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中森明菜「近藤真彦との深夜ドライブ」(2) 西﨑伸彦

人気絶頂の2人は映画共演をきっかけに──。/文・西﨑伸彦(ジャーナリスト)

★①を読む。

「絶対に唄いたくない!」

中森明菜のセカンドシングル「少女A」は、1982年7月に発売されると評判を呼び、彼女にとって初めてのヒット曲となった。

しかし、担当ディレクターだったワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック)の島田雄三は、発売から1カ月近く、明菜とはまともに口を利いていなかった。彼女が不満を募らせていたことは明らかだった。

「明菜に初めて『少女A』のデモテープを聴かせたら、みるみる彼女の表情が曇り、『嫌だ! 絶対に唄いたくない!』と泣きじゃくりました。『少女A』の主人公である不良少女は自分のことを調べあげて歌にしたものと思い込んでしまったんです。のちに、彼女がバイクの後ろに乗って日の丸の旗を持っている写真が雑誌に持ち込まれたと聞きましたが、当時の私がそんな話を知るはずもない。『少女Aは明菜じゃない』と必死に説得を試みましたが、明菜は頑として譲らなかった」

痺れを切らした島田が「バカ野郎、やるって言ったらやるんだよ」と怒鳴ると、彼女は「嫌だ」と喚き散らした。最後は島田の、「もし、これを出して売れないっていうなら、俺が責任取る」という懸命の訴えで、何とか、翌週のレコーディングの約束だけは取り付けたが、成功するか否かは、一か八かの賭けだった。

レコーディング当日、島田はスタッフに「テストからテープを回してくれ」と指示を出した。

「本来なら、20回、30回は歌うのですが、今回は3回が限度だろうと踏んでいました。それをうまく編集するしかない。当日、私は強気の姿勢を崩さず、明菜にも『やる気ないんだったら帰るか』という話までしました。テストで歌わせた後、『ちっとも伝わって来ないんだよな』と挑発すると、彼女は怒り心頭の様子で、それが逆に歌の迫力に繋がった。そこから少し粘って3テイクほどで『はい、終わり。ご苦労さん』とレコーディングを切り上げました」

明菜は不服そうな顔でスタジオを後にした。完成したレコードには、撮影でグアムに行った際、プールサイドで疲れ果て、不貞腐れている明菜の写真が採用された。もちろん本人が望んだ写真ではなかった。

少女A

テレビ史に残る音楽番組

「少女A」は、“難産”の末に、世に送り出されたが、挑発的な歌い方も、睨みつけるようなレコードジャケットも、結果的に明菜は、大人たちの狙い通りに、“掌の上で踊らされた”に過ぎなかった。

しかし、この曲がチャートを駆け上がっていくと、明菜は、その掌から軽々と飛び出した。発売から約2カ月が過ぎた9月16日、当時絶大な人気を誇っていたTBSの「ザ・ベストテン」で9位にランクイン。明菜が初出演すると、一夜にして彼女はトップアイドルの仲間入りを果たしていく。

4日後、今度はフジテレビの看板番組「夜のヒットスタジオ」の生放送にも初出演。この2つの音楽番組が、明菜をアイドルの域を超えた歌い手に飛躍させていくことになる。今ではテレビ史に残る音楽番組として知られる「ザ・ベストテン」は、78年にスタート。最高視聴率は41.9%で、歌番組が隆盛を極めた80年代を象徴する怪物番組だった。ベストテンで5年間ディレクターを務めた元TBSの遠藤環が語る。

「番組の生みの親である、プロデューサー兼ディレクターだった山田修爾さんは番組を始めるにあたり、ランキングを誤魔化さないという鉄則を掲げ、決して曲げませんでした。そして、それまでの芸能プロとテレビ局との癒着関係を見直す姿勢を貫いたのです」

記念すべき第1回目の放送は、語り草になっていた。当然ランクインすると思っていた人気絶頂の山口百恵が11位に沈み、TBSの上層部は大慌てだった。

「ベストテンの売りの一つが生中継で、『追いかけます。お出かけならばどこまでも』というキャッチフレーズは山田さんが考案したものです。初回の放送時、山口百恵は大阪にいることも分かっていて、生中継が可能だった。上層部は当然のようにランキングを10位の野口五郎と入れ替えるよう求めました。ところが、山田さんは頑なに拒絶。幹部の中には書類を叩きつけて部屋を出て行った人もいたと聞きました」

