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会社員・半藤一利 一周忌 平山周吉

歴史探偵の知られざる原点をたどる。/文・平山周吉(雑文家)

半藤さんの「遺言」を探る

「日本人はそんなに悪くないんだよ」

「『墨子ぼくし』を読みなさい」

“昭和史の語り部”半藤一利が末利子まりこ夫人にそう言い遺し、90歳で亡くなってからちょうど1年がたつ。NHKの半藤さん追悼番組のテロップで、この2つの言葉を知ったのは、訃報から半月ほど後のことだった。

半藤さんが語り下ろした『昭和史』は50万部以上が読まれ、平凡社の昭和史シリーズは累計100万部を超え、半藤「昭和史」は老若男女誰でもが安心して読める「昭和史」入門として定着している。「昭和史の語り部」となった半藤さんが、この国の行く末に不安を覚えていたことは、晩年の数々の憂国的発言で明らかだったが、死の床でなお伝えなければならないことがあったのか。それも「穏やかで平和な国であれ」「憲法を100年いかそう」といった日ごろの願いや主張とも一味違っている。どう受けとめればいいのか、を考えさせる言葉である。

「墨子」については、「2500年前の中国の思想家だけど、あの時代に戦争をしてはいけない、と言ってるんだよ。偉いだろう」と末利子夫人に語りかけていた。半藤さんのベッドサイドには10年前に書かれた自著『墨子よみがえる』が置かれていた。日本国憲法でもなく、毎年8月になると半藤さんが毎朝ブツブツ暗唱していた「終戦の詔勅」でもなく、なぜ「墨子」なのか。「日本人はそんなに悪くない」とは、半藤さんの近現代日本への総体的評価なのか、それとも半藤さんが出会った日本人ということなのか。

この数年、半藤さんと話をするチャンスはなかった。遠くは昭和50年代、半藤編集長時代の「週刊文春」「文藝春秋」編集部では、一番下っ端の、役立たずの部下に終始した。21世紀に入ってからは『日本のいちばん長い夏』『昭和の名将と愚将』『昭和史裁判』といった半藤本を担当し、もっぱら夜の部の酒席で、昭和史の裏オモテを教えてもらっていた。

半藤さんの「遺言」を探るには、半藤本を読み直すのが最善であろう。それともうひとつ、私がわずかに垣間見た半藤さんの会社員時代——旺盛に働き、旺盛に遊んだ40年間の編集者生活の全体を知ることも大事ではないか。ここは「歴史探偵」の半藤さんを真似て——という殊勝な気持ちを起こしたが、長持ちせずにそのまま立ち消えた。

あらためて半藤さんの「遺言」に向かい合ったのは、編集部からの依頼があったからだった。その依頼をうけて、会社員としての半藤さんの仕事を掘り起こしてみた。そこに「歴史探偵」の原点があるのではないか、半藤さんが最後まで書かずにはいられなかった理由も、もしかしたら「遺言」で伝えようとしたことも分かるのではないか。そう思ったからだ。

2月号「半藤一利さん」トビラ

半藤氏

半藤一利 文藝春秋での職歴
昭和28年(1953)  東大文学部国文科卒/入社、出版部に配属
昭和29年 「文藝春秋」編集部
昭和31年 出版部
昭和34年 「週刊文春」編集部
昭和36年 「文藝春秋」編集部
昭和42年 「週刊文春」編集部
昭和43年 「漫画読本」編集長
昭和45年 「文藝春秋増刊」編集長
昭和49年 「文藝春秋デラックス」編集長
昭和50年 「週刊文春」編集長
昭和52年 「文藝春秋」編集長
昭和54年 第二編集局長兼「くりま」編集長
昭和59年5月 編集委員長
昭和59年6月 取締役
昭和63年 常務
平成元(1989)年 専務
平成4年 常任顧問
平成6年 退任

