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小林秀雄『本居宣長』(前編)|福田和也「最強の教養書10」#8

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回は、小林秀雄が人生の最後に記した名著を紹介する。(前編)

 昭和四年、二十七歳の小林秀雄が、『様々なる意匠』で「あらゆる世にあらゆる場所に通ずる真実を語ろうと希つたのではない、たゞ個々の真実を出來るだけ誠実に出来るだけ完全に語ろうと希つただけである」と記した時に、「ため」と「べき」が繰り出す有用性の眠りから日本の批評は目覚めた。

 あらゆる思想、流派、イデオロギィを、取り換え可能な「意匠」に過ぎないと見た批評の自意識は、必然的に「文芸はいかにあるべきか、どのような小説が書かれるべきか」という問いからの離脱を促す、舫いへの一撃だったのである。

 方向を転換させよう。人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたらう、軍人にもなれたらう、小説家にもなれたらう、然し彼は彼以外のものにはなれなかつた。これは驚く可き事実である。この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である。(『様々なる意匠』)

「唯一つ」の「真実」を見ることは楽しいものではない。「様々」な「真実」を弄び、ああも在り得る、こうも在り得る、あの様にあるべきだ、この様にあるべきだと考える事は、人を「様々」な未来、希望へと開かれているように感じさせるのに、「真実」はそれを禁じる。しかし、人はいずれ「事実」に直面しなければならない。そうであれば、その「事実」を敢えて示さなければならない者が批評家なのだということを小林秀雄は示したのだ。

 小林秀雄は明治三十五年四月十一日、東京の神田に生まれた。江戸っ子と言われることがあるが、父親の豊造は播州の血である。父親は秀雄が生まれた頃、東京高等工業学校の助教授だった。翌々年には妹の富士子が生まれ、四十二年、一家は芝区白金に転居。小林は白金小学校から東京府立第一中学校に進み、富永太郎、河上徹太郎らと知り合う。

 この頃父親は教職を離れ、御木本真珠店の工場に宝石作りの技術者として勤務するようになり、大正六年に外遊した後、日本ダイヤモンド株式会社を設立して専務取締役に就任した。

 小林の美しいもの、最上のものに対する愛は父から受け継いだとも言われている。

 この父親は大正十年、小林が旧制第一高等学校に入学する直前に四十六歳の若さで他界してしまう。同じ年に母が肺を患ったため、家族で鎌倉に転地した。

 小林は、家の経済問題を抱え、自身の神経衰弱に苦みながら、鎌倉から学校に通った。そうした中、初めての小説「蛸の自殺」を書いて同人誌に発表し、志賀直哉に送って、賞賛の手紙をもらう。

 一高在学中は、「一つの脳髄」、「飴」、「ポンキンの笑ひ」など、次々に小説を同人誌に発表したが、大正十三年の初夏、神田の古本屋の店先で見つけた、メルキュール版の『地獄の季節』との出会いが彼の文学の方向を大きく変えた。翌年、東京帝国大学文学部フランス文学科に入学した後、「人生斫断家アルチュル・ランボオ」で文学批評活動を開始するのである。

 またこの頃、小林は中原中也と出会う。小林は、中原が同棲していた長谷川泰子という女性に恋をする。熱烈に泰子を求めた小林は大島への駆け落ちを企てるが、待ち合わせの場所に彼女は来なかった。一人で大島に行った傷心の小林は東京に戻るとすぐ盲腸炎を患い、入院した。すると泰子がやってきて付き添ってくれ、小林が退院すると、二人は同棲を始めた。小林はボードレールやポーの翻訳を手掛け、その印税を生活費にあてた。

 このように、小林秀雄は若い頃から真面目に生活と取り組んだ苦労人なのである。彼には形而上学に対する本能的な嫌悪があったが、それは彼の生活者としての常識と感受性からきている。

「様々なる意匠」は雑誌『改造』の懸賞論文の次席だった。第一席が宮本顕治の「敗北の文学」だったというのは有名なエピソードである。宮本の論文が当時流行していたマルクス主義文学理論の援用に過ぎなかったのに対し、小林は主もちのイデオロギーを排したところにしか批評は成立しないことを喝破したのである。

