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ダンテ『神曲』(前編)|福田和也「最強の教養書10」#7

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。今回は、イタリアを旅する全ての人に勧めたいこの1冊。(前編)

 今年は予定していた海外旅行を見送った人は多かっただろう。かくいう私もイタリア旅行を取りやめにした。

 新型コロナがヨーロッパで拡がり始めたとき、中心地となったのはイタリアだった。二月下旬から増え始めた感染者は三月の終わりには一〇万人に達し、一〇〇〇〇人以上の死亡者が出た。政府はまず町ごとに封鎖をし、続いて州、さらにイタリア半島全体と島々まで封鎖した。

 毎年二月に行われているヴェネツィアのカーニバルも途中で中止になった。NHKの番組がそのときの様子を追っていたが、多くの人で賑わうカーニバルのさなか、イタリア国内の感染者が日ごとに増えていき、その脅威がヴェネツィアにせまっていく不穏な空気をよくとらえていた。

 感染拡大の代名詞のようになっていたイタリアも八月には、国内の病院に新型コロナウィルス感染症の患者はほとんどいなくなった。死亡者数もゼロ近辺で推移していて、新規の感染者はヨーロッパどころか世界全体でみても、最も少ない国の一つとなった。

 ところが十月に入ると、ヨーロッパ全体で再び感染が拡大した。飲食店が営業を再開し、八月のバカンスシーズンで人の移動が増えたことが原因らしい。イタリアでも一日の感染者が一万人を越える日が続いた。春に比べ、重傷者の数は少ないが、観光旅行を楽しめる状況ではない。

 コロナが終息し、晴れて海外旅行に行けるようになったら、最初の旅行は是非ともイタリアに行きたいと思っている。あの国ほど生きる悦びを強く感じられる国はないからだ。

 ルネサンス以来、ヨーロッパの人たちにとってイタリアは憧憬の的であり、芸術と文化が咲き誇る理想郷であった。

 ゲーテもイタリアに魅せられた者の一人である。

 一七八六年九月、三十七歳の誕生日を目前に控えたゲーテは、誰にも告げることなくイタリアへと旅立った。当時ゲーテは、ドイツを代表する詩人として赫々たる名声につつまれていただけでなく、ワイマール公国の宰相という地位も占めていた。小国とはいえ、一国の政治を総攬する立場は重職であり、そのストレスは大変なものだったのだろう。ある日、ついに耐えかねたゲーテは、ワイマール公国での地位を放り出し、イタリアへと向かったのだった。

 それからほぼ二年間をゲーテはイタリアで過ごしたのだが、このゲルマンの巨匠が、憧れの土地、オレンジやレモンが木の枝をかしげる南の国に触れて、いかに心をふるわせ、その認識と思考に生命を再び吹き込み、活力を取り戻す、溌溂とした輝きに溢れているか――は彼の代表的著書『イタリア紀行』に詳述されている。

 民衆の動きは、ここではひじょうに活発でめまぐるしい。特に小売商店や職人の店が軒を並べているいくつかの通りでは、じつに楽しい光景を呈している。店や仕事場の前にはおよそ戸というものがない、いや間口はすべて開け放たれて奥まで見通され、中の出来事はまる見えである。仕立屋は裁縫をし、靴屋は糸を引っぱったり、叩いたりしているが、すべては半ば道路まではみ出ている。というよりは仕事場は通りの一部をなしている。夕方、燈火がともされると、いちだんと活気にあふれて見える。(高木久雄訳)

 ガルダ湖畔から古都ヴェローナに至って、ゲーテはイタリアの土地の文化の圧倒的な芳醇さの出迎えを受ける。小さな扉一つ一つに鍵をとりつけ、掛け金をつけ、しっかりとした鉄の柵で窓を覆わないと気がすまないような、閉鎖的なドイツの気質とは対照的な、開放的と云うのもはばかられるようにあけっぴろげなイタリアの街の風景に、ゲーテの魂はほぐさ、解き放たれていくのだ。

『イタリア紀行』はイタリアに旅行に行く際の私の必携の書である。

 海外旅行に行くとき、その土地にちなんだ、かかわりのある文学書を持っていくことを、私はお薦めしたい。

 というのは、名作と言われる文学作品は、その土地、その街や文化、気風、雰囲気などを、きわめて的確に切り取り、定着させているからだ。
そういう意味で、これからイタリアを旅行しようと思っている人に是非読んでもらいたい本がある。