大病の後も書くことをやめなかった

半藤さんは2019年8月に大腿骨を骨折し、1年半のリハビリ、闘病の末に2021年1月に亡くなる。その間にも半藤さんは気力をふりしぼって新刊書を出し、さらには新たに原稿を書いていた。『靖国神社の緑の隊長』(幻冬舎文庫)と『戦争というもの』(PHP研究所)の2冊で、大病の後でも書くことをやめていなかったのは驚きだった。

『戦争というもの』は編集者になっていた孫娘を担当者として指名し、いわば孫娘に向けて書かれた「昭和史」のエッセンスである。若い世代向けに書かれた昭和史としては、すでに『15歳の東京大空襲』(ちくまプリマー新書)がある。それでもなお新たに書くとは。

最晩年の『戦争というもの』で半藤さんは、日本が米英との戦争になぜ突入したかを、「無理を承知で」「簡単明瞭」に示す。「[昭和16年]8月1日からアメリカが日本への石油輸出を全部止めたということが、決定的なことであった」と。当時の日本はアメリカからの石油に全面的に依存していたから、「海軍にとって石油の全面禁輸は、早くいえばアメリカの宣戦布告ともとれたと思います」。半藤「昭和史」では、「戦争へのノー・リターン・ポイント」としては昭和15年(1940)の日独伊三国同盟が一番重視されていた。『戦争というもの』でも、三国同盟が最悪の決定だったことは触れているが、記述の比重は明らかに「全面禁輸」におかれている。この書き出しを読んだだけで私は緊張を強いられた。

『戦争というもの』の成立事情については孫娘の北村淳子あつこさんに取材したが、その話は後廻しにして、もう一冊の『靖国神社の緑の隊長』についても簡単に触れておく。まず、タイトルに「靖国」が謳われているのはなぜか。「靖国」は小泉純一郎首相の参拝以来、中韓との国際問題になっている場所だ。「富田メモ」(富田朝彦宮内庁長官のメモ)が発掘され、昭和天皇が靖国に参拝しなくなった理由はA級戦犯合祀にあったと明らかになった。その係争の地をあえてタイトルにしている。

本そのものは、半藤さんが昭和30年代の「週刊文春」「文藝春秋」の記者、編集者時代に取材で出会った元軍人たちの過酷な戦場体験を、若い人向けに書き直した内容だった。上は陸軍大将から、下は海軍一等水兵までとバラエティに富む。半藤さんは人生の最後近くになって、20代半ばから仕事で出会った多くの戦争体験者の様々な人生を思い描いていたのか。

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多くの作品が書かれた書斎

昭和28年、文藝春秋に入社

半藤さんは昭和5年(1930)生まれだから「昭和1ケタ」に属する。日米開戦時には11歳で小学校(国民学校)5年生、終戦時には15歳で中学3年生だった。自分から志願しない限りは軍隊経験のない「少国民」世代であり、「焼跡闇市派」に近い。「下町の悪ガキ」として東京の向島むこうじま(現・墨田区)に育った半藤少年の過酷な戦争体験は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲であった。10万人の犠牲者の中に入ってしまってもおかしくなかった。かろうじて生きのびた体験をテレビなどで聞いた人も多いだろう。

東大時代はボート部でオリンピックを目指した。国文学科の同級生には、元号「令和」の考案者といわれる「万葉集」の大家・中西進がいた。文藝春秋に入社したのは昭和28年(1953)、日本は独立を回復して2年目、会社はまだ社員90人という小規模な雑誌社だった。入社早々の半藤さんは原稿取りを命じられ、群馬県桐生市の坂口安吾宅に1週間も泊まり込んだ。毎晩の晩酌は酒盛りとなり、戦国武将の伝説のウソから大化の改新の史料の読み方まで、みっちり個人授業を受ける。半藤さんの「わが生涯最良の1週間」だった。「歴史っていうのは史料の裏側を読まないとわからないんだ」とのたまった安吾を半藤青年は勝手に師匠と決めて、安吾に倣って「歴史探偵」を目指していく。

