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実録と資料で振り返る「生誕120年」昭和天皇87年の生涯

100年前、ロンドンでの英国王ジョージ5世との出会いが君主像の礎となった。/文・梶田明宏(昭和天皇記念館副館長)

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▶︎本稿では幼少期や若かりし頃を中心に実録や他の資料からエピソードを選び、昭和天皇の生涯をふりかえる
▶︎生物学研究の役割や、その素地となった教育関係者の影響は、昭和天皇の生涯を研究する上で、もっと深めるべき要素
▶︎昭和天皇が1921年の訪欧で得た収穫の中でもっとも大きかったのがジョージ5世との出会いだった

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梶田氏

昭和天皇の若かりし頃をふりかえる

この令和3(2021)年は、明治34(1901)年に昭和天皇が誕生してから120年という節目の年です。その87年8ヶ月あまりの生涯は、宮内庁書陵部が編修した『昭和天皇実録』(以下、実録)に記録され、2015年から本文18冊・索引一冊として刊行されました。私もその編修に関わった一人です。

崩御されてすでに三十有余年、多くの方の記憶に残る昭和天皇のお姿は後半生でしょう。そこでこの節目に、幼少期や若かりし頃を中心に実録や他の資料からエピソードを選び、昭和天皇の生涯をふりかえってみたいと思います。なお読者の便のため、時期的に即位前でも昭和天皇と表記することにします。

さっそく幼少期から見ていきます。子どものころの昭和天皇は海岸で貝拾い、野山での昆虫採集など自然に親しみ、活発に遊びまわっていました。海でいえば葉山、沼津・熱海、山だと箱根の宮ノ下、日光・塩原・伊香保に御用邸があったので、滞在中は自然を満喫できたのです。

東京でも皇孫仮御殿のあった赤坂御用地内には広い庭園があり、当時は宮内省の所管だった新宿御苑と上野動物園にひんぱんに遊んだ記録が残っています。

昆虫に関する昭和天皇の最大の思い出は明治44(1911)年、10歳のとき、弟の秩父宮と伊香保の山に21回も登り、苦心の末にオオムラサキ2匹を捕ったことで、後年、昭和天皇は「お付きの者と一緒に提燈を掲げて、それを祝った本当によい記憶をもっています」と語っています。その夏採集した230余点の昆虫を分類整理して、一つの大きなガラス箱に収め、夏休みの作品として学習院に出品しました。残念ながら、関東大震災で焼失してしまい、後年の記者会見でも「非常に惜しんでいる」と語られています。

貝の収集にも熱中しました。9歳の昭和天皇が、沼津滞在中に大正天皇・貞明皇后(当時は即位前)へ送った手紙が実録に収録されており、こんな一節があります。

「はまにでてかひをさがすことも有ります、しかし、かひはこちらにはあんまり有りません、葉山にはたくさんございますか」(明治43年2月4日)

収集した昆虫や貝は、図鑑で照合して分類・整理されました。それに一役かったのが、周囲の教育関係者でした。昭和天皇の御養育掛長は元学習院教授で皇太子時代の大正天皇の侍従も務めた丸尾錦作という人物。その地縁で岐阜の名和靖という昆虫学者から、4歳の昭和天皇へ26箱もの昆虫標本が献上され、それが昆虫へ関心をもつ契機になりました。足立タカなど女子師範学校出身の侍女たちは、それぞれの伝手で当代一流の研究者の助言をあおぎ昭和天皇の標本づくりや整理を助けました。

幼少時の昭和天皇といえば、学習院初等学科の院長だった乃木希典の影響や、教育者、杉浦重剛が進講した倫理など、いわゆる帝王教育がよく語られますが、じつは周辺にいた教育関係者の影響が大きかったのではないでしょうか。後に鈴木貫太郎と結婚した足立タカについて、後年、昭和天皇は記者会見で「本当に私の母親と同じように親しくしたのであります」とまで語っています。

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5歳のころ(明治40年)

昭和天皇を支えた生物学研究

昆虫や貝への興味がこうじて、昭和天皇は大正の終わり、赤坂御用邸に生物学御研究室を作り、東京帝大出身の服部廣太郎の指導のもと本格的な研究を始めました。この生物学研究への強い関心は広く知られていますが、これが単なる趣味にとどまらず、昭和天皇の重要な心の支えとなっていたのです。

