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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#30
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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#30

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最終章
See You Again
1999年・夏 - 2001年・冬

★前回の話はこちら。

※本連載は第30回です。最初から読む方はこちら

(30)新たなる出会い

 2000年4月14日。渋谷の古着屋で少し前に手に入れた1985年製「ライブエイド」ロゴの入ったグレーのスウェットに身を包んだ僕は、メンバーの小松、奥田、サポート・メンバーの鍵盤奏者・冨田謙さん、ベーシストの千ヶ崎学と共にドイツ・フランクフルトのゲーテ大学にいた。始まりは、僕の元に届いた1通のメール。ドイツのインディ・レーベル「アプリコット・レコード」のスタッフが日本を訪れた際に購入した我々のCDをいたく気に入ってくれ「出来ればヨーロッパやアメリカでリリースさせて欲しい」とオファーしてきてくれたのだ。そこから半年ほどの準備、やり取りを経て、コーネリアスやステレオラブも出演したというゲーテ大学校内ステージでのライヴまでもが実現。ドイツ人の父親と日本人の母親を持つお姉さんのマリコと弟のヨギ、スタイリッシュなマリコの友人アンドレアス、ミュージシャンのツヴェンなど、フレンドリーかつ誠意あふれる彼らは「アプリコット・レコード」内に新しく日本のポップ・ミュージックを紹介することに特化した「SHIBUYAHOT(シブヤホット)」というレーベルを立ち上げ、初期2枚を凝縮したコンピレーション・アルバム《SOUL FRIEND》をリリース。世界中の広い層に僕らの音楽を届けようと尽力してくれている。1999年から2000年にかけて、ドイツにおいて大掛かりな「ジャパン・イヤー」がタイミングよく展開されており渡航費などの補助も出たことも追い風となったようだ。

 学生食堂を夜だけライヴハウスにしたような、学園祭ムードたっぷりの場所だったけれど、そこはさすが「テクノの国」。重低音がしっかりと響き渡る高性能なサウンドシステムが組まれていたせいで、下半身にバスドラムやベースラインがズシッと染み込み、リハーサルの時点から僕はかなり興奮していた。そして本番。イベントに詰めかけた700人以上のドイツ人オーディエンスの熱狂に呼応するようにバンドの演奏はどんどんボルテージを上げてゆく。ラスト曲〈あの娘にガールシック〉で、僕がファルセットを唸らせ、渾身のパフォーマンスを終えた瞬間、いつもより低音の歓声が会場中に広がっていた……。メジャー契約3年目、ミュージシャンとして大きな岐路に立たされ悩んでいた僕にとっても、バンドにとっても束の間のご褒美のような旅となった。

 一緒にフランクフルトに向かった千ヶ崎学は、早稲田大学時代の音楽サークル「トラベリング・ライト」の同期。小松や奥田とは、学生時代「ハラショーズ」なるバンドを組み、精力的に活動していた盟友で、僕も入学時に出会ってすぐに衝撃を受けた凄腕ベーシストだった。大学院で生化学(バイオケミストリー)を学んでいた千ヶ崎は出会いから5年以上が過ぎた当時まだ学生。僕らがメジャー・デビューを果たす前後の怒涛の日々の中で1年半ほど会わない間に彼は熊本で「フグのエラについている寄生虫の研究」をしていた。1998年、夏。久々に彼を自宅スタジオに呼び寄せてベースを任せることになった時、以前からトレードマークだった眼鏡に髭面に加え、熊本での研究生活で真っ黒に日焼けして丸坊主、そのあまりにも浮世離れした風体に驚いた。熊本での生活について詳しく聞くと「実験のために飼育されているフグがどれだけ哀しい存在か」について飄々と語ってくれる。根底にファンクネスが宿る千ヶ崎のベースは、僕らの音楽性がこの時期急速にダンサブルでグルーヴィーなモードにシフトしてゆく中で欠かせないピースとなる。