入社当時の半藤青年を想像するのに格好の映画がある。その年に作られた小津安二郎監督の名画「東京物語」である。「戦後の東京の姿と表情」が一番出ていると半藤さんは推奨している(『戦後日本の「独立」』)。戦争未亡人の原節子は、尾道から上京した義父母の笠智衆と東山千栄子を「はとバス」で案内する。銀座では4丁目交差点の和光が見えるが、半藤青年の勤める文春ビルはそのすぐ傍にあり、通りを歩く半藤青年が偶然写り込んでも不思議ではない。長男の山村聰の医院、長女の杉村春子の美容院がある場所はどちらも半藤さんが生れ育った土地に近い。髪結いの亭主風の中村伸郎の「じゃ今晩、金車亭へでもお伴するか」というセリフがあるが、金車亭とは浅草6区にあった浪曲と講釈の寄席で、浪曲と講談本で育った半藤さんにはたまらない固有名詞なのだ。「東京物語」は半藤さんが知悉する世界をたまたま描いているが、原節子の役柄は、安吾が「堕落論」で、「夫君の位牌にぬかずくことも事務的」になり、「やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない」と描写した「戦争未亡人」である。戦争の傷跡は薄れつつあるが、ふと色濃く人々の胸を過ぎる時代であった。

「もはや戦後ではない」

半藤さんが配属された「文藝春秋」は、意識的に戦時回顧物を載せ、戦後日本で疎んじられた軍人の発言を積極的に載せる雑誌だった。若い半藤さんは「私が張作霖を殺した」(昭和29・12)とか、「二・二六青年将校の獄中記」(昭和30・3)とかを纏める仕事をしている。河本大作こうもとだいさくと磯部浅一という昭和史で最も禍々しい「悪役」の「ゴーストライター」もやったのだった。

『経済白書』が「もはや戦後ではない」とご託宣を下すのは昭和31年(1956)である。半藤さんが「昭和史」の人になるのはこのエポックメーキングな年からだろう。「文藝春秋」の若手編集部員として半藤さんが貰った2つの原稿はまさに、その転換点を言い当てていた。2月号の中野好夫(英文学者)の「もはや「戦後」ではない」と、3月号の亀井勝一郎(評論家)の「現代歴史家への疑問」である。『経済白書』の有名なフレーズの出所である中野のエッセイは、経済ではなく精神のあり方としての「戦後」を問題にしていた。「私たちの敗戦の傷は、もっと沈潜した形で将来に生かされなければならない」という中野の文章は、「中野先生はこの頃の世の中をどうみていますか」という半藤青年の雑談がきっかけで生まれた。

亀井の「現代歴史家への疑問」はベストセラーになっていた岩波新書への批判である。遠山茂樹、今井清一、藤原彰の共著で、タイトルが『昭和史』なのも奇縁としかいいようがない。半藤青年は打ち合わせで会った亀井から本の感想を聞かれる。「鳥のガラみたいな昭和史ですね。歴史はもっと肉付けがないと」と口にすると、亀井は「人間がいない歴史だ」と応じ、批判の筆を執った。「昭和史論争」のきっかけとなったこの論文で、亀井は「階級史観」で書かれた典型的な官僚文章に「閉口した」と書き、「歴史家は文学者にも劣らぬ文章家でなければならぬ」、「昭和史は戦争史であるにも拘らず、そこに死者の声が全然ひびいていない」と批判した。『きけわだつみのこえ』だけが死者の声のはずはない、と。

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亀井勝一郎

石原・三島のモデル役を務める

亀井の『昭和史』批判が載った3月号は、芥川賞の発表号でもある。この時の受賞作は23歳の一橋大生、石原慎太郎が書いた問題作「太陽の季節」だった。芥川賞が社会的事件として扱われるのはこの時からである。確かに時代は激しく変わりつつあった。石原は三島由紀夫と「文學界」4月号で対談する。三島はその場で文壇の「連隊旗手」の座を石原に譲ると公言した。大正14年(1925)生まれの「戦中派」三島から、昭和7年(1932)生まれの「戦後派」石原へのバトンタッチである。天皇から下賜された栄光ある連隊旗を捧げ持つ若手将校が「連隊旗手」で、この言い方そのものにまだ戦争の匂いが残っていよう。