 ダンテの『神曲』である。

 名前だけは知っているけど、読んだことがないという人がほとんどだろう。難解な本というイメージが強く、よほどのことがなければ読んでみようという気は起らないに違いない。しかしそれも旅行をきっかけにすれば、ハードルは随分と低くなるのではないだろうか。文庫本で三冊という手軽さなので、手荷物の中に入れて、往きの飛行機の中で読めばいいのだ。

 もちろん、飛行機の中で、肩の凝る文学作品など読みたくない、という気持ちは分かる。とはいえ、長い飛行機の旅を、ただやり過ごす、退屈しのぎのために、分厚いミステリーを読んだり、旅行ガイドを眺めているというのは何ともったいないことかとも思う。

 イタリア旅行の往きの飛行機の中で『神曲』を読めば、それは素晴らしい旅の前奏曲となりえるのである。

『神曲』の著者、ダンテ=アリギエーリは一二六五年、フィレンツェの小貴族の家に生まれた。祖父の祖父は第二回十字軍に加わって戦死した勇士であり、アリギエーリ家は由緒ある家柄であるが、ダンテが生まれた頃は貴族とは名ばかりで、父は金融業に従事し、あまり裕福とはいえない経済状況にあったようだ。

 とはいえ、ダンテは貴族のたしなみとして幼少の頃より古典文法と修辞学をおさめ、青年時代にはフィレンツェ市国の上流階級に出入りし、当代一流の学者、ブルネット・ラティーノにも師事した。

 ヨーロッパ最古の大学があるボローニャで数か月を過ごしたダンテはそこで、「愛」を主題とした新しい詩法に接して自らも作り、やがてそうした愛の詩を作る「清新体派」の第一人者となる。またギリシヤ、ローマの古典作家たちの文章を規範とする一方で、当時イタリア半島の各地で興っていた、俗語文学の詩法にも着目していた。

 このように文学の道、詩の道だけに専心できればよかったのだが、イタリアの混乱した政治状況がそれを許さなかった。

 当時、自治都市であったフィレンツェはローマ教皇庁と神聖ローマ皇帝、両勢力のはざまにあり、教皇派の「グェルフ党」と皇帝派の「ギベリーニ党」が対立していた。

 ダンテは勢力の強いグェルフ党であり、二十四歳のときには戦争にも参加している。ところが、グェルフ党の中でも商人階級を中心とする白党と、封建貴族をリーダーとする黒党に分裂して争うようになった。ダンテは白党の統領に選ばれたが、黒党の暗躍を阻止するためローマに赴いた留守中、汚職と教皇への反逆という罪をきせられ、フィレンツェを追放されてしまった。
その後、二度と故郷のフィレンツェに帰ることなく、北イタリアの都市を転々とし、一三二一年にラヴェンナでマラリアに罹り没した。五十六歳だった。

『神曲』はフィレンツェを追放された後、流浪の中で書かれた。

 この作品は1万4233行から成る長編叙事詩である。「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三編構成で、各編は33歌、歌の各連は3行から成っている。冒頭に序歌にあたる一歌が置かれているので、1+33+33+33=100で、全歌数は100歌である。

 ダンテはキリスト教の三位一体説――父、子、聖霊の三位は唯一の神が三つの姿になって現れたもので、元来は一体――を自身の文学作品で表現しようとし、1、3、9といった数字にこだわった。

 さらに当時の書き言葉として主流だったラテン語ではなく民衆が日常に使っていたトスカーナ語で書いた。洗練された文章を俗語で示すことで新しい文学の道を開いたのである。その理念はペトラルカやボッカチオに受け継がれ、ルネッサンスの波はイタリアからヨーロッパへと拡がっていった。
『神曲』の内容を簡単に説明しておこう。

 復活祭前の聖金曜日に暗い森に迷い込んだダンテは古代ローマの大詩人ウェルギリウスに導かれて「地獄」で異教徒や罪を犯した人々の末路を見た後、「煉獄」で人々が罪を浄めるために苦行する姿を見、聖女ベアトリーチェに導かれて「天国」に行き、三位一体の神の姿を見る。