 フランクフルトに到着して、レーベル・スタッフ数人と初めて空港で挨拶した際のことだ。サポート・メンバーの2人や日本人スタッフ数名に関してまではいきなり顔と名前を覚えられないのではと案じた僕はインパクトをつけようと千ヶ崎のことを咄嗟に「ヒズ・ネーム・イズ・ヒゲ」と紹介した。日本語が話せるマリコやヨギは「ヒゲ!」と笑っていたが、当の千ヶ崎は「俺の名前はヒゲじゃねーよ。ふざけんなよ、ヒゲなんて1回も呼んだことないだろ」とニヤニヤ笑う僕に対して馬鹿にするなと怒っていた。ただ、イベントがない日の自由行動で、僕らがマイン川沿いで開催された何キロも続くフリーマーケットで人生史上最も長いソーセージを食べたり、中古レコードを買ったりしている間に千ヶ崎が迷子になってしまった。旅先で携帯は使えない。どこに行ったのかと皆で軽く心配しながら日が暮れてマリコとヨギの家に戻ると、電話が鳴った。受話器をとって聴こえてきたのは、「もしもし、僕です! ヒゲですー! ヒゲですー!」と焦りまくった甲高い千ヶ崎の声。ドイツのチームも長いフリからのオチがよほど面白かったようで皆で顔を見合わせて笑った。

 帰国してしばらくした5月5日、僕は赤坂BLITZで行われたスチャダラパーの10周年記念ライヴ「1990-2000SDP」へと足を運んだ。僕がスチャダラのファンになったタイミングは1995年春、東芝EMIからリリースされた5枚目のアルバム《5th WHEEL 2 the COACH》なので比較的遅い。1998年になって、僕らが所属するワーナーミュージック・ジャパンにスチャダラパーの移籍が決まり、レーベルメイトになれた時は本当に嬉しかった。特にユーモラスでリラックスした彼ら独自のチャームポイントは維持しつつも、よりコアで時代の先を行くハードボイルドなファンク感に満ちた移籍第一弾アルバム《fun-keyLP》には心酔。この頃にはライヴも可能な限り会場で味わう純然たるファンであり後輩になっていたが、この10周年記念ライヴの終演後のことだ。赤坂BLITZのロビーで多くのミュージシャン、ヒップ・ホップ界隈のアーティスト、関係者と共にメンバーへの挨拶のタイミングを小松や弟の阿楠と一緒に待っていた時、つり上がった眼鏡をかけ異常なオーラを纏った長身の男性が勢いよくこちらに突進してくるのが見えた。見間違えるわけもない。彼こそ「信州信濃のラップマシーン」、その人間臭い魅力に溢れた破天荒かつ豪快なキャラクターで日本のヒップ・ホップ・シーンを牽引し、メディアを騒然とさせ続けるラッパー YOU THE ROCK☆ だった。

「ノーナ・リーヴスの人ですよねーっ! ウォー、俺さー、本当好きです。リスペクトしてます。YOU THE ROCK☆ って言います。〈LOVE TOGETHER〉を大阪のホテルの有線で初めてこの前聴いて、あんまりにも良かったから電話して聞いたんだよ、これ誰のなんて曲ですか? って。そしたらノーナ・リーヴスの〈LOVE TOGETHER〉で。CD買いに行って何回も何回も聴いてたから、今、会えてめちゃくちゃ嬉しくてさ。あの曲、マジやばいよ」

 YOUさんを僕が初めて知ったのは、一緒に暮らしていた6歳歳下の弟・阿楠が繰り返し LAMP EYE の〈証言〉を聴き込んでいた数年前。阿楠が聴く音楽のほぼすべてはキングギドラ、BUDDHA BRAND、ライムスターなどの「日本語ラップ」で、彼の部屋やCDラジカセから流れるそれらに最初は「なんだか物騒な音楽だな」としか思えなかった僕も徐々に慣れ、惹かれていった。特にシリアスに怒りを爆発させた〈証言〉で「スチャダラダラした」などと強烈なパンチラインを叫び、スチャダラパーをディスしていたはずのYOUさんが、その後すぐに SHINCO さんをプロデューサーに迎えてリリースしたディスコティークなパーティ・チューン〈Duck Rock Fever〉の楽しさと完成度は凄まじく、夢中になった。そのYOUさんが、スチャダラパーのライヴ会場で僕らの楽曲を好きだと向こうから歩み寄って言ってくれたのだから喜ばないわけがない。彼が絶賛してくれたのは、3月末にリリースしたばかりの〈LOVE TOGETHER〉。この最新シングルは、筒美京平さんにプロデュースを依頼し試行錯誤の末に完成した勝負作だった。日本を代表する作曲家・筒美京平さんに楽曲を提供してもらうのではなく、プロデューサーとして「アドバイス」をもらうというこれまでに前例のない関わり方は周囲から驚かれた。これに関しては自分達の力だけでなく我々のデイレクターである実弟・渡辺忠孝さんに対する兄・京平さんの想いが実現に至る決め手であったのは明白なのだが……。