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ベストテンの女王

ベストテン以前の歌番組のキャスティングは、テレビ局と芸能プロとの馴れ合いがベースにあり、視聴者が本当に見たい歌手が出演しているとは言い難い状況だった。当然視聴率も低迷していたが、そこに楔を打ち込んだのがベストテンだった。リクエストハガキとレコードの売上げ、そしてラジオ各局と有線放送のランキングの4つを軸に集計し、弾き出された数値に基づいて順位をつけた。

「ベストテンの放送は毎週木曜日の夜9時でしたが、準備はその前の週の火曜日から始まります。夕方4時にランキングが出ると、まずは出演者のスケジュール確認に走る。そして6時からは構成作家を交えた、通称、地獄の会議が始まります。当時の会議には、今をときめく秋元康も視聴者からのハガキを選んだりする、駆け出しの担当として参加していました。タバコと珈琲の臭いが充満する20帖にも満たない狭い部屋で、10位から順にどういう演出にするかのアイデアを出し合うのです。いかに視聴者を驚かせ、笑わせられるか。山田さんは『何かワンカットでも面白いものを入れろ』が口癖で、朝3時、4時までは当たり前に会議が続きました」(同前)

ベストテンは、司会の久米宏と黒柳徹子との軽妙な掛け合いに加え、生放送ならではのスリリングな展開や大胆な演出で歌い手の魅力を引き出そうとする試みが人気を博した。スタートの翌年からベストテンの制作に携わった元TBSの宇都宮荘太郎は、明菜が初出演した時のことを鮮明に憶えているという。

「あどけなくて、ポチャッとした可愛らしい感じで、生放送で『緊張しちゃってトイレに行きたくなっちゃった』と言ってしまうほど、無防備でした。ただ、歌のインパクトが凄く強くて、『少女A』は1位にはなれなかったのですが、その後、彼女はベストテン史上で最も多く1位を獲得した歌手となっていくのです」

明菜が“ベストテンの女王”と呼ばれる所以である。

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中森明菜

10時間超のリハーサル

一方、ベストテンよりも10年歴史が長いヒットスタジオは、テコ入れを繰り返し、76年から総合音楽番組として再出発。その牽引役となったのが、看板プロデューサーだった疋田拓である。クレーンを多用したカメラワークとスモークや派手な電飾などで見せ方にこだわり、入念なリハーサルは10時間を超えると言われた伝説の番組だ。疋田が振り返る。

「ブッキングはすべて私が担当し、ノートに細かくアーティストのスケジュールを書いて管理。カメラ割りやコンテも全部書き込んでいました。その後、80年代半ばには、番組枠が2時間に拡大。その時には、マンスリーゲスト制を導入して、明菜さんにも、準レギュラーのような形で出演して頂きました。彼女は衣装も踊りも、全部自分で決めていた。周りも一目置くほどストイックで、真面目だった」

当時は、日本テレビも81年から公開放送のランキング番組「ザ・トップテン」をスタートさせ、先行の2つの音楽番組と熾烈な視聴率争いを繰り広げていた。なかでもフルコーラスで曲を披露できるヒットスタジオは芸能プロからの売り込みも激しかったが、明菜は“特別”だった。

「明菜さんが唄っている場面をみると、声を限界まで出し切ろうとキツそうな顔をしたり、途中で手が震えていたりするでしょう。演出する立場からすれば、アーティストをどこまで真剣に歌わせるかが、最大の課題。マドンナが出演した際、カメラリハーサルで手を抜いていたので、『そんな歌い方をしていたら、誰も撮らないよ』と言ったこともあります。生放送の一発勝負ですから、こちらも腹を決めて、相手に挑んでいました。相当なプレッシャーのなかで、彼女は緊張感を持って臨んでくれた。非常にデリケートですが、打てば響く感性を持っているアーティストでした」(同前)

明菜がデビューした82年は、音楽業界がアナログからデジタルに変わる過渡期だった。世界に先駆け、日本でCDとCDプレイヤーが発売されたが、アルバムがレコードからCDに移行していくのは80年代中盤以降。CDシングルが登場するのは88年のことである。“お茶の間”という一家団欒の形が辛うじて残り、その中心には必ずテレビがあった。ビデオデッキの世帯普及率が50%を超えた87年前後からは様相が変化するが、当時は家族揃って同じ番組を視聴し、日本中の人が同じ曲を知っていた時代だった。

歌手にとっては毎週のように音楽番組に出演できる幸福な時代。その数年間をトップランナーとして駆け抜けたのが明菜だった。高校を中退し、芸能界に飛び込んだ彼女にとって、未知の世界で生きていくには、自分の身を護る“鎧”が必要だった。それは同世代のアイドルとは一線を画す、阿(おもね)らない姿勢だった。

