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新川博さんのおふくろの話。

著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、新川博(編曲家・キーボーディスト)です。

ポップスを探して

我が家には作家や詩人、編集者たちがよく来ていた。覚えているのは、ひどく訛りのある男。寺山修司だ。

朝目覚めて応接間に行くと、明け方まで母が仲間と飲んだ痕跡が残っていることがよくあった。石油ストーブを焚いた生ぬるい空気や、煙草の香り。皆が食べ残した寿司桶を覗いて、かんぴょう巻きや卵焼きをつまんで朝食にしたこともある。そして壁じゅう本だらけの廊下を通って学校に行くのだ。

母・新川和江は、いつだって詩人として生きていた。僕は友達の家に行くたび「ふつうのお母さん」の子どもを羨ましいと思った。反抗期も手伝ってか、僕は母の歩んだ文学の道からできるだけ遠くへ、遠くへ行こうと決めていた。

僕が11歳の頃に、ビートルズが来日。音楽をやるような子はちょっとした「不良」とみなされているような時代だ。中学生の頃からバンドを組んで音楽にのめり込んでいた僕は、大学在学中にはハイ・ファイ・セットや松任谷由実のツアーに音楽監督とキーボーディストとして参加するようになっていった。そんな姿を母がどう見ていたかは分からない。はじめは「ハイ・ハイ・セット? 赤ちゃんグッズでも売るの?」なんて言っていたが、ハイ・ファイ・セットの人気が高まり、NHKに出演したのを機に理解してくれるようになった。「あなたは1日何時間でもピアノに向かっている子だったものね」と言うから、納得してくれてもいたのだろう。5歳でピアノを習わせてくれたのは母だった。

仕事も軌道に乗った30代のある時、新しく仕事を共にするディレクターを紹介された。挨拶すると、「初めてじゃないんですよ、新川さん」と言う。彼女は昔雑誌社で働いていて、我が家にまで原稿を取りに来ていたことがあったという。仕事を終えたあと、彼女は一言こう言った。「やっぱり、お母さまの作風と同じね」。母の道から遠くへ、遠くへ行こうとしていた僕が追い求めていたのは、結局、母と同じ誰もが口ずさめる「うた」だったのだ。

母は90歳を機に産経新聞の「朝の詩(うた)」の選者を退任し、あらゆる仕事をやめて、静かな日々を過ごしている。最近始めたのは、俳句だ。「現代詩にはポップスがない。俳句にはそれがあるから」。母も僕も、そう、今もポップスを探している。

(2020年6月号掲載)



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