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『論語』(後編)|福田和也「最強の教養書10」#6

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回は、東洋において広く読まれて、歴史上の人物に多大なる影響を与えてきたこの1冊。(後編)

★前編を読む。

『論語』の原文は二十篇から成っている。篇名は「学而」「為政」「八佾」「里仁」「公冶長」……とあるが、これは各篇の数文字をとっているだけで、内容に即しているわけではない。

 こうした『論語』が成立したのは、漢の時代である。孔子の死後、弟子や孫弟子たちは孔子の言葉や行動を記憶し、筆録して世に伝えたが、それには三つの系統があった。魯に伝わる「魯論」二十篇、斉に伝わる「斉論」二十二篇、孔子の子孫の家の壁に塗り込められた「古論」二十一篇である。
漢の武帝は儒教を国教と定めると、「魯論」と「斉論」を折衷した二十篇を編纂し、それを『論語』と称した。以降、それが正式の書としてひろく読まれるようになった。

 同時に孔子の地位も高まった。それまで儒教の学徒の間においてだけ、私的に聖人としてあがめられていた孔子は、帝王をはじめ全国民によって先師として尊敬される存在となったのだ。

 それでも唐代までは孔子の地位は不安定だった。当時の儒教は堯・舜、夏の禹王、周の文武、周公など古代の帝王の道を学ぶものであり、孔子はそうした先王の道の紹介者でしかなかった。

 ところが、宋の時代に朱熹が、儒教の道は先王の創作ではなく天から与えられたものであり、その道を最も究めた孔子こそが偉大であるとし、孔子の地位を先王よりも高めた。

『論語』は『大学』、『中庸』、『孟子』とともに四書と称され、儒学において、『易経』、『詩経』、『書経』、『春秋』、『礼記』の五経よりも尊重されることになった。

 朱熹が大成したこの朱子学は官学の中心となり、その正統的地位は清の末まで続いた。『論語』は中国全土に広まり、科挙の出題の原典にもなったので中国の知識人で『論語』を学ばない者はなくなった。こうして『論語』の精神は中国社会の根本にまで浸透していったのだった。

『論語』の原文自体は漢の時代に編纂されて以降、変わってはいない。原文は儒教の理想であり、神聖なものなので、それを勝手に改定することは許されないからだ。

 しかし、注釈書はたくさん出た。そもそも『論語』が正式に編纂されたのは、孔子が死んで四百年も後のことであり、当時でも意味の分からない言葉があった。当然注釈が必要となったわけだが、やがて言葉の意味だけではなく、大きな解釈も示されていくようになった。後世の儒学者たちは『論語』をいかに解釈するかによって自分の思想を表そうとしたのである。

 三世紀の何晏の『論語集解』は、漢代の大儒である馬融や鄭玄らの注と彼の同時代の経学者の諸説を広く収集してとりまとめたもので、『論語』を読む上で最も基本となる注釈書とされ、「古注」と称されている。

 これに対し、十三世紀に南宋の朱熹は『論語集注』によって新解釈を打ち出し、この注釈書は「新注」と呼ばれている。

『論語』が説いている最高の道徳、それは「仁」である。「仁」という言葉は二十篇を通して繰り返し出てくる。弟子に「仁」について問われれば、孔子は答えてもいる。

 顔淵に問われたときは、「仁とは私心に打ち勝ち、普遍的な礼の精神に立ち返るのが仁だ。殊に主権者は、一日だけでも私心に打ち勝って礼に立ち返るなら、天下の人民はその一日中、その人徳になびくものだ。仁は個人の心がけの問題だ。相手によって変わるものではない」と答えている。ただ話が漠然としすぎていて分からなかったらしく、顔淵に「もう少し詳しく説明してください」と言われ、「礼に違うことは見ようとするな。礼に違うことには耳を傾けるな。礼に違うことを口にするな」と補足説明をしているが、それでもまだ漠然としている。