慎太郎刈りの大学生と長い髪をポマードで固めた元大蔵官僚がビルの屋上から銀座の町を睥睨している有名な写真がある(中公文庫『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』の表紙にもなっている)。場所は銀座8丁目に移った文藝春秋の新社屋の屋上で、対談の日に撮影された。革手袋をはめた三島は思いっ切りの決めポーズで、映画監督志望の新人作家のほうは「無意識過剰」の自然体で写っている。この写真と同じ場所で、同じようなポーズをした26歳の半藤青年の写真がある。『別冊太陽 半藤一利』の「半藤さん写真ギャラリー」には、少しポーズを変えた写真が3枚並ぶ。フィルムが貴重だったこの時代に、パチパチと撮れるのはプロの仕業であろう。とすると、この写真は半藤青年がモデルとなって、2人の「連隊旗手」を演じたカメラテストの写真ではないか。背の高さは慎太郎並み、顔の長さは三島並みだから、半藤青年なら一人で二役をこなせ、好都合だ。照れくさそうに写っているのはそのためのようである。

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石原慎太郎と三島由紀夫

国文科出身で、漱石、荷風、安吾の本を出した半藤さんが小説家志望であったとしてもおかしくない。石原慎太郎や大江健三郎が学生作家として華やかにデビューするあの時期は、ちょっと気のきいた文学青年ならば同人雑誌に小説を書いた。そんな時代だった。いつかの酒席で半藤さんが「おめえ、俺だって小説書いて、新人賞の最終選考に残ったことがあるんだ」とオダを上げたことがある。ペンネームで中公新人賞に応募したというのだ。タイトルは「沼」という地味な(純文学っぽい)もので、旧制浦和高等学校の寮生活を描いた小説とか。「中央公論」のバックナンバーで調べると、「沼」は確かに存在した。

この年の「中央公論」(昭和31・11)新人賞の最終候補作に、「沼 南方宏平(東京都)」とある。応募総数1256篇、最終候補16篇、受賞作は日劇ミュージックホールのギタリスト深沢七郎の「楢山節考」だった。

「南方宏平」以外には、「硫黄島」で翌年の芥川賞をとる菊村到(本名の戸川雄次郎で応募)、大作『火山島』を後に書く金石範、NHKで「太閤記」「太郎の国の物語」を演出する吉田直哉と多士済々の候補者の名が並ぶ。選後評では、三島由紀夫が「沼」に言及している。

「いろいろな青年を書いていろいろな社会を暗示しようとしたところがいけない。初めの主人公に近いような男を中心に書けばいいのだけれども、色気が多過ぎる。それにせっかく高校生を書いていながら、みずみずしくないね」

候補作は活字にならなかったので、どんな作品なのかは永遠の謎である。「半藤さん、見つけましたよ、「沼」」と報告したら、半藤さんは困ったような顔をしていた。

昭和31年、ライフワークに出会う

小説執筆にどこまで本気だったのかは不明だが、この昭和31年は半藤青年がライフワークに出会った年となる。4月に出版部に異動となり、伊藤正徳まさのりを担当する。安吾に続く「歴史探偵」のもう一人の師匠である。戦前の大海軍記者として世界的スクープも出した伊藤は、自らの意志で敗戦後10年間折っていたペンを再び執り、帝国海軍を弔う『連合艦隊の最後』を出し、ベストセラーとなっていた。

