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追悼・志村けん 東村山と麻布十番を愛した「最後のコメディアン」の素顔

3月29日、新型コロナウイルス感染症による肺炎で急逝した志村けん。70歳という若さでの他界は、多くの人々に衝撃を与えた。日本が誇る喜劇王は、いかにして誕生したのか。故郷・東村山を訪ね歩いた。/文・広野真嗣(ノンフィクション作家)&本誌取材班

誰も傷つけない

「今、志村と飲んでいるんだよ」

3月29日、新型コロナウィルス感染症による重篤な肺炎で志村けんは急逝した。享年70。

訃報が流れた3月30日夜、幼なじみの角田英光(70)は東村山市内の自宅で、酔い潰れかけていた。飲んでいた酒は、昔、志村とよく飲み交わした神戸・灘五郷「剣菱」。四合瓶はさして減っていないのに、喪失感が酔いのまわりを早くしているかのように見えた。

地元・東村山市立秋津小学校の分校時代から中学を卒業するまでの9年間を共にし、2人はバンド仲間でもあった。志村が芸能界に入ってからも、仲は続いた。角田が結婚すると聞くやアパートまでお祝いに駆けつけ、ザ・ドリフターズの正式メンバーに抜擢されると「身辺整理して歯も矯正したよ」と吉報を伝えにきたという―。

私は3月31日、西武新宿線東村山駅前の献花台に足を運んだ。脇に広げられたブルーシートの上まで花束の山で一杯になり、ロータリーは車で渋滞し、警察官が4人も5人も出て交通整理に追われていた。その光景を目の当たりにし、志村は、東村山が生んだスターだったんだなと改めて実感させられた。

東村山の献花台

東村山駅の献花台

新宿から急行で30分という便の良さから1960年代以降、畑や雑木林を次々と建売住宅に変えてベッドタウンと化していった東村山。ただ市内にランドマークがほとんどなく、特徴をつかみづらい。

志村が喜劇王への階段を上り始めたのは1976年、ドリフターズの番組「8時だョ! 全員集合」(TBS)の中で地元民謡をもじってネタにした「東村山音頭」がウケてからだ。足を止めてスマホのマップを動かしていると、ふと「東村山音頭」にある〈庭先ゃ多摩湖 狭山茶どころ 情けにゃ厚い〉のフレーズに味わいがあることに気づく。

村山貯水池(通称・多摩湖)の大半は隣の東大和市にあり、狭山茶は県境をまたいで北側の埼玉県狭山市のブランドだ。ちなみに「西武園」「西武遊園地」の2つの駅は東村山市域にあるものの、遊園地本体は所沢市に所在し、東村山にはない。

考えてみると、こうした郷里の「なにもなさ」そのものをストレートに田舎臭いもののように揶揄すれば角が立ったに違いない。ところが志村のリメイク版には、三橋美智也の原曲にはない「4丁目」から「1丁目」がくっついている――。

再び歩き始めて向かった志村のいとこ、小山政雄の自宅で聞いた話に膝を打つ思いがした。

「そんな地名ないだろと文句を言ったことがあるんです。するとあいつは『誰か傷ついちゃいけないでしょう』と答えたよ。あえていい加減な地名に変えているんです」

“イッチョメイッチョメ、ワーオ”という独特のビートとおかしな動きで踊りだし、「やめろやめろ」といかりや長介が止めると、「やれやれ」と客席。「よーし」と志村が調子に乗ると、ばかばかしくてみんなが盛り上がれる笑い。それでいて、誰も傷つけない。志村の真骨頂だった。

厳格な父、芸事好きな母

その東村山にまだ戦後の焼け跡が色濃かった1950年、志村は3人兄弟の末っ子として生まれた。教師だった父・憲司と母、祖父母に加え、未婚の叔母を含め、8人が同居する大家族だった。師範学校卒の元軍人で柔道五段、志村の物心つくころには教頭だった父は口答えをすると正座を強い、殴ることもあった。