 仲弓に問われたときは、「家の門を一歩出たならば、いつも大事な賓客を接待するような張り詰めた気持ち、人民を使役するにはいつも大切な祭祀を執行するような厳粛な態度、自分の欲しないことは、人に加えてはならない。一国の人民から怨まれることなく、一家の使用人から怨まれるようなことをしない」と答えている。具体的ではあるけれど、「これが仁だ」という決定的な説明にはなっていない。

 司馬牛に問われたときは、「仁者はその言葉が遠慮がちでつかえるものだ」などと答えている。「言葉につかえるくらいのことで仁といえるのですか」と問われると、「真剣にものを考えるから言葉がつかえるのだ。口先だけで言うから言葉がつかえないのだ」といなしているが、これもまた煙に巻くような答えである。

 この点については、西部先生との対談の中でも大きな問題となった。先生は、「『仁』は、いってみれば人間性の完成であるから、孔子といえども簡単に説明できなかったのではないか」とおっしゃった。

 子曰く、巧言令色には、鮮ないかな仁。(学而篇)

『論語』の中でも有名なこの言葉の意味は簡単に言ってしまえば、「言葉が巧みで恰好つける者には仁において悖(もと)るところがある」だが、そんな単純な意味ではないと、私たちは考えた。

「仁といえども、やはり人間ならば言葉をもって表現せざるを得ないし、言葉というのは人間が表現するわけだから、人間の恰好における、たとえば容貌であれ、顔色であれ、言葉遣いであれ、すべてを駆使して表現せざるを得ないとなると、仁とは何かというふうに考えれば、最も巧みな言葉そして最も恰好のいい姿、それが仁だということになっているんじゃないか」「『巧言令色、鮮し仁』のなかには、本当の仁としての巧言令色がどれほど難しいかということについての自覚を持て、ということも解釈として含まれているのではないか」というのが、西部先生のお考えだった。

 私も同様の考えを持っていた。巧言令色の極致を考えていくと、それは「詩書礼楽」になる。きちんと言葉を使って、きちんと風儀正しく行動することが「仁」の表現となる。考えていることを多少うまく言おう、うまく人に応対しようということがなければ、先王の理想たる刑政礼楽などというものができるわけがない。だからこの言葉が意味するところは、浅薄な巧言令色では到底仁を表現できない。仁の表現の難しさをいっているのだ。
『論語』の言葉は一見平凡である。また読めばすぐに分かる平易な言葉で書かれている。だからこそ、考えれば考えるほど深い意味が湧いてくるのである。

 また『論語』には中国古来の思想が色濃く反映されてもいる。

 葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘む。而して子、これを証せり。孔子曰く、吾党の直き者は是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中にあり。(子路篇)

 葉公が孔子に、自分の領内にいる正直者は、父親が羊を盗んだ時に父親が盗んだと証言した、と言ったのに対し、孔子は自分の町内の正直者は、子に悪い点があれば親が隠し、親に悪い点があれば子が隠す、これが自然の正直というものだ、と言っている。

 中国文化というのは徹底的な血縁主義である。それは結婚しても男性と女性が同じ姓にならないことによく現れている。たとえ結婚しても、父から受け継いだ血統を離れることはないし、相手の系統に入ることもできない、という血統の尊重がそこに示されている。

 父親が羊を盗んだことを明らかにして父親を窮地に追い込むのではなく、それを隠して父親を守ることは血統を守ることになる。それこそが正直に従った行為ということになるのだ。

 韓国や朝鮮も中国と同じ血縁主義だが、日本は違う。封建制度があったため、血統よりも一つの領地や生活基盤に結びついた人たちが一緒に生きていくことを重要視している。血統よりも、実際の生活での働きや信頼の面から、人間と人間の関係を考えていく。そうした日本人にとって、父親が羊を盗んだことを隠すことは正直とはいえないだろう。

