菊池寛 アンド・カンパニー② 鹿島茂
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菊池寛 アンド・カンパニー② 鹿島茂

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教科書が買えず、修学旅行にも行けなかった文豪・菊池寛の幼き日々。/文・鹿島茂(フランス文学者)

★前回を読む。

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鹿島氏

高松藩の藩儒をつとめた家系

菊池寛は1888年(明治21年)12月26日、香川県高松7番丁6番戸に、父・武脩、母・カツの4男(2姉・3兄・1妹。このうち3男の三八は早世したので、寛は実質3男)として生まれた。

菊池家は代々、高松藩の藩儒をつとめた家系で、祖先の一人に文化・文政から天保にかけての漢詩人・菊池五山(1769-1849。名は桐孫、字は無絃。五山ないしは娯庵)がいる。

この菊池五山についてはいずれまた登場願うだろうからここではこれ以上触れず、とりあえずは、菊池寛の『半自叙伝』をひもといて、その生家について見てみよう。

「私の家は、高松藩の藩儒であったと云えば、体裁はいいが、恐らく三両五人扶持と云うような小禄の家であったに違いない。それでも、二百坪位の邸であった。家は、六間位であったろう」(『半自叙伝・無名作家の日記他四篇』岩波文庫 以下、断りのない限り、引用は同書)

現存しないこの菊池寛の生家は、いまでは「菊池寛通り」と命名されている高松市の目抜き通りに面していた。位置は、菊池寛の銅像が建つ中央公園南の通りを挟んで斜め反対側である。「200坪位の邸」といえば今日の基準からしたら大邸宅になるが、菊池寛の少年時代には家屋の一部を貸家にしていたから、実際の住居はそれほど広くはなかったはずである。とはいえ、「六間位」というから決して狭くはなかったのである。

ただ、家は広かったが生活は貧しかった。菊池家は廃藩置県と秩禄処分で武士の地位身分と家禄を失ったばかりか、父の武脩が生活力も野心もない人物で、小学校の庶務係をして薄給を得ているにすぎなかったからである。

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創業者・菊池寛

「没落士族の貧乏」を感じた幼少期

というわけで、これから始まる菊池寛の伝記においては、この「没落士族の貧乏」をどう解釈するかが一つのキー・ポイントになるが、その貧しさについて菊池寛自身はこう語っている。

「私の家は、随分貧しかった。士族らしい体面を保っているために、却って苦しかった。父は、小学校の庶務係をしていたが、月給は8円位であった。8円と云っても2、30年前の8円であるから、現在の4、50円に当るのだろうが、しかしとにかく8円である。しかし、8円だけでは暮せないのであるが、ほかに私の家には10石位の田地があった。そこから米が、2月に1俵位ずつ来ていた。しかし、家族は6、7人であるから、十石の米では食料にも足りなかった」

問題はこの「月給8円」である。いいかえれば、菊池寛が最も感じやすい少年だった思春期に月給8円という父親の給料がどのような意味をもっていたのかということが重要なのだ。

これを検証するには、まず菊池寛の記憶が正確か否かをチェックしておかなければならない。データを確認しておけば、1888年(明治21年)に生まれて明治30年代に思春期を迎えた菊池寛がこのテクストを書いたのは1928年(昭和3年)のことである。次に、これらの日時を勘定に入れて、週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日文庫)を開いてみよう。

この本には小学校庶務係の初任給は出ていないが、小学校教員の初任給は取り上げられており、「明治30年 8円」「昭和6年 45~55円」とある。小学校教員と庶務係ではそれほど給与に差はないはずだから、菊池寛の記憶力は非常に正確であることがわかる。そして、その記憶の正確さは「明治30年 8円」という父親の月給額が菊池少年の脳裏に深く刻みこまれた数字であったことを雄弁に物語っている。ようするに「月給8円の呪い」であったのだ。

勝組と負組の格差が広がった明治30年代

では、明治30年に月給8円というのは現在の貨幣価値に換算するとどれくらいの生活水準になるのか?

同書の別の項目に、大福が「明治25年 1銭」とあり、わかりやすいのでこれを仮にレート計算の基準として、現在の大福の価格を調べると平均200円前後だから、物価は約2万倍になっていることになる。つまり、月給8円とは、現在の物価水準に置き換えると、月給16万円ということになるのだ。これは、現在の税引き後の高卒公務員の初任給に近いので、まあ妥当な線だろう。つまり、菊池家は現在のレート換算で月給16万円プラス10石の米で一家7人が暮らしていたことになるのだ。

しかし、こうした単純比較だけでは「月給8円」が小学校庶務係の一家にとって「呪い」のような数字であったことの意味は理解できないだろうから、参考までに他の職業の初任給も掲げておく。『値段の明治大正昭和風俗史』には上級公務員は「明治27年 50円」、銀行員「明治31年 35円」、国会議員「明治32年 2000円」とある。