 京平さんのご自宅に楽曲を詰めにはじめて伺ったのは1999年秋の終わりのこと。作業をしたリビングのテーブルの上に発売されたばかりで大ヒットしていたポルノグラフィティのCDシングル〈アポロ〉と、これまたミリオンセールスを記録していた Dragon Ash のサード・アルバム《Viva La Revolution》が置かれていたことに僕は驚いた。当時、59歳、職業作曲家として日本音楽史の頂点に名を刻む「筒美京平」。悠々自適に青年期に好んだジャズでも聴いているのかと想像していた彼が、むしろ20代の自分より「今、日本で流行している音楽」を貪欲に聴いているという事実に恐怖さえ覚えた。

 京平さんはこう言った。

「ゴータ君たちも、このあたりの音楽をきちんと聴くべきですよ。ちょっと上品過ぎるんですよ。若い人たちはもっともっと刺激が強い音楽を欲しているんですから。ヒットさせたいなら、今日本全国でヒットしている音楽を研究しなくちゃ。ポップな音楽とはそう言うものですから」

 YOUさんとは赤坂BLITZで出会った後、急速に仲良くなった。一緒に遊ぶと彼は四六時中、シックやカーティス・ブロウ、シュガーヒル・ギャング、パトリース・ラッシェン、メリー・ジェーン・ガールズ、シャラマーなどグルーヴィーなダンス・クラシックを黄色いドデカいCDラジカセ「Victor RV-X55」で聴いていた。 僕も真似して同じモデルをすぐに買った。ラップのみならず様々なファンク、ソウルに精通するYOUさんに教わった楽曲やアーティストは多い。ちょうど京平さんのプロデュースでもう1枚シングルを作れる、そして運命をかけたメジャーでの3枚目のアルバムの制作と発売を急がねばという時期だった。僕とメンバー、ディレクターの渡辺忠孝さんは相談の末、次のシングルを山中湖サウンド・ビィレッジでの合宿で数日間泊まりこんで作ることに決める。YOUさんにもタイミングを合わせて来てもらって共作し、その楽曲を京平さんプロデュース第二弾にしよう、と。実際にYOUさんが若手スタッフや付き人を引き連れ山中湖に来て、一緒に生活してみると彼の思わぬ几帳面さに僕らは驚く。彼はその豪放磊落なムードと相反してベイシング・エイプを中心としたお洒落なTシャツやデニムなどをひとつひとつ美しいビニール袋にパッキングし綺麗に畳んで持参、トランクを開けると同時にベッドの横にまるで洋服店かというべきレベルで整然と並べるのだ。山中湖での作業中になんと LAMP EYE の RINO さんが何気なく遊びに来てくださったりする現実に一同驚いたりしながら、YOUさんとの熱いコラボレーション作として完成した〈DJ! DJ! ~とどかぬ想い~〉は、結果的に自分達を代表する楽曲となる。正式なレコーディングは東京に戻り、市ヶ谷防衛庁の前に位置するスタジオサウンドバレイを中心に京平さんの指揮の元で行われたのだが、その時初めて京平さんと会った YOUさんが「尊敬してます!作詞の面でめちゃくちゃ影響受けました!」と挨拶したことも忘れられない。YOUさんは京平さんのことを松本隆さんや売野雅勇さんのような職業作詞家と勘違いしていたのだろう。

「YOUさん、京平さんは『作詞』はされないですよ、メロディメイカーなんで、ははは」と、僕は高速でツッコんだが、京平さんは慌ててお茶目に謝るYOUさんに対して「全然いいんですよ」と心底楽しそうに笑っていた。

 この時期、瑞々しい巨大な果実が爆発し半径100メートルまで果汁が飛び散るようなYOUさんのカリスマとそのラップの魅力を求めたクリエイターは僕達だけではなかった。山中湖合宿でYOUさんが「実は秋に出るピチカート・ファイヴの新曲にも参加してるんだよなー。あっちの方が少し後に出るかもしれないけど、発売日確かめておいて」と彼のマネージャーに呟いたのだ。気になった僕は、新曲の曲名をYOUさんに聞いた。

「ん?〈東京の合唱〉だよ」

 YOUさんは答えた。

★第31回へ続く。

★今回の一曲――PIZZICATO FIVE – 東京の合唱(2000)

■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としても少年隊、SMAP、V6、YUKI、鈴木雅之、岡村靖幸、私立恵比寿中学などの多くの作品、アーティストに携わる。
日本屈指の音楽研究家としても知られ、近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。代表作に小説『噂のメロディー・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
現在 Amazon Music Podcast「西寺郷太の最高!ファンクラブ」でホストを務める。

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