『古事記』によると、日本に『論語』が伝わったのは、応神天皇の御世の五世紀頃で、百済の王仁によって千字文とともに朝廷に献上され、それが日本に伝えられた初めての漢籍と言われている。

 飛鳥時代には斉明天皇が儒教に帰依し、平安時代になると官吏の養成に用いられるようになるなど、儒教は浸透していったが、その中心にあったのが『論語』だった。儒教の研究といえばもっぱら『論語』学であり、宮中での進講も『論語』が中心であって、五経に及ぶことはなかった。

 十一世紀になると武士が台頭して地方の実権を握るようになり、やがて源頼朝が鎌倉に幕府を開いて日本最初の武家政権が確立された。王朝文化が武士社会に浸透することで、武士たちの間でも『論語』が読まれるようになった。

 朱子学が日本にもたらされたのは後醍醐天皇の頃で、中国では元代の中期にあたっている。しかし、さかんになったのは、江戸時代に入ってからであった。

 徳川幕府の下、朱子学が公式の学問として認定されると、『論語』は武士にとって必須の要件になった。

 何故朱子学が公式の学問として認定されたのかといえば、これほど支配者にとって都合のいい論理はないからだ。

 朱子学の中で最も価値が高いのは「理」という概念である。「理」というものは目に見えないけれど、人間より超越的なもの、キリスト教で言うと絶対神のようなものだ。その理に支えられた「忠」や「義」といった概念は、現世を生きている人間の背丈を超えて価値の高いものとなる。この価値を重んじることが人間にとって一番大事であって、日々を生きていくような生身の人間の感情や損得などというものは理によって律しなければならない、という教えである。

 元来日本の封建主義において、主従の関係は比較的自由なものだった。武士は自ら見込んだ主人に売り込み、また主人も一騎当千の武士を求めるという関係を持っていた。逆に約束と違ったり、器量がなかったりした場合は、関係を解消するのが普通だった。

 徳川政権は朱子学を重んじることによって、絶対的な「忠」で主従関係を固定しようとした。将軍家は「忠」を大名に要求し、大名たちは家臣に「忠」を要求し、武士は領民に要求する。「忠」の連鎖によって、徳川政権が作り上げた秩序を壊れないものにしようとしたのである。

 同じ頃、後水尾院は日本の古典研究につとめた。源氏物語、古今集、新古今集から伊勢物語といった様々な日本の古典を、皇居で、親王、内親王、殿上貴族らに講義したのだ。

 それまでの古典研究は「古今伝授」といって、例えば古今集なりに一種の秘密があって、冷泉家のような貴族が金を支払った弟子に秘密を教える、という方法だった。

 後水尾院は、古典に対する非学問的な考え方や閉鎖的なやり方をいっぺんに取り払い、誰でも学問の志があればできるような、文献学的研究を始めた。

 あるテキストの中で書いてある出来事はどういうことなのか、この登場人物は誰なのか、ということを過去の研究や資料を照らし合わせ考えていくという方法は、今の学問では当たり前のことだが、当時ではヨーロッパでも最先端といっていい学問だった。それを、皇室が率先して始めたのである。

 そして江戸時代における学問は、この後水尾院が始めた学問と朱子学の論争という形で活発になっていった。

 朱子学に対して批判を始めたのは、日本の儒学者たちだった。

 朱子学は、孔子を聖人としてあがめ、孔子の言葉がまとめられた『論語』は、人間のうかがい知れない高い思惟が書かれてある本としていた。

 日本の儒学者たちはそれを徹底的に批判し、新しい儒教をつくった。

 例えば、京都町衆の中から生まれた儒学者の伊藤仁斎は、「孔子が説いた教えはそれほど難しいものではなく、誰もが知り得ないことではない。一番大切な教えは当たり前でなければおかしいし、実際孔子の哲学は学のない人間にもわかるものである」とした。

