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小説「観月 KANGETSU」#37 麻生幾

第37話
熊坂洋平(10)

★前回の話はこちら
※本連載は第37話です。最初から読む方はこちら。

 七海は、車から降り立つ田辺の姿を確認した。

 急いでエレベーターに飛び乗った七海が目指すフロアーのボタンを押した時、大きな声が聞こえた。

「ちょっと待って!」

 目を向けると、田辺が駆けてきた。

 反射的に、閉まるボタンを押そうとしたが、七海はできなかった。

「ギリギリだね」

 息を切らしてエレベーターに乗ってきた田辺はそう言って七海に笑顔を向けた。

 七海は体を硬直させたまま何も言えなかった。

        *

 打ち合わせの最中、七海は、来週の発掘調査に関する金原教授の話がほとんど頭に入らなかった。

 コの字型に並べられた机の、斜め向こうにいる田辺の横顔に、時折、視線を投げては、そのことを考えざるを得なかった。

──この男はやっぱりストーカーだった! 

 そして、そのことも確信をもった。

 5日前の夜、私を襲おうとしたのもコイツだ──。

 だから、その結論に至ったのも当然だった。

──何とかしなくっちゃ……。

 七海の脳裡に、涼の顔が浮かんだ。

 本来なら、涼にすぐに相談するところだ。

 しかし、昨日、別府中央署でのやりとり以来、二人の関係が何かギクシャクしているような感触を七海は抱いていた。

 涼からのメールも今になってもなかった。

 さりとて母に相談もできない。心配させたくなかった。

 ふと頭に浮かんだ相手に、七海は自分でも驚いた。

 もし、熊坂さんがいたら、相談していただろう、ということを──。

 しかし、その熊坂さんにしても……。

 七海はなかなか答えが見つからなかった。

 覚悟を決めるのなら、大学のセクハラ委員会、という選択肢もあるが、証拠を出せ、と言われた時に応じられるものは何もない──。

 七海は、実は、答えが分かっていることを知っていた。

 自分で自分の身を守る必要がある──。

 打ち合わせが終わって、教室のスタッフや学生たちが金原教授を囲んでランチへ向かい始めた時、七海は決意した。

 金原教授に駆け寄ろうとした田辺の背中に七海は声をかけた。

 振り向いた田辺は、不思議そうな表情で七海を見つめた。

「何か?」

 田辺が訊いた。

「ちょっとお話があるんです」

 七海は、田辺の返事を待たずに先に歩き出した。

 その間、七海は葛藤していた。

 コトを荒げることで、今後、同じ教室でどうやって顔を合わせてゆけばいいのか、その葛藤が激しく全身を貫いていた。

 だが、やはりその言葉が頭の中に響き渡った。

──自分の身は自分で守るのよ!

 中庭を見下ろすテラスに出た七海は、しばらく歩いてから振り返った。

「お話とは?」

 先に口を開いたのは田辺だった。

 田辺の表情に、動揺があることに七海は気づいた。

「なぜ、私の自宅を見張っているんです?」

 七海はそう言ってから後悔した。

 もっとストレートに言うべきだったと。

「見張っている?」

 田辺が怪訝な表情を向けた。

「ええ。昨夜、先生が乗られた車が私の自宅前から発進しました。ナンバーをはっきり見たんです」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 田辺が苦笑する表情を向けた。

「何のことだよ。オレがどうして、七海さんの自宅へ行く必要があるんだ?」

 七海はゾッとした。田辺が、自分の苗字ではなく、名前を呼んだのだ。大学のスタッフや教授でさえ、そんな風に声をかける者は1人もいないのだ。

 七海はすべてをぶちまける覚悟ができた。

 そうでもしないと絶対に後悔すると思ったからだ。

「それに、5日前の夜、帰宅途中の私を襲おうとした─」

「襲う? いったい何のことを……」

田辺は困惑の表情を浮かべた。

(続く)

★第38話を読む。


■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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