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「何でこんな演出をするの」

前出の元TBSディレクター、遠藤が振り返る。

「『少女A』の演出で、危ない女の子が世の中の危ないことに引っ掛かってしまい、その中でジタバタしているという想定で、上から蜘蛛の巣のように細いロープを被せる仕掛けを作ったことがあったのですが、その時は『振り付けに影響が出る。何でこんな演出をするの』と怒っていました。新人でも自分が疑問に感じたら、真っ直ぐにものを言う子でした。私は、彼女が長野の地方局から中継する際に、サポートで立ち合ったことがあるのですが、その時、彼女は駅弁の“峠の釜めし”の写真をみて、『これ食べたい』と言い出した。所属事務所だった研音の現場マネージャーが、『分かりました』と買いに走ったのですが、やっと見つけて買って来たら、彼女が『いらない』と撥ねつけた。私は一部始終を見ていたので、『それはないだろ。お前が頼んだんだろ』と苦言を呈したら、彼女も『ごめんなさい』と素直に謝った。この一件があって、逆に打ち解けるようになりました」

しかし、彼女の天邪鬼な性格は、時として現場に混乱をもたらした。

「少女A」のプロデュースを担当した元ワーナーの小田洋雄が語る。

「明菜の写真撮影に立ち合った際、彼女がカメラマンを指して、『小田さん、この人ラッキーだよね。私を撮って有名になるんだから』と言った時は驚きました。すでに一線で活躍しているカメラマンでしたが、明菜のその言葉を聞いて、彼のシャッターを押す手が止まり、『止めよう』と言い出しました。私は慌てて1時間の休憩を入れて説得し、何とか撮影を続けたのですが、彼女にはそういう奔放さがありました」

明菜が所属していた「研音」で、部長として明菜のマネジメントを担当していた角津徳五郎は、コンサートのリハーサル日に、明菜が失踪する“事件”があったと明かす。

「コンサートでは、明菜本人が選曲した歌を唄うコーナーを設けてもいました。その時は洋楽を3曲唄うことになっていたのですが、リハーサルに来た彼女は、まったく歌詞を覚えていませんでした。さすがに頭に来て怒鳴りあげると、彼女はそのままスタジオを飛び出して行きました」

スタジオにいた角津のもとに現場のマネージャーから連絡があったのは、それから2時間後。「いま彼女がスタジオの1階にいるので、迎えに来て貰えませんか」というので、角津が「自分で歩いて来るように言え」と突き放すと、不貞腐れた様子の明菜が姿を見せた。

「『続けるか、続けないかは自分で決めろ。止めるんだったら、止めても構わない』と彼女に言いました。そしてようやくリハーサルを始めると、明菜は選曲した3曲を見事に唄った。失踪していた2時間の間、彼女は必死になって歌詞を覚えていたんです。驚きました」(同前)

明菜は周りを巻き込みながら、常に自分を演出し、人の心を掴んでいった。

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デビュー当時の中森明菜

思春期の表と裏

ディレクターとして明菜を担当した元ワーナーの島田は、彼女の1年目の楽曲のコンセプトを「思春期の女の子が持っている表と裏をリアルに描く」と決めていた。繊細さとその裏にある不良性。島田は、「少女A」を作詞した売野雅勇に、「これからは2つの路線を交互に行きますから」と話していたという。

売野が当時を振り返る。

「その頃、私は明菜さんに1度だけ会っています。アルバムのレコーディングの時に、島田さんの計らいでスタジオで紹介されたのですが、『こんにちは。初めまして』と言っても、口も利いてくれないし、目も合わせてくれませんでした(笑)」

島田は「少女A」の次のシングルに、来生えつこ作詞、来生たかお作曲によるバラード、「セカンド・ラブ」を選んだ。

当初から明菜本人が志向していた清純派路線だったが、「会社の営業や宣伝からは『こんな愚作を作りやがって』と散々な言われ方でした」と島田は苦笑する。

「『少女A』と同じ路線を求められていることは分かっていましたが、それをやれば明菜とはまた大喧嘩になり、コミュニケーションが続かなくなる。『セカンド・ラブ』のレコーディングは事前にレッスンもやりましたが、明菜はずっとご機嫌で、私も手応えを感じました」(同前)

「セカンド・ラブ」は約77万枚を売り上げ、明菜の全シングルのなかで最大のヒットを記録した。狙いはピタリとハマり、売野が書く“ツッパリ路線”も83年以降、「1/2の神話」、「禁区」、「十戒(1984)」と快進撃を続けた。

