいんじゃないの』と言ってくれました。医療資源が十分あって助けられるなら、私も助けてもらうでしょう。プランはABCと順にあり、これはプランZのどうしようもない場合のことです。そういう時には、若い人が高齢者に電車で席を譲ってくれるお返しに、今度は私が若い人に集中治療を譲りたい」

石蔵医師は、かつて国立循環器病センターで働いていた。移植をすれば命が助かる若い人がいて、譲りたいという意思を持つ人もいた。だが、臓器移植法ができるまでは助けることができない苦悩を抱えていた。現在64歳だが、今年2月にがんの全身転移が判明し、余生を真剣に考えたのだという。

「私は医師の端くれとして、主治医に命の選択をさせるのは忍びないのです。誤解しないで欲しいのは、このカードを無理やり押しつけようとは思っていません。また障害がある人は対象としていません。あくまで自発的な意思がある高齢者が意思表示すればいいと考えています。現時点で知る限りでは、このカードを持っているのは私だけです」

カードは「社団法人日本原始力発電所協会」のホームページからダウンロードできる。この協会は自転車を漕ぐことで発電しようという試みを実践。高齢者が健康的に社会の役に立つ方策の一助になればと石蔵医師が設立した。
「譲ることは善意ではなく、美談にもしてほしくない。私は命を選別されるのではなく、人生は自分で選択したいという思いから譲る意思表明をしました。価値観はそれぞれ違う。私もこう言っていても最期はもしかして後悔するかもしれない。それでも後悔を含めて自分の人生だと思っています」

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