【新連載】ゆびさきに魔法#1|三浦しをん
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【新連載】ゆびさきに魔法#1|三浦しをん

「ではまた三週間後にお待ちしております。ありがとうございました」

 月島美佐は、その日最後の客を店の戸口まで出て見送った。ついでに、戸口の横に置いてある郵便受けがわりの木箱を開ける。駅向こうにできた新築マンションのチラシが入っていた。ファミリータイプ3LDK、五千四百万円から。対して月島はといえば、築年数五十五年、職住一体の二階建て長屋で暮らしている。一階の店舗と二階の住居部分を合わせてもお家賃十三万八千円で、周辺の相場からしても激安価格だ。こんなおんぼろ家屋の郵便受けにまでチラシを入れていくなんて、律儀なのか投げやりなのか攻めの姿勢が行き過ぎているのかわからない。

 取りだしたチラシから顔を上げると、いま見送った常連客の前田が、商店街の通りのさきでちょうど振り返ったところだった。まだ店の戸口に立ったままだった月島に気づき、前田は笑顔で手を振った。掌ではなく手の甲を月島のほうに向けて。前田の指さきは月島が施したばかりのネイルアートで彩られている。地色は夜空のような紺色で、そのうえに粒子の細かいゴールドのラメで描いた流水模様。両手をそろえて十個の爪が並んだときに、天の川みたいに見えるようバランスを考えてデザインした。

 月島も笑って会釈を返し、商店街を歩み去っていく前田の背中をしばし眺めた。高めのヒールをコツコツ鳴らし、いつも姿勢のいい前田は、アパレル勤務で広報をしているらしい。爪をうつくしく保つと仕事に対する意欲も湧くと言って、月に一度か二度は月島の店に予約を入れてくれる。職業柄、繊細な生地に触れることも多いそうで、万が一にも爪が引っかかってはいけないので、きらきら光るストーンなどのパーツはあまりつけられない。月島は毎回、前田の爪をなめらかに整え、立体物を用いずに華やかなデザインに仕上げるよう心がけている。

 東京の私鉄沿線、弥生新町(やよいしんまち)駅前の富士見商店街で、月島がネイルサロン「月と星」を開いたのは四年まえのことだ。施術用の椅子はふたつ、ネイリストは現在月島のみという小さな店だが、開店から一年ほどで前田のような常連客がそれなりについてくれて、売り上げは安定している。むしろ最近は予約を取りにくいほどで、常連さんに無用なストレスを与えないためにも、新規顧客を開拓するためにも、もう一人ネイリストを雇いたいと月島は思っている。

 そもそも店に椅子がふたつあることからわかるように、去年までは一緒に働くネイリストの子がいた。ただ、彼女は結婚を機に店を辞め、商社マンの夫の赴任地であるベトナムに引っ越してしまった。あちらでもネイルは人気なので、店を開いて楽しく働いているようだ。たまにLINEやメールで写真を送ってくれるが、ベトナム語もめきめき上達しているらしく、現地で採用したベトナム人のネイリストと食べ歩きやショッピングを満喫したりなどしている。

 穏やかで技術もたしかな子だったので、月島としてはさびしく残念ではあるのだが、新天地で充実した生活を送っているのはなによりだ。彼女がいなくなって以降、店の引き戸のガラスに「ネイリスト募集中」の紙を貼ったが、これはという人材はなかなか現れない。

 ネイリストは技術の高さはもちろんのこと、人柄も重要だと月島は思っている。美容師に求められるものと似ているが、美容師の場合、カラーリングやパーマの際には、薬液が浸透するまでの時間を利用してべつの客を掛け持ちしたり、ささっと休憩を取ったりする。ネイリストは、そういう隙間時間は生じない。ジェルネイルを施すには一時間半から二時間はかかる。そのあいだ絶え間なく客の手に触れ、至近距離で相対しつづける。黙って疲れを癒やしたい客もいれば、おしゃべりを楽しみたい客もいるので、ネイリストは着実に施術しながら、客の気持ちにも的確に反応する必要がある。

 一年経っても有望な人材に巡り会えないとなると、こりゃもう諦めて私一人でやってくしかないのかなあ。月島はため息をつき、チラシを手に店内に戻った。三月も終わろうとしているが、夜はまだ冷える。カーディガンを羽織り、床と作業台を掃除して、チラシも含めてゴミをまとめた。店の奥の休憩スペースにある洗濯機にタオル類を入れ、翌朝に洗いあがるようタイマーをセットする。