人事異動に伴う事務的な引き継ぎの一つだったが、半藤青年はこの仕事にのめり込んでいった。引き続き伊藤が「産経新聞」に連載する『大海軍を想う』『軍閥興亡史(全3巻)』『帝国陸軍の最後(全5巻)』『連合艦隊の栄光』に伴走し、伊藤の紹介状を持って多くの旧軍人を取材してまわった。晩年6年間の伊藤正徳の爆発的な仕事量は、半藤青年のアシストと行動力なしにはありえなかったし、半藤さんにとってはこの仕事がとてつもない財産となる。海軍と陸軍の戦闘を追うだけでなく、軍事と政治の攻防、政策決定の過程をも取材した。伊藤の著作は、大正昭和とずっとジャーナリズムに身を置いた伊藤正徳の「史論」でもあった。半藤青年は伊藤が親しかった山本五十六、加藤友三郎といった提督たちについても話を聞いている。伊藤は「時事新報」編集局長時代には孤軍奮闘で、国際連盟脱退に反対する論陣を張った。「あそこで筆を折るべきではなかった。ジャーナリストとしてそれが千載の悔い」という述懐も耳にしていた。

同期入社の親友・金子勝昭さんは伊藤正徳担当の前任者だった。金子さんは原稿取りで安吾の家に泊まりこんでもいた。同期からは半藤青年はどう見えたのだろう。

「安吾-伊藤正徳という系譜は半藤が後から整理してのことで、あの頃はもっと漠然としたものだったと思うな。口述をまとめるとか、記事を書くのはいい稽古台になったけれども、当時は軟派記事も硬派記事も書いていた。そのうち、僕は軟派記者、彼はいつのまにか硬派記者になってしまった。お互い独身の頃は毎晩のように飲み歩いていた。彼の好きな浅草が多かったなあ。半藤はわりあいモテる。飲み歩いて、そのまま2人とも沈没。翌日は遅れて出勤しても、2日酔いと申告すれば許される会社だったから」

なんともユルい社風だったのだ。もう一人の同期入社には、昭和49年(1974)に「田中角栄研究」で時の政権を倒した田中健五「文藝春秋」編集長もいた(後の社長)。田中・半藤・金子の昭和28年入社3人組は、先輩たちの新人シゴキに全く動じない、可愛げのない連中だった。3人とも酒豪だったが、結婚が早かった田中さんは夜の部にそうそうはつき合えなかった。

田中さんは編集者に徹したが、他の2人は書く方にも進出する。金子さんはやがてPR誌「銀座百点」に軽妙エッセイの連載を始め、『片想い文明論』『ハゲの哲学』などの著者に、半藤さんは軍事と戦争の専門家になっていく。半藤さんの最初の著書『人物太平洋戦争』は「監修・伊藤正徳」と表記されて昭和36年12月に出た。もともとは「週刊文春」に連載されたルポで、その時から「監修・伊藤正徳」の無署名記事になっている。「週刊文春」はまだ創刊3年目で、半藤さんは創刊時から「書ける記者」として活躍していた。ご成婚を間近に控えた正田美智子嬢(現上皇后)を表紙にした創刊号では、「御成婚の周辺」というルポを書き、創刊1ヶ月後には、永井荷風の死の床に駆けつけ、「荷風における女と金の研究」という本格派の荷風女性遍歴譚をあっという間に書き上げている。硬軟なんでもござれだった。

「君はいい仕事をしたね。このまま続けなさい」

「人物太平洋戦争」は「週刊文春」の目次で見ると、松本清張、舟橋聖一といった流行作家と並んで扱われ、8ヶ月連載された。単行本の序文で、伊藤正徳は著者が「半藤一利君」であることを明かして、若手記者の出発を寿ことほいでいる。

「私は先ず陸軍の今村均君、海軍の小沢治三郎君等数名を挙げてその紹介すべき諸点を語り、追って何名かを追加し、他は半藤記者の頭と足で捜し出し、その上で取捨と描写を相談しようということにした。足は著しく伸びて、私の知らない埋れた人物ニュースが次ぎ次ぎと現われて来た。(略)通俗には、この種の読み物は、大将や提督を扱うのが多く、下級将校の真の働きは隠れて了うものだ。それを、底辺からも真人物を求めて描き出した所に特色と価値とを認める。それは、同じ年輩で戦場に散った人々への間接の供養にもなろう」

