
【65-WITHコロナの時代】仏教はコロナ禍の絶望を救えたのか|鵜飼秀徳
文・鵜飼秀徳(ジャーナリスト)
コロナは僧侶を怯えさせた
新型コロナウイルス感染症の拡大は仏教界にとっても、戸惑いと変化をもたらした。コロナ禍がまず浮き彫りにしたのは、社会にとって必要とされる寺院のあり方だった。
3月上旬、仏教界には不穏な空気が漂いはじめていた。韓国の新宗教団体「新天地イエス教会」で2000人以上が感染する大規模クラスターが発生。欧州の教会でも葬儀を通じて聖職者らが多数、感染死したと伝えられた。
狭い空間で多くの信者が礼拝したことや、司祭らがウイルス感染した遺体に直接触れたりしたことが原因とされた。
日本国内では愛媛県松山市で営まれた葬式で4人が感染。「宗教空間は危ない」。にわかにそんな空気が漂い出した。
そして3月29日、タレントの志村けんさんがコロナに感染して亡くなり、仏教界にも衝撃が走った。志村さんの兄は報道陣の前で「骨も拾うことができないし、顔も見られない」「本当は盛大に送ってあげたかったのに悔しい」などと心境を明かしたからだ。4月23日に亡くなった俳優の岡江久美子さんの場合も似た状況だった。
コロナ禍では、死を看取ることさえできない――。弔いのあり方が社会全体の関心事になる一方で、仏教界は完全に萎縮してしまった。
社会の動向に関し、敏感とはいえないのが伝統仏教界。だが今回の動きは早かった。各宗派は葬儀の取り扱いにたいして独自のガイドラインを作成しだす。ある宗派では次のように述べている。
「感染拡大を防ぐ意味では、葬儀延期が望ましい。しかし、喪主側の強い要望があった場合はこれを承諾する義務もあり、小規模葬儀などのいくつかの衛生上の措置を条件に行うことになる。葬儀規模は家族葬の形とし、濃厚接触者がいる場合は出席を禁じることも重要」
具体的には、感染拡大局面では遺体を先に火葬し、遺骨にしておいた上で感染が収まってから葬儀をやる手順である(「骨葬」という)。どうしても、通常の葬儀を、と遺族が望む場合は最小規模の参列者に抑える。
本来ならば仏教者は、「覚悟をもって」遺族に寄り添わなければならない。死の直後の弔いは「グリーフ(悲嘆)ケア」の要素が大きいからだ。
だが、コロナは僧侶を怯えさせた。僧侶自身への感染もさることながら、寺や葬儀の場がクラスター発生源になって、批判されることを警戒したのだ。中には葬儀拒否を表明する僧侶も出てきた。「死の区切り」を付けられない遺族の心中を察すると余りあるものがある。
私は京都の観光地にある寺で住持しており、寺院の対応をウォッチしてきた。すると、山門を閉じた大寺院がいくつもあった。私は驚き、呆れてしまった。
寺の門を閉じる、なんてことは、過去のコレラやスペイン風邪の流行時にもなかったこと。旅行者がほとんど京都に入ってこない状況が続く中で、何万坪もの敷地を誇る大本山などは「3密空間」になるはずがない。