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囲碁棋士・一力遼——「宿命」を背負った二足の草鞋

「宿命」を背負いながら、二冠を手にした男の肖像。/文・北野新太(報知新聞記者)

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2021年の囲碁界は動乱期を迎えている。王者が頂点に君臨し続ける中、次代の旗手たちも勃興している。21歳の芝野が王座、23歳の許家元が十段、そして23歳の一力が碁聖、天元の二冠を持つ
▶︎一力は東北地方のブロック紙である河北新報社の東京支社編集部に在籍し、現役の新聞記者として勤務する横顔を持つ
▶︎将棋界との最大の相違点は、国際棋戦が存在すること。中国、韓国との覇権争いにおいて苦況に立たされた現在、世界戦で最も中韓勢と渡り合っているのは、他でもない一力である

熱さや闘争心を出していくのが自分らしさ

静かな夜、碁盤に向かう一力遼はまるでダンサーだった。

19×19の線上に黒石と白石がひしめく戦地を睨みながら忙しなく首を左右に傾け、踊るように肉体を揺らしている。頭を掻きむしり、頬杖を突く。正座から胡座に崩し、胡座から正座に直す。暗い部屋の光はスポットライトを思わせた。

激しく動的な対局姿だが、盤上に正対する背筋は直線上に伸び、姿勢は乱れない。手洗いのため対局室を出る度、振り返って一礼をした。

「私は対局中、表情や態度に感情が出てしまうタイプなんです。あの時は際どい局面だったので慎重に読んでいただけだったんですけど……。動いていた方が考えられる。熱さや闘争心を出していくのが自分らしさだと思います」

5月6日、東京・市ヶ谷の日本棋院5階にある特別対局室「幽玄」。宿敵の芝野虎丸と激突した第46期名人戦リーグ5回戦は終盤の佳境を迎えていた。無敗で首位を走り、初の名人挑戦を見据える一力にとって重い意味を持つ時間帯だった。

師匠である九段の宋光復は、今夜もまた同階の玄関脇にある記者室で愛弟子の戦況をモニター越しに見守っている。勝負師の鋭さより紳士の穏やかさで周囲を包む男は、楽しげな顔で当然のことを言った。

「遼も……虎丸さんも強いなあ。小さい頃に碁を始めてますからね。碁は小さい時から始めないと」

映像から表情の窺い知れない芝野は微動もせず、盤上に視線を落としている。

形勢はどうなっているのだろう。中継画面に表示されているAIの評価値は、夜の始まりとともに一力の勝率90%以上、芝野の数%と大差に広がっていたが、一手進むと急に正反対の数値を示すことも度々ある。急転直下の傾向は将棋より囲碁の方が強い。相手の王将を詰ます明白なクライマックスに向かう前者と比べ、後者はあまりに広大な戦場で生死を問うからかもしれない。

何より、自らの石でより多くの陣地を囲った者が勝つ競技の内包する「限りなく無限に近い有限」の可能性の中で勝負しているのは、精密機械ではなく生身の人間なのだ。

午後9時16分、一力は碁笥から白石を摑むと、右手の指先を上辺へと伸ばした。芝野の黒石を一気に17子も召し取っていく。

宋とともに手元の検討盤に向かっている老練の観戦記者は、ふと独り言のように言った。「御曹司は読めてるな……。一力君が勝つよ」

一力は自ら「飛翔」と揮毫した扇子を左手に握り締め、上体を盤上に躙り寄らせる。勝負は終局へと向かっている。

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一力遼

七冠と三羽烏

2021年の囲碁界は動乱期を迎えている。16、17年に2度の全七冠同時制覇を果たして国民栄誉賞を受賞した32歳の井山裕太は、現在も棋聖・名人・本因坊の大三冠を保持する。王者が頂点に君臨し続ける中、次代の旗手たちも勃興している。21歳の芝野が王座、23歳の許家元が十段、そして23歳の一力が碁聖、天元の二冠を持つ。「令和三羽烏」の呼称が浸透した3人の誰が最も速く、最も遠くへと飛べるか。同世代の2人とともに黒い翼を広げる一力は言う。

「2010年代は井山さんが圧倒的なパフォーマンスを続けた時代でした。でも、4人でタイトルを分け合う今は転換期を迎えています。誰が世代交代を進めて抜け出せるか、誰かが井山さんのようにタイトルを独占してもおかしくはない、と考えることは自分にとって大きなモチベーションになっています」

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井山裕太

囲碁には日本棋院、関西棋院で男女計約500人の棋士がいるが、七大タイトルの戦線を争うのは一握りの強者に限られている。

同じ宋門下の兄弟子で七段の平田智也は、4学年下の一力と小学生時代から一緒に夢を追った間柄で今も兄弟のように親しい。プレーヤーの視点から一力の強さを端的に語る。

「碁の『読みの力』には速さ、深さ、正確さの3つがあります。トップ棋士はもちろん全て優れていますけど、3つに分解した時、一力の正確さは群を抜いている。いちばんミスの少ない棋士と言っていいと思います。だから安定して結果を出せる。井山先生の深さは誰よりも深い。一力以上の速さを持つ人もいる。でも一力は誰よりも正確です」

「三羽烏」の両雄は、さらに一力の強さを万能性に見る。芝野は「一力先生の碁には弱点がないんです」と笑みを見せながら明かす。「全体的な力があるので、対策を立てるというより碁で強くなるしかないんです」。許家元も「とにかく隙がないので、なかなか勝たせてもらえないです。小さい頃から本当に何でもできた。一緒に海外遠征に行ったら、立派なスピーチまでできちゃう人です」と笑う。

そして一力は盤上から遠く離れた場所で、井山とも芝野とも許家元とも根本的に異なる個性を持っている。東北地方のブロック紙である河北新報社の東京支社編集部に在籍し、現役の新聞記者として勤務する横顔を持つ。月に2度、初心者に向けて囲碁の魅力を発信するコラム「一碁一会」を執筆する一力記者は語る。

「異なる分野を並行する人が増えた今だからこそ、という思いもありますけど、記者というより囲碁の仕事の延長線上という感覚です。どうしたら囲碁をもっと知ってもらえるかと、いつも考えています」

自らの意志で履いた二足の草鞋だが、宿命に沿った選択でもある。一力は河北新報社の創業家で生まれ育った一人息子だからだ。

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