これらの職業の給与額を「月給8円」と比較してみると、菊池寛が高等小学校に通っていた明治30年代には、上級公務員はその約6倍、銀行員は約4倍、国会議員に至っては、なんと約250倍の給料を受け取っていたことが明らかになる。

これが何を意味するかといえば、同じ旧武士階級出身者でも、明治10年代に高等教育にアクセスして明治2、30年代に腰弁階級と揶揄されながらも上級公務員や銀行員などに階級上昇した者と、菊池寛の父親のように維新後ずっと下級給与生活者にとどまっていた者の差は明治初年よりもはるかに大きくなっていたということである。換言すれば、明治30年代というのは、給与生活者内部においても勝組と負組の格差が広がった最初の時代であったのだ。

しかし、たとえ月給8円の下級給与生活者であっても菊池家は「士族らしい体面」を保たなければならないから、その分だけ生活は苦しく惨めなものになる。こうした下級給与生活者の家計を預かる母親の苦労はどこも並大抵のものではなかったと想像されるが、菊池寛の一家も例外ではなかった。

「家は貧しかったけれども、母はよく愛してくれた。私の母は、賢母であったかも知れない。忍苦欠乏に堪えて、多年私の家の貧乏世帯のきりもりをしたものである」

「そんなに俺ばかり、恨まないで、兄を恨め!」

だが、母がそうであれば、貧しさへの恨みつらみは必然的にわずかな俸給しかもたらさない父親へと向かう。

菊池寛は、貧しく惨めであった少年時代を振り返って、高等小学校の3年のときに父が教科書代金を出し渋り、写本しろと命じたエピソードを語っている。菊池寛は字がへたなので情けない思いをしながら友達から借りた教科書の写本を始めたが、ルーズな性格が災いして、その教科書を紛失してしまう。仕方なく新しく教科書を買ってそれを友達に返したところ、紛失した教科書が見つかったので、人並みに教科書を使うことができたと述べている。この惨めで屈辱的な体験は『父帰る』で長男の賢一郎が次男の新二郎に向かっていうセリフとして使われている。

「新二郎、お前は小学校の時に墨や紙を買えないで泣いて居たのを忘れたのか。教科書さえ満足に買えないで写本を持って行って友達にからかわれて泣いたのを忘れたのか」(『父帰る・藤十郎の恋 菊池寛戯曲集』岩波文庫)

この時代、4年制の尋常小学校は授業料、教材費ともに無料であったが、2年ないしは4年制の高等小学校は1900年の小学校令改正まで、授業料・教材費は有料だった。授業料は中学校に比べれば安かったが、教科書代はそれほど変わらなかったのだろう。

菊池寛は続けて、さらに屈辱的な思い出を語っている。

「修学旅行などは、いくらねだってもやってくれなかった。病気でもないのに修学旅行へ行かれないなど云う子供心の情なさは、また格別である。私は、あるとき、泣いて父に修学旅行にやってくれと強請したら、父はうるさがって寝てしまった。寝ても、私は強請をつづけていると、父はガバと蒲団の中で起き上って、『そんなに俺ばかり、恨まないで、兄を恨め! 家の公債はみんな兄のために、使ってしまったんや』と、云うようなことを云った。(中略)私などは少年時代に貧乏のために、いやな思いをした方であるから、その償いとして、晩年多少楽な思いをしてもいいと思っている」

菊池寛はこれよりも少し先のところで、この「少年時代の貧乏」について、補うようにこう述懐している。

「よく少年時代の苦労は、かまわない、晩年楽をすればいいなど云うが、しかし少年時代に感覚も感情もフレッシュであるとき、面白いことをすれば、老いて多少苦労をしてもいいのではないかとも考えられると思う。少年時代に遂げられなかった望みなど云うものは、年が寄ってから償いようがないように思う」

感受性も自我も強い少年であった菊池寛にとって、費用が払えず修学旅行に行けなかったという体験はトラウマとして残り、壮年期の贅沢が「少年時代に遂げられなかった望み」へのリベンジであったとしても、心の傷は結局、癒されることがなかったということなのだ。永井龍男が書いた最初の菊池寛伝である『菊池寛』には息子の英樹に語ったというこんな言葉が拾われている。

「遠足に行けるだけでも幸福だ。ぼくは遠足にも行けなかったんだよ。遠足や修学旅行というときが一番憂鬱だったよ。友達の嬉しそうにして出て行くのを、じっと家の中から見ていたんだよ」(時事通信社)

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高等小学校に4年通った屈辱

『半自叙伝』の前書きで「自分は自叙伝など、少しも書きたくない」といいながら、書き進めるうちに、古傷が疼いて血が止めようもなく流れだしたにちがいない。そこで、菊池寛はより強烈な貧乏体験を語る。それは、縁日を金持ちの友達とひやかしていたときのものである。

