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習近平の仮面を剥ぐ 愛憎渦巻くファミリーの歴史 城山英巳

文・城山英巳(北海道大学大学院教授)

●父より毛沢東
●姉弟の危ないビジネス
●離婚危機
●娘は偽名で留学

習近平の本心はどこにあるのか

今ではにわかに信じがたいが、習近平(しゅうきんぺい)が中国共産党総書記に選ばれた2012年秋、中国は民主化に向かうという期待でみなぎっていた。

根拠は、父親が政治改革に熱心で、改革派知識人の間から高い評価を得ていた習仲勲(しゅうちゅうくん)元副総理(1913~2002年)だったという一点に尽きた。仲勲は毛沢東(もうたくとう)の発動した文化大革命期(1966~76年)も含めて政治的迫害を受け、16年間も軟禁、投獄された。習近平少年も文革で「黒帮(反動分子)の子弟」として拘束され、15歳で下放した農村で「地獄」を味わった。

2012年当時、北京で取材していた筆者は、「習近平は父親を真似る」という声をたくさん聞いた。しかしこうした楽観論を私に語った改革派知識人の何人かは、翌13年から始まる言論弾圧の嵐の中で、投獄されたり、中国を捨て米国に亡命したりした。今でも多くの改革派の言論は封じ込められたままだ。

私はこの10年間、ずっと次のことを考えてきた。

「習近平はなぜ開明的な父親でなく、毛沢東を真似る政治を行うのか」「文革時代に逆戻りさせるのか」

若い頃から政治実績がないにもかかわらず、党内で尊敬を集める改革派の父の「威光」と「コネ」だけで出世し続け、トップに上り詰めると一転、父親を「反面教師」としているかのようだ。国内を豊かにし、対外的に強硬に振る舞い、ナショナリズムを高めれば、異論を許さない文革のような毛沢東政治のままでも、絶対多数の民衆の支持を得られると自信を深めている。

一体、習近平の本心はどこにあるのか。革命、建国、文革、改革開放――。彼は家族を通じて「中国共産党史」がその巨体に染み込んでいる。ファミリーヒストリーを追い、「習近平中国」の終着点を考える。

習近平

「紅い血」を引き継ぐ

習近平が共産党トップの座を手中に収めたのは、今から15年前の2007年10月に開かれた第17回党大会。開幕直前、元高官を親族に持つ共産党関係者が、「(共産党の)紅い血やDNAを引き継ぐ人が必要だ、という声が党内で急に高まっている」と語ったのを覚えている。

そうした声に押されるかのように、彼は浮上する。5年後に引退する胡錦濤(こきんとう)総書記の後継者として、胡と同じ共産主義青年団(共青団)出身の李克強(りこくきょう)遼寧省共産党委員会書記(現総理)が優勢だったが、あっという間に上海市党委書記の習近平が急浮上し、最高指導部・政治局常務委員会(当時は9人)の序列で、6位の習が7位の李を上回った。

「紅い血」を受け継ぐ近平の父、仲勲はどんな人物か。

中国西北部に位置する陝西省富平県で生まれた。共青団に加入したのは13歳。15歳だった1928年、愛国学生運動に参加した際に逮捕され、獄中で共産党に入党した。約30年後に運命を決める革命家・劉志丹(りゅうしたん)と出会い、蒋介石(しょうかいせき)の国民党軍を敵にゲリラ戦を戦い、1934年11月に「陝甘(陝西、甘粛省)辺区ソビエト政府」を樹立した。21歳の仲勲は同政府主席に就いた。同志には、建国後に中央人民政府副主席になるが、毛沢東から「反党」と糾弾され54年に自殺する高崗(こうこう)がいた。

1934年10月、毛沢東らは蒋介石軍の掃討作戦を受け、中南部・江西省瑞金に建てた革命根拠地「中華ソビエト共和国」を捨て、8万人の紅軍(共産党軍)を引き連れて約1万2500キロを歩く「長征」と呼ばれる大敗走を開始した。毛沢東は、途中で陝北(陝西省北部)に劉志丹と習仲勲の革命根拠地があると知り、そこを目指し、36年10月に到着した。残ったのはわずか1万人。毛沢東は最終的に陝北の延安に本拠を築き、抗日戦争と国共内戦に勝利した。仲勲らがいなければ、毛沢東の新中国は誕生しなかったかもしれない。

96歳で存命の母・斉心(さいしん)も1939年、13歳で八路軍(共産党軍)の戦士になった闘士。44年、仲勲は前妻と別れ、斉心と結婚した。

毛沢東

一冊の小説で16年間投獄

1949年の中華人民共和国成立後、共産党中央西北局第二書記として陝西省にいた仲勲が、毛沢東から呼ばれ、中央宣伝部長に就くのは1952年。翌53年6月に習近平が誕生するが、「北京(49年まで「北平」と呼称)に近くなった」ため、「近平」と命名された。近平は政権中枢「中南海」で幼少期を過ごした。