 逆に言えば、大変な修業をして何十年も書斎にとじこもらなければならないような教えなら説いても仕方がないということである。本当の教えというのは市井に暮らす一般の人たちが簡単に分かって、それを守れば平穏に暮らせるというものでなければならないと仁斎は考えたのだ。

 仁斎は、京都町衆の義理や人情という観点から『論語』を読み、海の向こうの偉人が作り上げた教えとして祭り上げるのではなく、自分の身の丈で学問をする、自分の頭で考えるという姿勢を打ち出して、『論語古義』を著わした。

 仁斎に後に出てきた荻生徂徠は、「忠」や「孝」といった概念は世の中をよくする概念であって、それを金科玉条のごとく考えるのはおかしいと、さらに徹底して朱子学を批判した。

 徂徠はどんなものも神格化しない人だった。孔子が理想とした周の政治にしたところで、その時なりの政治でしかない。それを今の日本でそのまま実行しようとしてもしょうがない。今の日本には今の日本のやり方があるのだから、それを考え出して実際に政治の役に立つようにするのが儒者の道である。孔子の言葉を神格化して守ることが儒者の道ではない。そうした考えのもと、『論語徴』を著わした。

 仁斎や徂徠の考えの核心は、生きている人間の背丈で考え、生きている人間を抑圧するようなもの、つまり超越性などは解体していく、というものだ。

 ここに日本的な儒教の特徴があり、またある意味で日本人の考え方の特徴の一つが現れている。

 それは、人間の背丈を越えて君臨しようとする正義や理念を、自分たちの生きている感情や暮らしに引きずり降ろしていくということである。

 仁斎、徂徠の方法論を日本的な考え方として意識した時に、この朱子学批判の流れと後水尾院が始めた古典研究の流れが一つになる。

 これが、賀茂真淵から本居宣長に進んだ日本国学の道である。

『論語』は何故これほど長い間読み続けられてきたのだろうか。

 それは周の時代を理想とした孔子が七十四歳まで生き、人とつき合ったり、謀反の中にいたり、さまざまな渦中で見たり聞いたり、いろいろな経験をする中で培った確信が現れているからではないだろうか。

 七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず (為政篇)

 これが、孔子が最後にたどり着いた境地である。

「矩」とは一種の「規範」である。つまり七十歳になると、自分のやりたいと思うことをやっても、それがきちんと規範の中におさまるようになったということで、傾きがちな人間にとっては、素晴らしい生の状態ということになる。

『論語』を読むと、「矩を踰えず」まで生きなければならないのだと、非常に巧みに諭されている気がする。逆に言うと、こういう人生の見晴らしを示すことで、急がず怠けず生きなければならないと教える、人が緊張しつつ温和に生きるためには長命を前提とした道徳が必要だとする発想があるように思われる。

 子、川の上にありて曰く、逝くものは斯の如きかな、昼夜を舎かず。(子罕篇)

「孔子が川を見つめながら言った。時間の過ぎるのは、この水の流れのようなものだ。昼と夜とを問わぬ」

 孔子最晩年の言葉である。

 件の言葉を、古注の『論語集解』は「時の流れの慨嘆」としてらえているが、朱熹の『論語集注』では、「人間の進歩」と考えている。「人間の文化は孜々営々として日進月歩していくものだ」と読んでいるのである。

 私は古注の解釈をとりたい。

「逝くものは斯の如きかな」の言葉には、もうすぐ自分も逝くのだという意識があったに違いない。

 孔子は生涯を通し、普遍なるものを求めていた。高いところに行く道を求めていた。そのためにいろいろことを働きかけてきたけれど、さすがに疲れてしまった。故郷に戻ったのは、理想の断念だった。

 そうした自分の人生を孔子は川の水の流れの中に見ていたに違いない。

 しかし、この断念があったからこそ、孔子は故郷で真の教育をすることができた。そしてその教えは『論語』という形になって、二十一世紀の現代でも読み継がれているのである。

(完)
 

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