 売り上げを集計し、わずかな小銭だけレジに残して、残りはポーチに収めた。花柄の、いかにも雑誌の付録っぽいこのポーチを、まさか金庫がわりに使っているとはだれも思うまい。ああ、今日も手数料がかからない時間帯にATMへ行けなかった。明日も朝から予約がみっちりだ。なんとか八時には起きて、預け入れにいこう。

 月島はポーチを胸に抱き、店の明かりを消して表に出た。掃き出し窓ふうの引き戸に鍵をかける。ネイルサロン「月と星」が入っている長屋は駅から徒歩七分ほど、商店街の半ばぐらいの位置にあるが、夜ともなればあたりは静かなものだ。いまも、住宅街のほうへと家路を急ぐひとがちらほら歩いているぐらいだった。

 富士見商店街は、一方通行の狭い道に沿って庶民的な店が軒を連ねる。とはいえ、さすがに木造長屋はほかにあまり残っていない。だいたいは四階建てぐらいのマンションに建て替え、一階を店舗にしている。二階建ての商家のつくりをした、古株の茶葉屋や煙草屋もある。

 月島がこの町に店を開くことにしたのは、家賃に惹かれたのももちろんだが、昼間は自転車や徒歩での買い物客で活気づく、昔ながらの商店街の雰囲気が気に入ったからだ。一方通行で不便なこともあり、車のほうが遠慮して商店街の通りにはさほど入ってこないため、自然と歩行者天国みたいになっている。ここなら暮らしやすそうだし、客も地元のひとが中心だろうから、腰を据えて関係を築けそうだと判断した。

 ネイリストは、それぞれの客がどんなデザインを好むかを把握するのも肝心だが、定期的に爪の手入れをすることを通し、客の健康にも心を配るのが重要な役目だ。もし爪が薄くなっていたら、その客は慢性的な貧血の可能性があるし、爪がぼこぼこしたり変色したりしていたら皮膚病の可能性がある。ネイルの施術とコミュニケーションがきっかけで、病院で診察してもらったほうがいいかもと客が気づくことは往々にしてあった。だから、フリの客が多く、一回かぎりの接客になりがちなビジネス街や商業施設に出店するよりも、住宅街と隣接した商店街がいいと思った。そのほうがじっくりと、継続して客とつきあっていくことができる。

 富士見商店街にピンと来た月島の勘は当たった。こぢんまりしたおいしいレストランもいくつか見つかり、商店街仲間もできて、居心地よく過ごしている。八百屋や花屋から売れ残った品を差し入れしてもらったりなど、ご近所づきあいも良好だ。

 しかし若干の懸念材料がないわけではない。居酒屋「あと一杯」の存在である。

 長屋は角地に建っていて、一階に二軒の店舗が入っている。駅寄りが「月と星」、角がわが「あと一杯」だ。二階の居住空間には、店内からは行けないつくりだ。長屋の裏手にまわると合板ドアがふたつ並んでおり、開けると極めて狭いたたきからすぐに、それぞれ専用の内階段がのびている。アパートとちがって外廊下や階段を共用することはなく、洒落た言葉を使えばタウンハウスと呼べなくもないが、部屋の壁は薄くて生活音が筒抜けだし、建築物というより木材に還りつつある外観からしても、まあ二軒長屋というのがふさわしい。

 居酒屋「あと一杯」は、五十がらみの松永という男が一人で切り盛りしていて、月島と同じく、店舗のうえの部屋に住んでいる。つまり、仕事上でもプライベートでもお隣さんなのだが、松永はどうも月島を快く思っていないふしがある。ちなみに月島と同様独身のようで、隣室から松永以外のひとの気配を感じたことはない。

 月島は、自室ではなるべく静かに暮らそうと心がけているし、毎朝「月と星」のまえを掃き掃除するときには、ついでに「あと一杯」のまえもきれいにしている。健康サンダルを履いて商店街を散歩中の松永と顔を合わせたら、むろんにこやかに挨拶もする。「月と星」のほうがあとから長屋に入ったので、パイセンに対する当然の礼節と心得ている。