「私は、ある植木の値段を訊いた。5銭だと云った。私は、買う意志がないので、先方で負けられないようにと思って、『5厘にしろ!』と云った。所が、それは根がない植木か何かであったのだろう。5厘にすると云ったのである。ところが、私は買う意志がないばかりか、5厘の金もなかったのである。私は、あわてて通りすぎようとした。が、植木屋は、私をよびとめて、買わないのを責めて、私を罵倒した。友達は『君どうして買わんのか』と云った。私は、友達に5厘もないと云って金を借りることは、植木屋に罵倒されることよりも恥かしかったので、そのまま通りすぎた。そのとき、私は自分で金を持っていない悲哀をつくづく感じた」

しかし、こうした個々の貧乏体験よりも、菊池少年にとって最高の屈辱だったのは、じつは、高等小学校を2年で終わらずに4年まで行ったことなのである。

「私は高等小学校に4年までいた。2年から中学校へ行けるし、私はまた学問の実力では誰にも負けなかったから、行こうとすれば行けたのだが、中学へやると費用がかかるので、小学校へ行かれるだけは小学校へやったものらしい。それとも、父は後年師範学校の試験を私に受けさせたが、その目的で16になるまでは、どこに置いても同じことと思ったのかも知れない」

この記述は、戦後の6・3制の教育システムに慣れた者にはわかりにくいかもしれないので、若干、解説を加えておこう。

漱石や子規は“英語予備校”へ

日本の公教育は1872年(明治5年)の学制を以て嚆矢とする。しかし、学制は実情と合っていなかったのですぐに機能不全に陥り、以後、朝令暮改が繰り返された。歪みは中等教育に特徴的に現れていた。つまり、小学校と大学は1877年くらいからまがりなりにもスタートしたが、この2つを結ぶ中等教育制度の整備が遅れたため、中等教育は民間(私学)に任せられる結果となったのである。では、こうした私立中学ではなにが教えられていたかといえば、それは英語であった。なぜなら、唯一の大学であった東京大学では教育言語が英語というダイレクト・メソッドであり(これを正則と呼んだ)、東京大学に入るためには英語が必須だったからである。そのため、私立の中学校はみな大学進学のための英語予備校と化したのである。菊池寛よりも2世代上で幕末生まれの夏目漱石や正岡子規はこのため東京の英語予備校(漱石は成立学舎、子規は開成中学・高校の前身である共立学校)に通っている。全国各地にある有名私立中学・高校の中にはこの時期に大学進学英語予備校として創立されたものが少なくない。

しかし、こうした私学中心の中等教育では貧困家庭が救われないので、政府は1886年に至って学制を廃止し、一連の学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令)を公布して改善につとめた。教育史的にいえばこの学校令の公布によって日本は教育立国への歩みを始めたことになるが、その要はやはり小学校令と中学校令にあった。

まず小学校令からいくと、眼目は小学校を義務・原則無償の尋常小学校(就学年齢満6歳で修業年限4年)と任意・原則有償の高等小学校(就学年齢満10歳で修業年限4年)の2段階としたことである。1年後、微修正が施され、高等小学校は修業年限が2年、3年、4年となったが、これは中学校との接続の問題がからんでいたためである。中学校令の解説に移ろう。

1886年の中学校令はおそらく日本の教育史において最も影響の大きかった法制で、これにより、明治末から大正期にかけて日本に中産階級というものが成立する基礎が築かれたといえる。中学校令の眼目はいくつかあるが、一つは中学校を修業年限5年、入学資格を12歳以上としたこと。これにより、高等小学校在籍生は2年修了で中学校に入学できるようになったが、そのため、同じ高等小学校に在学しながら、2年修了で中学校へ進学する者と、そのまま丁稚奉公に出る者、およびその中間形態として高等小学校に残って4年まで在籍し、そこから社会に出ていく者という3つのコースに分かれることになった。これが様々なドラマを生む。すなわち、「12歳の選択」が人生行路において大きな比重を占めるようになるのである。

「12歳の選択」が悲劇をもたらす

この「12歳の選択」を中核にして組み立てられている小説が、後に菊池寛と第1高等学校で同級となる山本有三の『路傍の石』である。主人公の愛川吾一は地方都市(栃木県栃木市)の高等小学校2年生である。あるとき、担任の次野先生が急にあらたまって町に建設中の中学校の話を始め、中学校に入りたい者は手をあげなさいと言った。

「吾一らの組は高等小学の2年だった。そのころの高等2年というのは、今の尋常小学6年級に相当する。彼らはこれから中学にはいるか、はいらないかの、ちょうど、わかれ目に立っているのだ。中学にはいって、それからだんだん上へのしていくか、それとも、このちいさな町の土になってしまうか、ここが一生のわかれ道だった。吾一はかねてから、はいりたくってたまらなかった。先生も、おまえは、はいるほうがいい、と言ってくれた。だが、彼はすぐ手をあげて、『先生、はいりたいんです。』と、言えるような、めぐまれた境遇にいるのではなかった」(新潮文庫)

山本有三が描いているようなこうした「十二歳の選択」の悲劇は、この時代の日本ではいたるところで観察されていたはずである。

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