仲勲は59年には国務院副総理に昇格し、周恩来(しゅうおんらい)総理の右腕となったが、悲劇は3年後の62年に起こる。原因は一冊の小説だった。

若き仲勲の戦友で、1936年に戦死した前出劉志丹の弟夫妻が、兄を題材にした『劉志丹』を執筆、出版した。しかしこの中に、失脚した前出高崗をモデルにした人物が登場するため、毛は「小説を利用して党に反対するとは一大発明だ」と批判。仲勲は「小説執筆の裏にいる」との罪をなすりつけられて失脚、副総理も解任された。16年に及ぶ審査と下放、投獄の始まりだった。「反動分子の子」近平少年にも悲劇が降りかかる。

空腹のあまり生肉を食らう

習近平が中国メディアによる本格的なインタビューに応じたのは1996年、2000年、4年の3回ほどしかない。興味深いのは、マスコミ嫌いの彼が3回とも、父の失脚4年後の1966年に始まった文化大革命での思い出したくもない悲劇を饒舌に語っていることだ。

福建省福州市党委書記時代の1996年4月、『中国紀検(規律検査)監察報』に掲載されたインタビューでは「実際に私は一般の人より多くの苦しい目に遭っている。文革中に4回監獄に入り、『反動学生』として、大小10数回にわたり批判大会で吊し上げられた。飢えて『物乞い』をやったこともある。監獄の中で体中シラミだらけだった」と振り返った。

福建省長時代の2000年、共青団系の雑誌『中華児女』社長とのインタビュー記事「私はいかにして政界に入ったか」で語った次の思い出には、習近平のプライドと反骨心を彷彿させるものがある。

「文革で我が家は捜索、差し押さえられた。当時の私は頑固で、なめられるのが嫌だった。(反抗したから紅衛兵の)造反派ににらまれ、何か悪いことが起こると、すべて私のせいにされた。当時、15歳に満たなかったが、彼らは私に『お前の罪がどんなに重いと思っているんだ』と責めた。『銃殺刑で十分か』と私が答えると、『銃殺刑100回分だ』と返された。これに対して『(死ぬのは1回だから)100回も1回も変わらない。100回でも何も怖いことはない』と言い返した」

日本の少年鑑別所に相当する「少年犯管理教育所」に収容された。そこには打倒された幹部の子供たちが再教育を受ける「学習班」があったからだ。

ちょうどその頃(1968年末)、毛沢東は若者を農村や辺境での農作業に強制従事させる「上山下郷(じょうざんかきょう)運動」に着手した。近平は、農村への下放を喜び、自ら志願して、1969年1月、かつて父親が革命闘争した陝西省延安に「逃げる」ことを選んだ。

浙江省党委書記だった2004年8月、延安電視台(テレビ局)の「我是延安人(私は延安人)」という番組のインタビューに応じたが、ここで習は「延安に向かう専用列車の中では全員が泣いていたが、私は笑っていた。北京にいては命があるかどうかも分からなかったからだ」と回顧している。このインタビューで、その後有名になるエピソードをいくつも紹介している。

近平は下放先の梁家河(りょうかが)村に到着してすぐ、村民から「犬にパンを食わせた知識青年」というあだ名を付けられた。北京から持ってきたカバンの中に、乾燥したパンが残っているのを見つけ、もう食べられないと思い、犬に与えたのだ。しかしパンなど見たこともない村民は大騒ぎし、反革命分子の子供は西洋の贅沢な食べ物を浪費していると誤解された。

空腹でずっと肉も食べられず、運ばれた肉を見た瞬間に我慢できず、生のまま食べたこともあった。さらに、あまりに苛酷な農作業が一日中続き、タバコを吸えば手を休めて一服できる習慣があったため15歳でタバコを覚えてしまったとも白状している。ちなみに、1回覚えたタバコはその後もやめられず、妻の彭麗媛(ほうれいえん)は2003年のインタビューで、「夫に少し良くないことがある」として喫煙習慣を挙げている。「健康を害することを知っているが、夫には他に趣味がなく、仕事も忙しい。小さい楽しみも奪ってしまうことは忍びない」と理解を示した(中国誌『文代大観』)が、習近平がその後、長寿のため禁煙したかどうかの情報はない。

妻・彭麗媛

地獄の記憶を「成功体験」にすり替える

梁家河村に来て3カ月。想像を絶する農村の貧困になじめず、逃げ出し、汽車で北京に戻ってしまった。母の斉心も、弟の遠平(えんぺい)を連れて河南省の思想改造機関「五・七幹部学校」で7年間にわたり強制労働をさせられた。逃げた北京で拘束され、下水管を埋設する肉体労働にかり出された。北京にもはや居場所はなかった。

下放の7年間で最も辛い瞬間はいつだったか。近平は延安テレビの取材に対し、「一番上の姉が死んだ時は泣いた」と漏らした。この姉とは、仲勲と前妻・郝明珠(かくめいしゅ)の長女、習和平(わへい)で、文革中の迫害で死亡した。