「或云、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうとつゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけて給へと申すなり。云々」

 これは一言芳談抄のなかにある文で、読んだ時、いゝ文章だと心に残つたのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついてゐると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたつた。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰つてゐる間も、あやしい思ひがしつゞけた。あの時、自分は何を感じ、何を考へてゐたのだらうか、今になつてそれがしきりに気にかかる。(『無常といふこと』)

 昭和十七年の戦時下、四十歳の時に書かれた「無常といふこと」の前後に、小林秀雄の批評文は完成を迎えた。

「無常といふ事」を「山王権現の辺り」をうろつく事から始めなければならないのは、偶然とも何ともつかない、自分でも訝しい一言芳談抄の一節が「心に浮かび」、「心に滲みわたつた」という個別的な一回きりの経験を反芻する位置から、「無常」という概念化され擦り減らされた言葉に向かうためである。

 批評文が、作品化され、創作化されることが必然的であると思われるのは、批評家が対象を扱う時に、思想や価値観によって切り取るのではなく、特定された状況においてのみ生起する、一般的な状況に還元しえないものとしてしか示せない独立した認識であり、伝達も理解も不可能な認識であるからだ。

 小林における批評の完成とは、「べき」、「ため」を逃れた主観を場面として造形することによって、伝えられる物へと転換せしめたという事であった。

「無常といふ事」から「モオツァルト」までの小林の批評文が、創作としての、作品としての批評文として、固有の認識を実現した事、さらにそこにおいての小説、詩、音楽、古美術、歴史といった、いかに多様な対象を批評してきたかについては改めて言う必要はないだろう。

 私が注目したいのは、その後の小林秀雄である。

 戦後の一時期に、小林はこの「完成」したスタイルから離れる。

 昭和二十九年から『新潮』で連載が始まった「近代絵画」を見てみよう。

 この連載において小林は、ドラクロワからピカソに至る、十九世紀中葉から二十世紀初頭までのフランスの画家たちを個別に取り上げながら、絵画に起った変化と、その結果を型っている。

 視野を広くとり、社会情勢はもちろんのことパトロンの問題からジャーナリズムまでも吟味する、今日の美術史研究手法からみれば、小林のそれが極めて素朴で薄っぺらに見えるのは仕方がない。

 しかし、重要なのは、小林がその変化を自分の目で、数葉の絵において見たということだ。

 セザンヌの絵が啓示する自然といふものを考えてゐると、自分は嘗て自然の前にじつと坐つた事さへ、一度もない気がして来る、とリルケは言ふ。成る程、自然を歌ふ詩を、いくつも作つたが、自然はたゞ自分の詩作の機縁にすぎなかつた。自然といふ楽器を、気まゝに掻きならしてゐたに過ぎぬ。或は、自分の見てゐた自然は、無限に大きい誇張された存在で、私は、これに当てもなく引摺り廻されてゐた様である。そのやうなものは、決して真実な自然ではない。自然の差し出す顏の一つ一つに自分が引つかゝてゐたのだ、いや寧ろそれは自分自身の様々な表情だつたのであらう。さういふ事を、セザンヌの絵のきびしい潔白な客観性或は即物性が教へてくれた。(「セザンヌ」『近代絵画』)

 セザンヌが摑みたかったのは、自然の瞬間の印象ではなく、自然といふ持続する存在だった。そうして描かれた絵は参照すべき「本物」を失ったが故に、如何なる外的な支えもなく、自己だけで、何らかの完結を求めざるを得ない「潔白な客観性或は即物性」を確立するにいたったと、小林は言う。

 ヨーロッパの近代絵画についての批評は海外からの翻訳や引用に頼りがちになる。しかし、小林は翻訳に頼ることなく、批評的な言説を日本人の営為に沿って作り直した。

『見えるものと見えないもの』というメルロ=ポンティの名著がある。セザンヌについて書くとき、小林は当然この本を読んだであろうが、メルロ=ポンティは露ほども感じられないばかりでなく、メルロ=ポンティを併せ読んでも、全く遜色がない。むしろ小林の批評のほうが強いのではないかとさえ思う。

