中野信子

中野信子「脳と美意識」 クラフトとアート#1

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 日本のモノづくりに関して、肯定的な(しばしば陶酔的な)表現で自ら賛美する言説に、かなりの頻度で出会う。ちょっと過剰で、時には不気味さを感じるほどだ。もちろん、日本のモノづくりは本当に素晴らしい。有無を言わさぬ凄みがある作品も珍しくはなく、製品のクオリティには確かなものがあり、実際に世界的な水準で信頼が置かれてもきた。現場の努力と技術の着実な積み重ねが、無条件に見る者の敬意を喚起するようなところがある。

 ところで、あまりにも多くの人が、人間の脳が「モノの価値」をどう測るのかを知らないようだ。というか、実は人間の脳は単体では、長さすら測ることができない。わざわざメートル原器のようなものを作らなくてはならないほど、私たちのモノを測る能力は、覚束ない。

 だから、私たちは比較をする。身近にいる誰か、手に入る何か、見慣れた何かと比べて、その人やモノの真価と世における値打ちを測ろうとする。そうした中に、誰もが互いの意見と評価を気にし、世評を必要とする事態が生じる。

 もちろん、そうした外的な情報に、私たちの感覚は非常に大きな影響を受ける。好例は味覚で、ラベルや言語情報によって評価がかなり変わることがいくつもの実験により明らかになっている。また、人間に対する評価も同様に、ブランドを身に着けているかどうかで変化するという研究がある。

 にもかかわらず、多くの人は人間の脳がそこまで非力であることを知らない。何なら、無視しているようにさえ思えてくる。もしかしたら、そんなことに気づいてすらいない、というところなのかもしれない。あるいは自分たちのやっていること、作っているなにかを否定する結論に導かれてしまいかねない恐怖から、敢えて「なかったこと」にしているのかもしれない。

 しかし、良いモノを作れば自動的に価値がわかってもらえるのか? そんなわけがない!

 このシンプルな現実を、もっと人生の早い段階できちっと教えていったらどうかと思うが、なぜそうなっていないのかいつも不思議に思う。何らかの不都合があるのだろうか?

 超能力者でもあるまいし、放置しておいてもこちらの意志や想いがそのまま伝わるわけがない。さらに間違った情報が捏造されて伝わってしまうリスクすらある。だから、わざわざ言葉を使う必要があったのに、そんな単純な事実になぜ向き合えないのかとずっと疑問に思っている。最も親しい血族(例えば親子間)ですら、何も言わないことで齟齬が生じる。そんなトラブルが毎日のようにニュースになっているのを見て、それでも、気持ちさえ持っていればいつか、それが物理学で習わないタイプの波動なんかを通じて伝わるとまだ言い張るのだろうか。
 
 大切な相手なのだったら、「気持ち」なんて持っていて当たり前だろう。その上でどう伝えていくかを工夫するのが、相手を本当に思うということだよ、と誰も言い出そうとしないのが滑稽なくらいだ。

 日本で独自の進化を遂げた携帯電話が、かつてガラパゴスと揶揄された。アクロバティックにその価値を反転してみせ、敢えてその路線が面白いじゃないかと戦略的に売っていった人がいたのは例外的に瞠目すべきことだった。しかし基本的には「そこじゃない」ところに労力のかなりの部分を割いている現状を把握も修正もできない売り手しか日本にはいないのかという声が聞かれたし、なぜ日本人は残念な努力にその素晴らしい才能を発揮してしまうのか、あなたの努力はズレているよと誰も指摘しないのかと、それこそ真摯な指摘をされて肯んじるしかなかったことを、実に苦々しく今でも思い出す。日本の(主に電気機器類の)メーカーの凋落が巷間語られ始めてしばらく経つが、それが原因の一つにあったのなら、高給を取り裁量権を持った人が誰も手を打たなかったのかと、組織の論理をむしろ凄いと感じずにはいられない。

 クラフトとしての凄さは価値の創造に寄与しうるのか。例えばこんな話を以前、誰かがしていたことがある。西陣織はたしかに素晴らしい。技術的にも高く、歴史的価値もある。しかし、現実には、西陣織そのものよりもその意匠を取り入れた(西陣織の職人からしたら「パクられた」ともしかしたら内心思っている人がいないとも限らない)エルメスのスカーフの方が優れていると思われている。何なら、買いたいと思うのはエルメスの方で、プレゼントされて嬉しいのもエルメスだろう……この事実を、日本の多くの人はどう捉えるのか、腹蔵のないところを聞いてみたいものだ。

(連載第3回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。
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