連載第1回が「最後の連合艦隊司令長官」小沢中将(「多くの人を死なせた俺がどうして大将になれるか、といって遂に進級を肯んじなかった」)、最終回は「国破れてなお名将あり、と謳われた」今村大将で、単行本でも2人が冒頭とラストとなっている。2009年にムック『半藤一利が見た昭和』を作った時、半藤さんには長時間のインタビューをお願いした。その時に、「半藤さんが出逢えた、ブレなかった日本人」として、5人の「かっこいい大人」の名を挙げてもらった。荷風、小泉信三、おやじ(半藤末松)の名と共に語られた他の2人が、小沢治三郎と今村均だった。

『人物太平洋戦争』の特徴は伊藤正徳も指摘するように、名もなき「下級将校」や「底辺」の発掘だった。半藤記者が足とペンとカメラで日本全国を訪ね歩いた成果である。海、空、陸で戦った元将校、元下士官、元兵隊、ガダルカナル、ミッドウェー、ニューギニア、レイテ、インパール、戦艦大和など苦戦を強いられた戦場がどうしても多くなる。現在の職業もさまざまだ。高校の数学教師、貸本屋、農業、中小企業の社長、瀬戸もの屋の主人、小さなバーのあるじ、等々。四国で僧侶になっていたのは、最初の神風特別攻撃隊を自らの部下から選抜して送り出した201空の副長・玉井浅一元中佐である。いまやすっかり有名になった知覧の鳥濱トメさんも登場している。読んでいると、戦後16年目の元軍人や遺族の窮状が伝わってくる。生活の現場が描き出されるので、単なる軍事記事にはならない。半藤さんのデビュー作は広く読まれた『日本のいちばん長い日』ではなく、この『人物太平洋戦争』だったといえる。翌37年、伊藤正徳は、「君はいい仕事をしたね。このまま研究を続けなさい」と後事を半藤青年に託して亡くなった。

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伊藤正徳

業務時間外に書いた『日本のいちばん長い日』

半藤さんは昭和36年夏から7年間、「文藝春秋」編集部のデスクをつとめた。原稿取り、対談や座談会、物書きではない人のインタビューのまとめ原稿と何でも屋だったが、その間の半藤さんの最大の仕事は、皮肉にも業務時間外に執筆した『日本のいちばん長い日』である。「大宅壮一編」で出たので、またも半藤一利の名前は表に出なかった。「文藝春秋〈戦史研究会〉」というグループが「あとがき」を執筆している。

「これは最後の御前会議から天皇の終戦放送までの24時間を、できるかぎり史実に基いて、ドキュメント風にまとめたものであります。/私たちはそのため大宅壮一氏の指導の下に多くの人に会い、いろいろとお話をうかがいました。すでに定説となっていることを一応たしかめました。この間に私たちが痛感したことは、戦後20年たってもなお差障りがあり、話せないこと書けないことが多いということでした」

取材協力者として名前が挙がっているだけでも59人もいる。取材に当ったのは「戦史研究会」(15人の名がある)で、「プロローグは安藤満、本文は半藤一利がこれをまとめました」と半藤さんの名前がある。「戦史研究会」は元軍人を会社に呼んで話を聞く社内有志の集まりだった。その社内グループで取材をするのだが、誰もが自分の仕事に追われているので、実際の取材に携われたのは3人だけ。大宅壮一の名を借り、終戦20年目の8月に間に合わせるために毎朝夜明け前に起床して半藤さんは書き進めた。ゼロからこんな本ができるわけはない。2年前に「文藝春秋」で終戦関係者28人を一堂に集めた大座談会を半藤さんは企画、司会していたので、テーマとしての手応えを感じていた。さらには、伊藤正徳『帝国陸軍の最後5 終末篇』での蓄積も大きかったと思われる(同書は参考文献のひとつに挙がっている)。その巻の後半は、「第6章 和平の胎動」「第7章 陛下の聖断下るまで」「第8章 太平洋戦争終わる」と伊藤史観による終戦史となっているからだ。

