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西川美和 ハコウマに乗って(20) うらぼん

うらぼん

私には霊感がない。おそらくは。

粘りつくように蒸し暑い夜ふけにも、夕暮れ時の墓場でも、たまに撮影でお邪魔する病院の霊安室でも、妖しい気配を感じたことはない。けれど心霊現象など迷信で、個々の脳内の幻聴・幻覚でしかない、とは思わない。コンビニ前の若者を散らすモスキート音が聞こえないのと同様に、私が知覚できないものの方が世界には多いはずだ。背中が重い、首が回らない、全て姿勢の悪さや寝違えのせいにしてぐるぐる回したり引っ張ったりを試みるが、見える人や霊からすれば、「ちゃうのよ」というメッセージがあるのかもしれない。何事も鈍感力でスルーだ。

そんな私が1つだけ、奇妙な体験を持っている。

高2の5月に、同居していた祖父が90歳で亡くなった。老衰でもう足腰は立たず、病気も進行して祖父自身も苦しげだったし、母の自宅介護も長引いていた。正直、寂しさの中にほっとした気持ちもあった。私の生家は古い農村地域にあって、当時は自宅で葬儀をしていた。通夜の晩には親戚が続々と集まってきて、何組もの家族が寝泊りし、翌日の法宴のために納屋から冠婚葬祭用の古いお膳や食器が出されて台所に積み上げられた。

私は当時から深夜ラジオを聴いてばかりの宵っ張りで、翌朝は早くから葬儀の準備も手伝う予定なのにやっぱり眠れず、夜中の2時ごろ、誰もが寝静まった母屋の台所に、足音を忍ばせながら水を飲みに行った。その時――白い壁に、15センチほどもあるムカデが、黒光りする体をくねらせながら這うのを見た。虫や生き物にはわりと慣れて育ったが、ムカデは初めてだった。ふぞろいに動く、無数の足。思わず短い悲鳴をあげた。が、誰も起きない。ムカデも私の悲鳴には反応せず、ゾロリ、ゾロリ、と這っている。なんていやらしい動きなんだろう。いまいましい。退治してやる。

新聞紙を丸め、椅子に乗り、右手を振りかぶったその時、「こんな夜に、殺生するのか」と、迷いがよぎった。通夜振舞いも、精進料理で済ませていた。うちの宗派での定義のくわしくは知らないが、私の無情な殺生のために、祖父の冥途への旅路が妨害される顛れもなきにしもあらず。あるいは、このムカデ自体、祖父の生まれ変わりという考え方も――。

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