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武漢ロックダウン「邦人救出」15日間全記録|現地指揮官の手記

コロナが発生した中国・武漢からの邦人退避はどのように行われたのか。チャーター機の手配など現地オペレーションの指揮官が、緊迫の15日間を振り返った。/文・植野篤志(外務省国際協力局長・前中国特命全権公使)

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天安門事件とSARSの経験

日本政府は1月下旬以降、中国湖北省武漢に計5便のチャーター機を飛ばし、828名の湖北省在住邦人と中国人等ご家族の帰国を実現させた。私は第1便から第4便までの運航を支援する「現地チーム(通称:Aチーム)」の責任者を務めたが、本稿はその活動記録である。

私は1989年の天安門事件で北京からの邦人退避オペレーションに関わり、2003年のSARSでも対応に当たった経験がある。私がたまたま緊急事態を引き寄せるのではなく、こうした事態はいつ、どこで起きてもおかしくはないということだ。だからこそ、各種制度や装備は常に充実させておく必要がある。同時に、海外で生活する一人一人の心構えを常に磨いておく必要もある。

そこで今回、武漢での邦人退避オペレーションが実際にどのようなものだったか、読者の皆様にお伝えするために筆を執ることにした。

1月23日
武漢のロックダウンを知ったのは23日朝、ニュースサイト「今日頭条」を携帯でチェックした時だった。出勤後、午前10時をもって武漢発着の全ての交通機関の運行が停止され、道路も封鎖されたことを知り、大変なことになったと思った。

大使館では1月に入り、領事部長を長とする「新型コロナウイルス対策室」を設置していたが、武漢封鎖の報を受け、同対策室を大使を本部長、私を本部長代理とする「大使館対策本部」に格上げし、手分けして情報収集に当たることを決めた。

昼はインド大使館主催のレセプションがあった。私は次席公使、つまりナンバー2だったが、外交の世界ではDCM(Deputy Chief of Mission=副公館長)と呼ばれ、DCM同士は普段から交流がある。このレセプションにもインドをはじめ、米国、韓国、フランスなど各国のDCM仲間が来ており、情報交換が行われた。

この場で、米国が武漢に駐在する総領事館員とその家族を退避させるため、すでにチャーター機派遣を含む具体策の検討に入ったことなどが分かった。私は大使館に戻ってレセプションで聞いた話を横井裕大使に報告し、直ちに本省に公電を送った。

1月24日
午後10時から大使館で対応を協議。邦人救出には「政府専用機か民間のチャーター機を武漢に飛ばし、希望者を一気に日本まで運ぶ」以外に選択肢はないとの結論に至る。東京でも茂木敏充外務大臣から、チャーター機を派遣するようにとの指示が下りていた。11時過ぎ、本省の中国・モンゴル第2課長に電話し、大使館としても専用機かチャーター機の運航しかないと考えている旨伝えた。

茂木 写真部_SH77219

茂木氏

一方で大使館では、現地在住邦人の不安を和らげるため、専用の「ホットライン」を設け、24時間体制で運用することにした。ただ、その番号は対外的に公表せず、在武漢のJETRO事務所や日本商工会を通じ、現地の方にのみ行き渡るよう工夫した。湖北省以外の中国各地や日本国内からも問い合わせが殺到し、肝心の現地在住邦人がアクセスできない恐れがあったからである。ただ、このホットラインだけではビジネスマン以外、例えば留学生などまでフォローすることは難しかった。

二転三転した中国側の連絡

1月25日
春節の初日だが、正月気分は微塵もない。本省からは、武漢にANAのチャーター機を派遣する方向で関係省庁と協議を行っており、その場合には北京の大使館から武漢に館員を派遣し、現地に受入チームを立ち上げるよう指示があった。

午後5時からの館内会議で、私は自分が指揮を執るので、医務官や領事担当、ロジスティックス担当に同行してほしい旨を告げた。結果、その場で自ら武漢行きを志願した者も含め、8名の現地チーム(Aチーム)が発足。また、経済部長をヘッドとする北京の退避オペレーションチーム(北京チーム)も結成され、直ちに任務に取りかかった。

