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【4-経済】新札の顔・渋沢栄一が「幕末の志士」から「日本資本主義の父」になるまで|中村彰彦

文・中村彰彦(作家)

渋沢栄一も武士に憧れた

本来は農民の出なのに、幕末の風雲に乗じて武士として活動した者としては、新選組局長近藤勇(いさみ)、おなじく副長土方歳三(ひじかたとしぞう)、彰義隊の副頭取天野八郎らを挙げることができる。「日本資本主義の父」渋沢栄一も岡部藩2万250石(安部家)の領地だった武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)村(現、埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれ、岡部藩からたびたび御用金を求められることにうんざりして武士に憧れる少年時代を送った。

ただし、渋沢栄一は上記の3人とは全く違う個性の持ち主だった。栄一は四書五経に通じた父から教育を受け、10代初めに儒学を理解。家が藍玉や蚕から取った生糸の販売をも手掛けていたことから、自然に物資の需要と供給の関係もわかる算勘者(さんかんしや)(数字に強い者)に育っていった。

その栄一も時代の子だから幕末には流行の尊王攘夷思想にかぶれてしまい、開港地横浜へ徒党を組んで乗りこみ大規模な異人斬りをおこなおう、と荒っぽいことを考えた。文久3年(1863)夏、24歳の時である。

しかし同年8月、孝明天皇を大和にお迎えして攘夷親征の軍を発進させようと夢想した尊攘激派の吉村虎太郎ら天誅組の7、80人は、五条の代官所に乱入して代官ほか5名を殺害したものの、公武合体派諸藩の追討を受けて潰走。栄一たちのより雑な計画での攘夷決行はとても無理とわかり、栄一は関八州取締に動きを知られている危険を考えて京に走った。

夢が叶い、幸運にも恵まれた

栄一は農閑期に江戸へ短期遊学して剣と漢学を学ぶうちに、幕臣出身の一橋(ひとつばし)家用人平岡円四郎の知遇を得ていた。その平岡が栄一を一橋家に士分の者として採用してくれたのは、同家の当主慶喜(よしのぶ)が第14代将軍家茂(いえもち)を補佐する将軍後見職に指名されて上京しており、何かと人手不足なためだった。

ひょんなことから武士になりたいとの夢が叶った栄一は、尊攘激派すなわち討幕論者から公武合体派すなわち尊王佐幕派に変身し、次第にキャリア・アップを果たして禄高25石7人扶持に加えて月俸21両の勘定組頭に登用された。

栄一は播磨国の一橋領でできる安価な米や白木綿を灘や大坂で高く売るなどして殖産興業に成功し、藩札を額面にして3万両分発行した時も円滑に流通させるという理財の才を存分に発揮して出世頭となったのだ。

この頃から栄一は、滅多にない幸運にもつづけて恵まれた。その第1は、将軍家茂の死を受けて慶応2年(1866)末に慶喜が15代将軍に就任したため、身分が一橋家家臣から幕臣に変わったこと。第2は慶喜の弟のひとり徳川昭武が翌年開催されるパリ万国博覧会に日本代表として参加する、ついては書記兼会計掛としてこれに同行せよ、と通達されたことである。

慶応3年1月11日、横浜港を出発。上海、シンガポール、インドなどを経て2月29日にマルセーユ港に着いた一行は、パリでは館一軒を借り上げてフランス語を学ぶかたわら西洋文明の吸収に努めた。

のちに栄一が第一国立銀行改め第一銀行(現、みずほ銀行)の総監、頭取として43年間勤続し、その間、預金量国内一を誇ったのも、この時パリで銀行(バンク)のメカニズムを理解したことに遠因がある。徳川昭武一行の留学費用は月5000ドル、栄一は予備金としてほかに2万両を預かっていたが、かれはこの予備金でフランスの公債や鉄道債券を買い、一行を困窮させないよう利殖を心掛けた。

総じて幕末の志士たちは、討幕派であれ佐幕派であれ金銭の使い方が荒かった。土方歳三は近藤勇が遊女上がりの妾を置くのに公費を使ったし、高杉晋作などは長州藩庁から活動費としてわたされた1000両を芸者遊びに使ってしまったほど。対して栄一は、明治元年(1868)12月3日に帰国した時、8000両以上の予備金を持ち帰った、と回想しているから大したものだ(『雨夜譚(あまよがたり)』)。

この時点で徳川家は明治新政府から駿河国府中に70万石を与えられていたため(のちの静岡藩)、栄一も妻子を伴って同地に赴き、政府から徳川家に貸し付けられた70万両を基金として殖産興業に乗り出した。これもパリや一回りしたスイス、オランダ、ベルギー、イタリア等で学んできた企業の運営法を、かれ自身は「共力合本法」と称した。これは人々が資本を持ち寄って会社を興すという意味だから、今日の株式会社のこと。まだ会社という日本語は一般化していないため「商法会所」という名称の商会を設立した栄一は、御用達(ごようたし)商人12人に協力を求め、自分が頭取となって東京で肥料類、大阪で米を買い付けはじめた。資金の3分の1を出した栄一は、物価が上がって利益が出ると見ればこれらを売却。30万両未満の投資で明治2年(1869)の10月までに8万5600余両の利益を上げる、という快挙を演じてみせた。

不健全な財政に呆れ、ビジネスの世界へ

これらのことから政府に才を知られた栄一は、その10月中に上京命令を受け、民部省から租税正(そぜいのかみ)に任じられて役人への道を歩みはじめた。まもなく民部省から大蔵省が分離すると栄一は後者に属し、大蔵小丞、大丞、少輔兼紙幣頭(しへいのかみ)などを歴任。パリ滞在中に知ったバンクにならい兌換(だかん)紙幣を発行する国立銀行創設の道を模索しはじめた。

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