昭和天皇の生涯は摂政に就任して以降は苦難の連続で、「家族の支えや生物学研究がなければ押しつぶされてしまったかもしれない」という見方さえあります。ですから生物学研究の役割や、その素地となった教育関係者の影響は、昭和天皇の生涯を研究する上で、もっと深めるべき要素だと思います。

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生物学御研究室にて(大正14年)

大正10年の外遊

大正8(1919)年には、成年式が行われ成年皇族の一員となり、久邇宮良子女王(香淳皇后)との結婚が内定。幸せに満ちた少年時代は終わり、昭和天皇は君主への道を歩み始めます。

その過程で最も大きな影響があったのが、大正10(1921)年のヨーロッパ訪問です。イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアを半年間かけて訪問し、8ヶ国の君主・元首とローマ教皇に会見しています。今年はこの訪欧から100年という節目でもあります。

昭和17年に侍従の小倉庫次へ「自分の花は欧洲訪問の時だつた」と語っていますし、昭和55年の記者会見でも、「一番楽しかったことは、皇太子の時代のヨーロッパ訪問であります」と発言しており、その影響の大きさが分かります。

この外遊は、後の宮内大臣・松平慶民や、毛利家から西園寺家の養子となった西園寺八郎など、渡欧経験がある若手宮内官が企図したものです。新しい時代に天皇になる人物はヨーロッパを見ておかないといけないと考えたわけです。

大正天皇が療養中ということもあって、貞明皇后や市井の保守派は強く反対しましたが、首相の原敬、渡欧経験のある元老、山縣有朋や松方正義の後押しで実現しました。

当初は見学を主体としたお忍び旅行として計画されましたが、最初の訪問国であるイギリスの国王ジョージ5世の強い意向で、国王・元首なみの待遇で公式に迎えられることになりました。

そうなると晩餐会などへ出席することになりますが、若き昭和天皇は西洋式マナーには不慣れでした。随行取材した時事新報記者の後藤武男は戦後、「文藝春秋」に当時の回想を寄せています。そこにはお召艦「香取」が横浜を出航した後の最初の午餐会の様子を、こう記されています。

「皇太子は愉快気に小栗長官や艦長などに言葉をかけながらスープを『ピュッ、ピュッ』と音を立てながら吸っていた。肉の皿をホークとナイフで、ガチャン、ガチャン、と無器用な恰好で切っているのである。口へ入れた肉のたべ方もムニャムニャ音を立てていた。皇太子はこれを少しも無作法とも何とも思っていないのである」

これを見た通訳の山本信次郎海軍大佐などから、テーブルマナーの猛特訓を受けることになります。しかし成果がなかなか表れないため、懸念した閑院宮載仁(ことひと)親王と、外交官で供奉(随行)長の珍田捨巳らが、直接、マナーについて戒める一幕もあったと、供奉員の海軍中将竹下勇が書き残しています。

後藤は昭和天皇のスピーチが会話体ではなく、「是れ余の大いに欣幸とする所なり」などと文語体であったことにも驚き、再三、供奉員へ改めるよう建言したとも書いています。なかなか改まらなかったようですが、経験を重ねるうちに、「かくも盛んな歓迎の会を催していただいて誠にうれしく存じます」と、メモも持たず、よどみなく話せるようになったというのです。

また、昭和天皇はスコットランドの名門貴族であるアソール公爵夫妻の質素な暮らしぶりを目の当たりにして、「イギリスの皇室の次の名門とは思われないほどの質朴さである。私には日本の華族や富豪たちが、アソール公のやり方を真似たならば、日本に過激思想なぞは起こらないであろう」という感想を抱き、側近を介して後藤へ伝え、「私のこの感想は、新聞電報で打ってもかまいません」とまで口にしています。

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ジョージ5世と馬車に同乗

ジョージ5世の教え

昭和天皇が訪欧で得た収穫の中でもっとも大きかったのがジョージ5世との出会いでしょう。バッキンガム宮殿に宿泊中、ジョージ5世が突然、昭和天皇の部屋を訪れ、親しく談話することがありました。その内容について昭和天皇は戦後の記者会見でこう語っています。

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