コピーライター出身の売野には時代の風を敏感に感じ取るセンスと軽やかさがあった。島田は「誰かいい作曲家はいませんか?」と売野に尋ね、貪欲に新しいものを取り入れようとした。

「僕は『売れてないけど、今一緒にやっている大沢誉志幸は凄くいいですよ』と紹介しました。大沢君がハードロック調の曲を書いてきて、そこに僕が詞をつけ、『不良1/2』というタイトルをつけた。気に入っていたのですが、このタイトルが猛反発を受け、『1/2の神話』に変更を余儀なくされました」(売野)

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作曲家の来生たかお氏

「1日3000万円を稼ぐ」

続く「禁区」も、周囲はタイトルに難色を示した。売野は、中国語で「立ち入り禁止区域」を指す“禁区”という言葉の強さに惹かれ、そこに〈私からサヨナラしなければ この恋は終わらないのね〉という冒頭の2行のアイデアを組み合わせて、あっという間に詞を完成させた。

「参考のために購読していたティーン雑誌に、人生相談のコーナーがあり、そこに店長と不倫する高校2年生のアルバイトの女の子の投書が載っていました。カラダ目当ての店長との恋愛に悩む彼女は、『この恋は、私から終わりにしなければ終わらないのでしょうか』と最後に綴っていました。これはそのまま詞になると思い、私は投書の彼女のために詞を書くことにしました。そこに細野晴臣さんがいい曲を書いてくれたのですが、歌入れの段階で、島田さんが『ちょっと過激すぎます』と私の詞に若干手を入れました」(同前)

出来上がった曲は明菜の“拒否反応”を想定し、仮タイトルを「芽ばえ」としてレコーディングを行ない、発売前にタイトルを戻したという。

当時の明菜は、シングル曲を出せば50万枚を超えるセールスを期待される存在になっており、デビュー2年目の83年はレコードの売上げだけで67億円を記録。ワーナーの幹部のなかには、「明菜は1日3000万円稼ぐ」と公言する者もいた。

明菜は18歳にして巨大な音楽ビジネスの渦に巻き込まれ、周囲は彼女を腫れ物に触るように扱った。ディレクターの島田は、明菜と会社との板挟みに苦悩しながらも、初期の成功体験に囚われることなく、新しい明菜像を模索した。その一つの完成形が、84年11月に発売された井上陽水の作詞作曲による「飾りじゃないのよ涙は」である。島田が語る。

「当初はアルバムに収録する曲として考えていたのですが、オケ録りの日に陽水さんが現れ、女性シンガーの仮歌を聴いて、『イメージが違う。僕が唄っていい?』と言う。『構いませんが、キーが違いますよ』と答えたら『大丈夫、これくらいなら地声で行けるから』とスタジオに入って行きました。陽水さんが生演奏に合わせて唄うと、鳥肌が立ちました。ミュージシャンも大ノリで、素晴らしい楽曲になった。これはシングルで行くしかないとすぐに決断しました」

明菜は見事に陽水の世界観を表現し、彼女はアイドルから本格的なシンガーへと転身を遂げた。

「明菜はいつもこちらが望む以上の結果を出してくれましたが、その集中力はある種の狂気を孕み、私自身も引き摺られた部分がありました。明菜との仕事で夜も眠れず、胃の痛みで、3回救急車に乗っています。中途半端な覚悟で出来るものではありませんが、そのうちに彼女のレコーディングでの集中力が落ち始め、納得行くまで何度も挑んで来た彼女が、夜が更けてくると段々とソワソワし、『もういいでしょ』みたいな雰囲気が出て来るようになった」

その原因はのちに明らかになる。85年1月に公開された映画「愛・旅立ち」で共演した近藤真彦との秘めた恋が始まっていたのだ。

マッチとの初デート秘話

明菜の2年前にデビューした近藤は当時、すでに日本を代表するトップアイドルだった。近藤のファンであることを公言していた明菜と近藤との共演を実現させたのは映画プロデューサーの山本又一朗。現在は小栗旬などの俳優を抱える芸能プロ「トライストーン・エンタテイメント」の代表である。

山本が映画製作の経緯を語る。

「私は明菜がデビューする前の『スター誕生!』の頃から注目していました。もともと親交があった研音に彼女の所属が決まってからは、映画の話を折に触れて打診していました。研音側からの了解を貰って、マッチの所属するジャニーズ事務所のメリー喜多川さん(今年8月14日に逝去)に交渉に行き、最初は『太陽を盗んだ男』を監督したゴジこと長谷川和彦が書いた脚本で企画を進めました。私もゴジも同様に、明菜の演技力を評価していましたし、熱量のある脚本も上がっていたのですが、結局、この企画は頓挫し、監督も脚本も替え、再スタートすることになった。それが『愛・旅立ち』という映画です」

