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角田光代さんの「今月の必読書」…『全部ゆるせたらいいのに』

逃げられないから

アルコール依存症と、ただの酒好きとの違いはなんだろう。アルコール依存症かどうかを判断するスクリーニングテストというものがあって、その質問事項を読めば、違いはなんとなくわかる。でもたとえば、この小説に出てくる宇太郎はどうだろう。高校時代の部活の先輩、千映と結婚し、恵という1歳半の子どもがいる。仕事も職場も好きになれず、のしかかる責任にこらえきれず酒を飲む。酒量が増える。妻の千映は、お酒に依存していると宇太郎をなじるが、それは、アルコール依存症の父を持つ、その恐怖から言っているのか、それとも、宇太郎の飲酒は本当に度を超しているのか。

小説は、千映の両親が出会い、恋をし、子を身ごもり、結婚し、家族になっていく様子も描く。千映の父親は英語の原書本を読む、理知的でおだやかな、子煩悩の男だった。結婚して子が生まれたので大学院を辞め、アルバイトを掛け持ちして生活費を稼ぎ、やがて大手企業に就職する。仕事に追われ、怒りと苛々にさいなまれて酒を飲むようになる。泥酔するまで飲んで暴力をふるう。どんどん加速する。千映はそんな父を疎みながらも対話しようとする。説得しようとする。父親が病気だとは思っていないからだ。「厳しくて気難しい、酒好きの人」だと信じていたからだ。

大学を卒業して実家を離れても、千映は父親から離れることができない。就職した千映が有給休暇をとって父親をアルコール治療専門病院に連れていくくだりがあり、たんたんと描かれているのに、私はその壮絶さに震え上がった。彼女が受けてきたどんなひどい仕打ちより暴力より生々しくおそろしく、何より、父を病院に連れていく、それが果てのない永久運動に感じられて叫び出しそうになる。でも千映は叫び出さないし、逃げない。ただ逃げられないからだ。

千映の父と母は離婚する。それでも千映は父から完全に離れられない。恐怖と罪悪感と、そしてたぶん、愛情のゆえに。親子とは、家族とは、愛情とは、なんと理不尽なんだろう。親のもとを離れ、あらたな家を作り、子を産み母になっても、千映が手放すことのできない、許すこともできない、あきらめることのできないものの大きさを思って、泣けてくる。そこから逃げるために、私はつい「もし」と考えてしまう。もしこの父親が、酒に逃げなければ、もし就職しなければ、と。しかしそんな仮定をもこの小説は許さない。このようにしかできないひとりの男と、このようにしかあり得ないひとつの家族に、いかなる仮定もない。しかしむなしい仮定のかわりに、小説が見せるのは、その家族から続く、理不尽をなんとか乗り越えようとする、あたらしい家族の姿だ。そのことに胸打たれる。

(2020年8月号掲載)

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