 にもかかわらず、松永は挨拶をしても「ん」とか「どうも」などと聞こえるか聞こえないかの声でつぶやくのみだ。無愛想なひとなのかなと思っていたが、「あと一杯」で接客している様子や、商店街仲間と道端でしゃべっている様子を垣間見るに、声が大きくて明るい印象だ。それで月島も、なるほどと察するところがあった。思い返せば引っ越しの挨拶に行ったときも、松永は「ふうん、ネイルサロンですか。まあよろしく」と言ったきり、あとは月島を一顧だにせず串に鶏肉を刺しつづけたのだった。開店まえの下ごしらえの時間を邪魔してはいけないと、月島は早々に退散した。

 たぶん松永は、ネイルに偏見があるのだろう。うつくしく彩られていたり、パーツをつけてデコラティブだったりする爪を見て、「そんな爪で日常生活が送れるの?」と言うひとは多い。実際に口には出さずとも、「チャラついている」「男にモテようと思ってんのかもしんないけど、派手すぎ。逆効果だから」と感じているのであろうと推測されるひとは、性別や年齢を問わず一定数いる。

 本当のところ、ネイルアートはチャラついたものなどではなく、ネイリストの職人技と芸術的センスが結晶した作品だし、客もモテを狙っているのではなく、「ネイルアートをしてもらうと楽しいから」「自分の爪がきれいだと気分がいいから」といった理由でネイルサロンを訪れる。化粧やおしゃれは、他者――特に異性――の目を意識してするものにちがいないという考えは、浅薄(せんぱく)だし腹立たしいかぎりだと月島は思っている。人間はモテや機能性のためのみに生きるにあらず。ルネッサンス期の天才画家やそのパトロンたちに、「モテるために絵を描いて/描かせてんですか?」と聞くバカはいるまい。心の安定や満足のために美を追求するのは、古来当然のように行われてきたことだ。美の追求には多少の対価が必要なのもまた、当然のことだ。

 そういうわけで月島は、「ネイルアートのことなどなにも知らない、知ろうともしない偏見まみれのおっさんめが。おまえが年がら年じゅうモテのことしか考えられない脳だから、ほかのひともそうだと思っちゃうんじゃないのか」と内心で毒づきつつ、近所づきあいはなるべく円滑に保ちたいので、松永を見かけたら表面上は穏便に挨拶し、「あと一杯」のまえも掃き清めているのだった。

 売り上げ入りのポーチを抱え、店から出た月島は、隣の「あと一杯」のまえを通りすぎざま、引き戸のガラス越しになかを覗いてみた。カウンター席はほぼ満席、ひとつだけある二人掛けの小さなテーブル席も埋まっていた。夜の九時を過ぎたところで、どの客も酔いに少々頬を染めながら、機嫌よく飲み食いしているようだ。カウンター内で忙しく調理と接客をこなす松永は、二本の一升瓶を並べ、客に向かって笑顔でなにやら説明していた。

 長屋の裏手にまわる途中で、「あと一杯」の換気扇から漂うモツ煮らしきにおいが鼻をくすぐった。くそう、松永が無愛想なわからんちんでなければ、きっとおいしいであろう「あと一杯」の料理に屈託なくありつけるのに。仕事上がりに隣の店で夕飯と酒という、至高の住環境を実現できるのに……!

 月島は歯噛みしながら合板ドアを開け、サンダルを脱いで階段を上った。自室に戻りはしたものの、まだ終わっていない仕事がある。簡単な夕飯を作って食べたら、来月のフェア用にネイルアートの見本を作らなければならない。爪の形をしたチップに本番さながらにネイルを施し、どんなデザインがいいか客が選ぶときの参考にしてもらうのだ。

 商店街の通りに面した窓を開けると、ややひんやりした春の夜風とともに、「あと一杯」の客たちの笑い声が聞こえた。一人で店をまわす松永にも、いろんな負担や苦労はあるだろう。

 私はやっぱり、相棒がほしい。このままワンオペがつづいたら過労で倒れてしまう。ネイリスト募集の貼り紙をひとまわり大きなものに替えようかなと月島は算段した。

 月島の忙(せわ)しなくも平穏な日常に多少の変化が生じたのは、三月最後の土曜日のことだった。

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