映画の撮影が始まるに際し、メリーは「山本さん、2人を一緒に連れて行って、食事でもして」と配慮をみせた。ちょうど翌日が2人とも休みだったことから山本は2人を誘って会食に出かけた。

山本が買ったばかりのベンツで迎えに行くと、運転好きの近藤は興味津々で、「山本さん、ドライブ行きましょうよ」と声を掛けてきた。

「結局、マッチがハンドルを握り、助手席には明菜、そしてバックシートには私が座りました。2人に自由に話させたいと考えて『俺は後ろでひっくり返って、少し寝るよ』とひと声かけました」

ベンツは夜中の高速を箱根方面に向かった。

「2人の会話を聞くともなく聞いていると、ベストテンで2人が共演した時、次の出番が誰で、あの日はこうだったよねと他愛もないことを楽しそうに話していました。2人は恋愛にはまだ程遠い、本当に初々しい感じで、微笑ましかった」(同前)

箱根ターンパイクを通り、都心に戻りかけた時、マッチは思い出したように「お腹が空いた」と声を上げた。ただ、時間は午前1時を回っており、トップアイドル2人を連れて行ける店があるはずもなく、山本は帰る途中にある自宅に2人を誘った。そして就寝している家人に分からないようこっそりパスタを作って2人に食べさせ、ベンツでそれぞれ送り届けたという。

中森明菜

歌番組でも共演

2年連続でレコ大受賞

撮影期間中は、2人に交際を感じさせるような動きは微塵もなかった。ただ、あの夜からすべてが始まり、2人は急速に近付いていったのだ。歌手としての明菜は85年に「ミ・アモーレ」、86年に「DESIRE」で2年連続レコード大賞を受賞する偉業を成し遂げ、名実ともに歌謡界のトップに立った。しかし、この頃にはデビュー当時から明菜を支えて来たスタッフから顔ぶれも一変し、孤立感を深めた彼女は、限られたスタッフとセルフプロデュースの道を選んでいく。

後発の音楽番組としてテレビ朝日が86年からスタートさせた「ミュージックステーション」の元プロデューサー、三倉文宏は当時の明菜の印象についてこう語る。

「彼女は自分の身の回りの衣装やヘアメイクのスタッフには物凄く気を遣っていて、可愛がっていました。『うちのメンバーとお鍋を食べたいんだけど、連れて行って貰えないですか』と言うので、一緒に行くと、『これ食べなきゃダメよ』と具材を彼女たちに取り分けてあげていました。それなのに自分は、ポン酢のタレに一味唐辛子を一本丸ごと掛けている。驚いて理由を聞いたら『太らないように』と言っていました。それも儚げな自分を演出するための手段だったのでしょう」

だが、日本経済がバブルに突入し、空前の好景気に沸くなか、音楽シーンは大きな曲がり角を迎えていた。

近藤の自宅マンションで

フジテレビのバラエティ番組から誕生した「おニャン子クラブ」が秋元康のプロデュースで人気を呼び、ブームがピークとなった86年にはソロ名義やユニットで次々とヒット曲を量産。ヒット曲の短命化が進んだ。何週間もチャートにランクインし、広く浸透していくヒット曲が次第に姿を消していくと、ランキング番組にも異変が生じ、明菜を育てたベストテンですら視聴率で苦戦を強いられた。あとはどこの局が最初に撤退を決めるか。“チキンレース”の様相を呈し、音楽番組にとって幸福な時代は終わりを告げようとしていた。

そして89年1月、時代は激動の“昭和”から“平成”に変わった。ベストテンは同年7月6日の放送で、9月末をもって番組が終了することを発表した。その5日後――。

明菜は、近藤の自宅マンションの浴室で左手を切り、自殺を図った。彼女にとって唯一の救いだった近藤の存在が表沙汰になって、マスコミの関心は2人の痴情の縺(もつ)れに集中した。

事態の収拾に乗り出したのはジャニーズ事務所のメリー喜多川だった。明菜にとっての本当の苦悩が始まるのは、まさにこの時からだった。

(文中敬称略・以下次号、写真=iStock.com)
★③を読む。

文藝春秋2021年10月号|短期集中連載(2)「中森明菜 近藤真彦との深夜ドライブ」

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