だが、問題は武漢への移動手段だった。夕方の時点では、湖北省外事弁公室から「高速鉄道を使うなら、特別に武漢駅での下車を認める」との意向が示されていたが、同日夜、同室から「高速鉄道は武漢駅に停車しなくなった」旨の連絡が入った。

次に考えたのは、国内線で武漢に近い場所、例えば隣の湖南省長沙まで移動し、レンタカーで武漢入りする方法だった。しかし、長沙空港の複数のレンタカー会社に問い合わせたところ、いずれも「武漢に行くなら車を貸せない」との回答だった。

ところが深夜になり、外事弁公室から「北京から外交ナンバーの車で来るなら武漢入りを許可する」と連絡が入った。当初は我々が複数の車を自ら運転することも考えたが、8名の館員とその荷物に加え、医療物資などを積むには、大使館が保有する車両で1番大きな「ミニバス」を使うしかないことが判明する。

ただ、ミニバスとなると、私を含め日本人の館員の免許証では運転できない。そんな中、翌朝までに大型免許を持っている大使館の中国人運転手のうち、勇敢にも2名が名乗りを上げてくれた。彼らのおかげでようやく武漢入りのめどが立った。

17時間かけて武漢入り

1月26日
朝から武漢に行くための荷物をパッキングする作業に追われていたところ、私が現地チームを率いることを知った本省の秋葉剛男事務次官から携帯に電話が入り、激励とくれぐれも安全第一でとの指示を受けた。

午後2時、ミニバスで大使館を出発した。北京から見て武漢は南西約1200キロの位置。武漢まではきれいな高速道路で結ばれているが、ミニバスは燃費が悪く、3〜4時間おきに給油が必要で、その都度サービスエリアに入った。道中、Aチームで最も若いY書記官が探してくれたピザハットで夕食を取った。

この日の夜はどこかに宿泊し、武漢には翌昼に到着すればよいと思っていたが、運転手2名は「交代で運転するから泊まる必要はない」と言ってくれ、給油やトイレ休憩を除き、ノンストップで走ることになった。

湖北省の省境が近づくにつれて前にも後にも対向車線にも車が全くいない状態になり、緊張が高まってきた。一方で、厳しい検問が敷かれていると覚悟した省境も武漢市の市境も、実際には何のチェックも行われておらず、27日午前7時、出発から17時間を経て、武漢シャングリラホテルに到着したのだった。

他の車が走っていない高速道路を武漢に向け疾走する大使館のミニバス

1月27日
実は北京を出発する時点では、宿泊先は決まっていなかった。日本人が多い地区で、会議室が用意できる複数のホテルが候補だったが、湖北省外事弁公室から「ロックダウンの武漢に市外の客、それも外国人を迎えるには上層部の許可が必要」と言われ、移動の車中でもY書記官が携帯で調整を続けてくれていた。

結局、第1候補と考えていたシャングリラに滞在できることになった。我々も疲労困憊だったが、チャーター機の運航まで時間は極めて限られている。部屋で2時間だけ仮眠を取った後は、ホテル内の作業室に集合し、現地オフィスをオープンした。

早速、シャングリラホテルに居住しておられるホンダのN氏、日本製鉄のA氏、JETRO武漢事務所のO次長にもお越し頂き、現地の状況をお聞きする。JETROのS所長は休暇で帰国しておられたが、日本から微信(We Chat)を使って日本商工会の方々と連絡を取り、その時点で武漢在住邦人400名以上のリストを作ってくれていた。N氏やA氏も、日本人が住んでいる主なアパートやホテルを地図上に書き入れた資料を用意してくれていた。彼らのサポートは非常に有難かった。

カンバン_武漢到着早々の在留邦人代表との打ち合わせの様子

武漢入り直後の打ち合わせ

課題は在留届とたびレジ

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