 批評の完成形に至った小林がその後、セザンヌやピカソの絵を自分の批評の中に取り入れた理由として、自分が場面として作り出すイメージの表現に限界を感じ、それに代わるものを求めたというとはあるだろう。

 しかし、安易に名画のイメージに頼ったわけではもちろん、ない。小林は近代絵画をイメージとして批評の中に導入することで、自ら作り上げた批評の完成形を壊したのである。それは、「考えること」から「感ずる事」への直進を意味していた。

 そこからさらに小林は「感想」へと進む。

 この連載は「近代繪畫」の完結後、同じく『新潮』で昭和三十三年五月から始まり、三十八年六月まで、五十六回にわたって続いた。

 ところが、結局小林は「感想」を完成させることができず、中断する形で連載を終えてしまった。その後も小林は「感想」に手を入れる事がなく、公刊されないままだったが、平成十七年、『小林秀雄全作品』の別巻として収録された。

「感想」について、小林はこう言っている。

「書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません」 (「人間の建設」)

「感想」は批評として異様な形を呈している。この連載は第一回から最後までベルグソンについて言及されていない回は一度もないため、「ベルグソン論」とも呼ばれているが、実はベルグソンについては何も論じられていないのだ。

『創造的進化』『物質と記憶』『笑い』『意識に直接与えられたものに関する試論』などのベルグソンの著書に触れながら、自由や直観、イマージュなどが提示されるが、進行に従っての問題の発展や深化、整理はなく、同じ軌跡をぐるぐる回っているに過ぎず、読者にベルグソンの祖述を読んでいるような印象を与える。

 そして、この純粋記憶の根本的な無力といふものが、まさしく純粋記憶が、どうして潜在的状態で保存されるかといふ事を理解する鍵になる、とベルグソンは考へる。こゝで、彼は、無意識といふ問題の根本にふれるのだが、精神分析が普及した今日でも、この事は、はっきり考えられてはゐまい。何故かといふと、ベルグソンのやうに、意識の職能といふものを徹底的に究明しない限り、無意識の事実性或は自立性に関し、いろいろ異論の余地が残ると思はれるからである。ベルグソンは、先づ、人々が存在といふ言葉につまづいてゐる事を指摘する。誰も心理状態の本質的な特性は意識にあるといふ考えから、容易に離れられない。従って、心理状態が、意識されないやうになるには、心理的状態が存在しなければならぬと考へる。 (「第二十四回」)

 肝心なのは、このような記述が、小林の意図的なものであるということだ。

「ベルグソンの分析を辿り始めたら、行くところまで辿つてみなければならない。要約不可能な彼の思想が、分析の仕方そのものゝうちに現れて来るからである。」(「第三十回」)と、小林は言っている。

 しかし、要約できないからそのまま投げ出したのだとしたら、一体「感想」は何のために書かれたのか。

「感想」は、小林のダイモンを最も率直に露呈させている作品であると言っていいだろう。ダイモンは、古代ギリシャでの死者や魂や悪霊などへの働きかけを指し、そこから偶然の背後にある必然をつかさどる力と解される。

 「モオツァルト」以降の小林秀雄の最も顕著な特徴が作品化の否定、破綻であるとしたら、「感想」は破綻の最も激しく極端な姿を示している。小林はこの作品で、その破綻を促す自らのダイモンを明らかにしようとしているのだ。

 では何故中断してしまったのだろう。小林自身が言うように、長く続いた迷走の果てに行倒れてしまったのだろうか。

 そうではないだろう。小林はセザンヌやピカソの絵を見たのと同じ、絶体絶命の近さからベルグゾンを眺め続けた。その長い時間の後に、ふと小林の目から、ベルグゾンがかき消えてしまったのだ。

「感想」はピカソの色彩の如き姿を呈している。それは宿命をイメージとして提示した、彼の完成された批評の手法から全くかけ離れた、分析しようのないあり様を読者に突きつけたのである。

★後編に続く。

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