習近平には姉が2人(斉橋橋(きょうきょう)と斉安安(あんあん))と弟・習遠平がいるほか、仲勲と前妻の間の異母姉として習和平と習乾平(かんぺい)、兄・習富平(ふへい)がいる。後に「正寧(せいねい)」と改名する富平は98年、海南省司法庁長時に心臓病で亡くなった。

村に戻った近平は見違えるように農作業に精を出し、農民に溶け込み、農民になろうとした。次第に農民の近平を見る目も変わり、1970年頃から村民が近平の住む洞窟に集うようになった。

近平は福建省長時代の前出インタビューで「7年間の下放での最大の収穫は何か」と尋ねられ、「実際とは何か、群衆とは何かが分かった」と答えている。これまでは「物乞い」を馬鹿にしていたが、土地の痩せたこの農村では「老人や子供は物乞いに出ざるを得ない」と知った。「中央文件(党中央公文書)が記す農村と実際に見た農村の違いは衝撃だった」と漏らしている。

ただ共青団加入、共産党入党とも父親の問題のため高い壁だった。それぞれ8回、10回も申請書を提出したところに習近平の執着心を感じざるを得ない。結局、村の上部機関に当たる県の党委書記が「(父親の問題を)入党に影響させてはならない」と配慮し、1974年に入党が認められ、村の党支部書記にも選ばれた。75年には北京の名門・清華大学化学工業学部に「推薦」で入学した。22歳になっていた。

習近平にとって文革とは、自身を苦しめ、父母を奪われ、姉を亡くし、涙までした悲劇の歴史だったはずである。しかし「地獄」の日々がなぜか、「美談」に転じている。それは後になぜ、16年も軟禁、投獄された父親の恨みを晴らさず、逆に憎むべき毛沢東を真似る政治を展開したのか、という謎を解き明かすカギになる。

近平は1996年のインタビューでこう語っている。トップになるかなり前の発言であり、本心に近い。

「(陝北での7年で)『犬の子』『反動分子』は、共青団員、党員に変わり、北京から陝西省に下放された2万7000人知識青年の中で初の村の党支部書記に就いた。農民になり、農民の方言を覚え、村で最も頼りになる労働力の一人になった。このキャリアは、私の意志と自信を育んだ。この世に耐えられない『罪』などないと感じた。自分は逆境の中から出て来て、生き残ったと思った」

彼の中では苦難の文革が「成功体験」に変化してしまったのだ。政治の道を志すようになったのもこの頃から。しかし13歳からまともな教育を受けておらず、洞窟の暗い灯を頼りに読書に励んだといえども、学問レベルは低い。毛沢東が全てであり、文革も批判的に見ず、宣伝のまま受け入れた側面は強い。

泣き出す父を見て「勝たなきゃどうにもならない」

一方で、政治闘争や文革で打倒され、時代と政治に翻弄された父親にどういう感情を抱いていたのか。

鉱山機器工場の副工場長として河南省洛陽に下放させられた仲勲は、1966年に文革が始まると、故郷の陝西省からやって来た紅衛兵に「反党野心家」と吊し上げられ、西安の西北大学に監禁された。さらに68年からは北京にある幹部学校の独房に入れられ、厳しい尋問と審査の日々が続いた。ほとんど人と会わない独房生活は8年間近くに及んだ。

母斉心は1972年冬、周恩来総理に手紙を書き、仲勲との面会を懇願した。翌73年、家族は8年ぶりに会う願いがかなった。仲勲はもはや近平と遠平の区別がつかなかった。党中央の公式伝記『習仲勲伝』は、「習近平談話記録」(1996年12月)を基に当時のやり取りを伝えている。近平の肉声である。

「父は我々を見るなり泣いた。私は急いでタバコ一本を父に渡した。同時に自分にも取り出して火をつけた。父は私に『お前、タバコを吸うようになったのか』と尋ねるので、『思想的に苦悶しているのです。ここ数年、我々も苦難と困窮の中でやってきたのです』と答えると、父は黙って聞き、しばらくして『タバコを吸うことを許す』と話した」

泣き出す父親にタバコを差し出す19歳の近平の冷静な「大人」の対応が印象的だが、近平の心情を推し量るのは難しい。1996年のインタビューで近平はこの時の父とのやり取りについて別の「真実」を伝えている。「私の苦悩を父に伝え、てっきり同情を得られると思い込んだ」が、思いがけない言葉が返ってきた。「農村への下放はいいことだ。私がここで拘禁されていることにとらわれるな。出てくるのも待つな」。近平は父親にもはや「早く帰ってきてほしい」とは言わず、「農村で群衆と一つになる」覚悟を決めた。

近平はこの瞬間、父を打倒した毛沢東が発動した文革も共産党の一部であり、共産党の中で生きざるを得ない自身の運命を、父親と重ね合わせたはずだ。父親も自分も毛沢東の下で生かされているのであり、毛沢東の否定や批判という発想は毛頭ない。毛沢東がすべてなのだ。

同時に中国の権力闘争の厳しさも肌で感じ、こう痛感したに違いない。

「勝たなきゃどうにもならない」

父親を「反面教師」に「どうすれば共産党で生き残れるか」を学んだはずである。

父親の七光りとコネで出世

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