 ちなみに、ウェルギリウスはダンテが心酔し、尊敬し、師事した詩人であり、ベアトリーチェは実在するダンテの憧れの女性である。

 ダンテが『神曲』で描いたのは、キリスト教世界を基軸とする、ギリシヤ、ローマの古代文学の伝統を踏まえた、「信仰による魂の救済」であった。

 フィレンツェの街を訪れた人は建物の壁に張られている不思議なプレートを目にすることだろう。

 例えば、コルソ通りのトスカーナ銀行の壁には横に細長いプレートがあって、それにはこう書かれている。

Sovra canodido vel cinta d’uliva
Donna m’apparve, sotto verde manto,
Vestita di color di famma viva.
                  Perg XXX,31-33
 清白の面紗の上にオリーヴァの冠をつけ、やごとなきひとりの淑女が、私の眼の前にあらわれた、緑の袍の下に、燃え立つ焔の色の衣召して
(寿岳文章訳 以下同)
煉獄篇 三十歌 31-33

 これは『神曲』の一節が書かれたプレートで、最後の一行にはどの部分からの引用なのかまで示されている。詩文の内容と関係のある場所に張られているのだが、こうしたプレートが街には三十数枚もある。

 ちなみに例にあげたプレートは、ベアトリーチェのモデルになったと女性が住んでいた家の付近にある。

 この女性の名前はビーチェ・ポルティナーリ。ギベリーニ党の名門、フォルコ・ボルティナーリの長女である。

 一二七四年五月一日、ビーチェの父は近隣の人々を宴会に招いた。ダンテは父親に連れられて宴会に赴き、そこで初めてビーチェと会った。ダンテ九歳、ビーチェは彼よりも数か月年下だった。

 話をすることさえできず、ただ見ただけだったが、ダンテはビーチェの美しさに心を奪われてしまう。とても自分と同じ人間とは思えず、神の子ではないかと思ったそうで、以降、ビーチェはダンテの信奉の対象となった。

 直接話ができず、ただ遠くから眺めるままに九年が経ち、十八歳になったダンテはある日、路上で偶然ビーチェと会う。彼女は年上の女性と一緒だったが、ダンテの存在に気づき、丁寧に挨拶をしてくれた。

 二人の関係はこれだけである。家柄の違う二人(アリギエーリ家よりポルティナーリ家のほうがはるかに裕福だった)の結婚は不可能であり、ビーチェは銀行家のシモーヌ・ディ・パルディと結婚した。

 ダンテの方も父親が決めた婚約者ジェンマ・ドナーティと結婚し、五人の子供をもうけた。しかし、ダンテのビーチェへの愛は変わらなかった。ビーチェが二十四歳の若さで夭折してしまうと、その思いはさらに崇高なものとなった。彼女の面影はダンテの中で美化され、霊化され、やがてダンテはビーチェを、神が地上に送り届けた美徳の神とまで崇めるようになった。

 こうしたことはダンテの文学に大きな影響を及ぼした。女性のつれなさを嘆く月並みな恋愛詩を離れ、見神の体験を表現して新しい文学的境地を開いた詩文集『新生』をまとめあげた。この作品により、ダンテは「愛」こそが全ての高貴な行動の源泉であることを認識したのである。

 プレートに話を戻すと、ダンテの生家の近くには次のようなプレートが掛かっている。

……’lo fui nato e cresciuto
Sovra ‘l bel fiume d’Arno alla gran villa.
Inf.XXXIII,94-95

私の生まれ育ったふるさとは、
うるわしいアルノの流れのほとり、
大いなる町。
        地獄篇 二十三歌 94-95

 次はヴェッキオ橋の上にあるプレートだ。

……conveniasi a quella pietra scema
Che guarda il ponte, che Fiorenza fesse
Vittima ne lla sua pace postrema.
Par.XVI,145-147

 思えばふさわしいことよ、邑の平和の終った日、フィオレンツァが、橋守る欠け石像に、犠牲一つ献げずにおれなかったのは。
              天国篇 十六歌 145-147

 このように、ダンテが生まれたフィレンツェはいたるところで『神曲』と結びついている。あらかじめ読んで町を歩けば、フィレンツェという町をより深く感じることができるだろう。

★後編に続く。

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