「週刊朝日」(昭和40・8・20)には、阿川弘之の書評が掲載された。「これほど詳細克明」で、「ショッキングな、そしてまた、この本で初めて世に出るエピソードも、たくさん収められている」面白い読物はない、と。ただ、と最後に忠告する。「これだけ真面目な、貴重な記録を公刊するにあたって、アメリカの報道班員コーネリアス・ライアンが、ノルマンジー上陸作戦をあつかった「いちばん長い日」の、真似ではないかと思わせるような題名を付したことは、惜しい気がしないではない」。ジョン・ウェインらが主演した大作戦争映画「史上最大の作戦」の原題が「ザ・ロンゲスト・デイ」であったことを作家は指摘した。半藤さんは当然ライアンの原作「いちばん長い日」に倣ってタイトルをつけており、この後、「いちばん長い日」は半藤さんのトレードマークにもなる。作家とジャーナリストとの言語感覚の差なのだろう。阿川さんと半藤さんは後年、対談集『日本海軍、錨揚いかりあゲ!』を出し、「文藝春秋」に阿川さん追悼文を書くまで親密な関係は長く続いた。

半藤さんと対談集『昭和史裁判』を出した東大教授の加藤陽子さんは、『日本のいちばん長い日』を今までに何回も読んできたという。アカデミズムの半藤一利評価を知る意味でも話を聞くことにした。

「『日本のいちばん長い日』は終戦の記録としても読めるし、戦争文学の傑作としても読めるので、4、5回は読みました。各章のタイトルが印象的なセリフを使っていますでしょ。阿南陸相の「わが屍を越えてゆけ」とか、鈴木首相の「これからは老人のでる幕ではないな」とか。文章はキビキビしていて、映画の脚本としてもそのまま読める仕上がりです。半藤さんとは昭和の政治家たちについて、半藤さんが検事、私が弁護士という役回りで対談をしたのですが、いつも縦書きのきれいなメモを準備されていて、80歳になってもあの勤勉さなのかと教えられました」

私が半藤さんの本を初めて読んだのは、大宅壮一編『日本のいちばん長い日』だった。本が出てすぐに買って読んでいる。中学2年生が乏しい小遣いをはたいて買ったのだから、かなりの関心を持ったはずなのだが、その理由が思い出せない。同じ時期にもう一冊の戦争物も買って読んだ。高木俊朗『知覧』で、この2冊以外には、読書といえば小説か文庫本ばかりだった。『知覧』は特攻隊という特殊な状況におかれた若者たちが出てくるから、読むのにそんな苦はない。ところが『日本のいちばん長い日』は内大臣と宮内大臣と侍従武官長の区別もつかず、参謀総長と軍令部総長の役割もわからずに読むのだから、理解できるはずもなかった。それなのに最後まで読み進められた。終戦20年という年だったので、テレビや新聞で太平洋戦争がよく取り上げられた年だったのか。中学生の戦争への関心といっても、軍歌(軍事歌謡)くらいしか思い浮かばない。それから繁華街で見かけた白衣の傷痍軍人たち。いつも彼らを見るたびに、近寄りがたい怖れの感情を喚起させられた。

最悪の精神状態だった編集長時代

私が文藝春秋に入社したのは昭和50年(1975)だが、その時、半藤さんは「週刊文春」の編集長になっていた(「文藝春秋」は田中健五編集長時代)。テレビ番組に登場した半藤編集長は、「週刊誌とは」と問われて、「130円の私立探偵」と答えた。「130円」とは当時の「週刊文春」の定価である。自分がこれからやる仕事が、政権を倒すといった派手なものではなく、ショボクレたものらしいという予感に襲われたものだ。「文春砲」などという言葉ができる40年以上前の話である。

「週刊文春」編集部は大所帯で、半藤編集長は遥か彼方で忙しく働いていた。下町育ちで口は悪く、身体も声もデカいので存在感がある。余裕綽々で仕事をこなしている上司に見えたのだが、それは間違いだった。末利子夫人に今回お話をうかがっている時に、「週刊文春」編集長時代の精神状態は最悪だったのだという話になった。

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