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石原延啓 父・慎太郎と母・典子「この写真が一番可愛いだろ」父は古いアルバムを取り出し……

文藝春秋digital
文・石原延啓(画家)

石原延啓

石原氏

母の生涯は「父がすべて」

母の葬儀の際に印象深い出来事がありました。

棺に入った母の姿を見た姪が「マーちゃん(おばあちゃん)はいつも前髪を気にしていて、綺麗に整えていたのではなかったかしら」と言い出したのです。兄嫁たちも、そうだそうだと同調し、改めて前髪をおろしてもらい馴染のある姿に整えてからお別れをいたしました。

随分と前に父から前髪をおろした方が好みだとでも言われたのでしょうか、いつも父が望む姿でいたくて前髪を整えていた。男兄弟なんてがさつでどうしようもないものです。私たちが母の一体何を知っていたと言えるのでしょう。「どうもイメージが違うんだよな」などと思いながら葬儀の当日まで母親のお気に入りの髪型ひとつ気付かなかった。

葬儀の最後、母が荼毘に付されるとすぐ上の兄宏高が、会場の端でひとり号泣していました。日頃はクールに実務を進める兄の頬に涙がつたうのを横目で見ながら、私たち4人兄弟それぞれに違った形で様々な母との物語があるのだろうと思い胸にこみ上げるものがありました。

父の死については医師から余命3カ月の宣告もあり、どこか覚悟していたところがありましたが、突然だった母の方は亡くなって1カ月以上たった今でも事実を受け入れられない、というか受け入れることを拒否している自分がおります。

四十九日を待たずに父の後を追うように母が逝った後、文藝春秋さんより母についての話をお聞かせ頂けないかという話を頂戴しました。表の人ではないですし、何をお話しできるかも分かりませんでしたが、弔問に来て頂いたある方から「お母様がお父様を裏から支えていたということは、お父様を応援して下さった日本中の全ての方々の思いを受け入れていたということです。大変なことだったと思いますよ」と言われたことを思い出しました。この場をお借りして母の一生を見つめ直したいという思いと共に、女性の自立が唱えられる時代に「連れ添う」「寄り添う」、そんな在り方もあったのだということを母の姿を通して再考してみたいと思いました。

亡くなったのは3月8日のことで、父の死からわずか1カ月後でした。その日の朝4時過ぎに突然、母が暮らす高齢者施設の看護師さんから、「苦しいと言っている」「巡回医を呼ぶ」「救急車を呼ぶ」「受け入れ先を探している」と立て続けに連絡がありました。すぐに駆けつけようとしましたが、搬送先に来てくれと待機させられました。次には「厳しい状況なので救命センターに運ぶ」、そして「救急車内で容体が急変し、脈と呼吸が停止状態だ」となり、救命センターへ向かいました。駆け付けたときにはまだ救命装置を施された状態でしたので、すぐに機材を外してもらい臨終の確認をお願いしました。

待機などせずに、今際の際には自分の勘に従って行動するべきだった、そうすれば救急車に同乗して死に目にも会えたかもしれぬと後悔の念がこみ上げましたが、コロナ禍の中では仕方なかったのかもしれません。

ただ、母は以前より父より長く生きることを決め込んでいたふしがあるので、その務めを果たせて思い残すことはなかったのかもしれません。兄たちとも「親父のあとを追いかけていっちゃったね」と妙に納得しながら話しています。母の84年の生涯は「父がすべて」と言っても過言ではなく、とにかく家族にすべてを捧げた人生でした。

②誕生日での二人

慎太郎氏の誕生会で

18歳の若さで結婚

2人が結婚したのは1956年、父が23歳、母はまだ18歳でした。当時の常識でも早い結婚だったはずです。親の馴れ初めなど恥ずかしくてこちらから詳しく尋ねることはありませんでしたが、元々祖母同士が知り合いの幼馴染だったそうです。

父方の祖母が「可愛い子がいる」と父に紹介したと聞いています。知り合ってからは父が母の家庭教師のように勉強や運動を教えてあげていたそうです。

母が14歳で母親を亡くした際は、告別式に参列した父が、「僕の父親も亡くなって、明日でちょうど1周忌です」と挨拶したとか。お互い早くに親を亡くし、自分の悲しみに共感してくれる父の言葉に母がいたく感動したという話は最近、昔の記事を読んで初めて知りました。

よく考えますと、今私の息子が高校生で当時の父と同じ齢なのですが、その年頃の高校生が中学生になりたての母に声をかけたわけで、わが親ながら「そんな趣味があったのか? 危ないな」と思ってしまったのも事実です(苦笑)。

母はまだ幼くて、新婚当初は世間のことを何も知らなかったはずです。父の“いいなり”だったかもしれません(笑)。情報がない時代ですし、周りに同じ境遇の人もいないので、相談することもできない。頼れるのは父ばかり。結婚式の翌々日、新婚旅行で湯河原に行ったのに、父が芥川賞の贈呈式に出席するために1人上京し、旅館に取り残された母が途方に暮れたという話があります。いかにも、当時の母のようすを物語っていると思います。

①若き日の典子

若き日の典子さん

光源氏と紫の上の関係

母の父母の実家はそれぞれ地元の名士だったようで、早くに両親を亡くしていた母も親戚の援助を受けながら貧困に窮するようなことは無かったようです。私立の高校に通っていたので、そのまま大学受験するのも可能だったでしょう。それが父と結婚したので進学をあきらめざるをえなかった。当時の心境を「お友達は学校に行っているのに、私だけが徒手空拳の新妻になった」と書いていたようです。

そして新婚生活が始まりますが、父は家に帰ってこない。20代で映画の脚本、監督から主演もこなす売れっ子作家。父の名誉のために、「社交で忙しかった」と想像するにとどめておきますが(笑)。

父は根っからのアーティストですから思いついたら行動せずにはいられない。私も画家の端くれですので、とんでもないパワフルなアーティストの知り合いがたくさんおります。若かりし頃の我が父上もあちこち飛び回って、やりたい放題だったことでしょう。

とにかく仕事は忙しかったようです。結婚した年に、「文藝春秋」に掲載された「ぼくの撮影所日記」という記事を読むと、その時の目まぐるしさがわかります。連日ホテルに缶詰めになって、映画版「狂った果実」の脚本を2晩ほどで書き上げた翌日には監督から撮影所に呼び出され、自ら脚本を書いた映画「日蝕の夏」の主演を依頼される。毎週のように映画の脚本を書き、そのうえ連載をいくつも抱えていたようです。

こんな調子で日々を送る父はどの程度家庭をかえりみていたのか。子煩悩に息子たちをあやす父の写真は多く残されていますが、はてさて真相は如何に。当時は逗子に住んでいましたが、母は家に残って姑である祖母と一緒に赤ん坊の面倒を見ながら、何を思っていたのでしょう。

女性が「家内」や「奥さん」と当たり前のように呼ばれた時代、母もまたその言葉の通り、家を守って日々過ごしていた。ただ、その一方で作家からやがて政治家になり、変貌を遂げていく父を通して、世間知らずだった母は徐々に社会のことを知っていったのでしょう。

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