意外なことにその父の存在がお笑いに進むきっかけになったと、志村はインタビューで語っている。

〈家は重苦しい雰囲気なんだけど、中学時代テレビで放映していたエノケン(榎本健一)さんの『雲の上団五郎一座』が、僕大好きで、家族でそれを見てると、あの堅物な父親が笑いをこらえてんだよ。それを見て、素直にお笑いっていいなって思った〉(「週刊文春」2012年10月11日号)

憲司は志村が中学の頃に遭遇した交通事故の後遺症で記憶機能に障害が残り、志村のドリフターズ加入前に亡くなっている。だが、その父の名から「けん」という芸名を付けた。

一方、夫との暮らしに苦労を重ねた母・和子は15年、96歳で亡くなった。芸事が好きだった和子は志村の夢にも理解があり、少年期の息子のことを生前こう話していた。

〈座敷の中央にカーテンを吊るしてそこを舞台にして、一人でなにやら演じてみたり。1本の棒でチャンバラをやるんですが、動きがあまりに変なので、お腹をかかえて笑ったことを覚えております〉(「女性自身」04年3月16日号)

幼なじみの角田が、中学の文化祭で志村とやったあるコントの逸話を話し始めた。

「コントをやりたいと言い出した志村が、なぜかクラスの違う俺を指名して。セリフもなしに2人で殴り合いをする内容で、当たっても文句を言わないからと私に白羽の矢を立てたらしい。人を笑わせるのには話術が要る、2人で掛け合いをするやり方もあると思う、と言うと、志村が『違うんだよな』と言いたげに浮かべた難しい表情を覚えています」

本番はどうなったか。

「セリフなしでやりました。たった2、3分ほどの場面なのに、今でも覚えている同級生がいる。それほどインパクトの強いものでした」

よくセリフの面白さより動きの面白さを優先するのがドリフの特徴だと指摘されるが、中学生の頃からその萌芽があったのだ。

コメディアンの道を志した志村は都立高校2年の時、担任教員の伝手で喜劇俳優の由利徹の門を叩いたが、すでに門下生を多く抱えていた由利からは断られてしまう。そこで「とりあえず大学に行った方がいいですか」と問うと、由利は言った。

「行ったら気が変わっちゃうぞ」

この言葉に決意を固めた、と自著『変なおじさん』に記している。

ドリフを支えていた自負

卒業直前の68年2月、志村は新宿区の牛込若松町にあったドリフターズのリーダー、いかりや長介の自宅を調べて直談判に向かう。玄関先で本人の帰りを12時間粘って待ち、入門を懇請。1週間後、「ボーヤ」(「付き人」の通称)として認められ、初任給5000円の共同生活が始まった。ただ、下積み生活に行き詰まりを感じた志村は72年に一時独立し、ボーヤ同士で「マックボンボン」というコンビを組んでいる。

植木等の付き人を務め、ボーヤとしては志村の先輩にあたる、俳優・小松政夫は当時を知る一人だ。

「マックボンボンは面白かった。ただ、彼は(相方より)力が勝ちすぎたのかなと感じていました。それでコンビも解消したんだけど、そのうちに頭角を現してきた。長さんたちとご飯を食べている時、『志村を(ドリフに)入れる、入れない』という話が出たのを覚えていますね」

笑いに貪欲な姿勢がいかりやに認められ、74年、24歳でドリフに正式加入。当初は苦労したというが、自身も転機だったと語る「東村山音頭」のヒットもあり、一躍ブレイクする。さらに「ヒゲダンス」や「カラスの勝手でしょ」といったギャグも次々ヒットした。

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ドリフでは最年少

〈ドリフのいいところは、リーダーのいかりやさんがきちっとまとめているんだけれども、各メンバーのアイデアを積極的に取り入れる柔軟性や自由な雰囲気があったことですね。『面白そうじゃん、やってみよう』みたいなノリで、僕みたいな若造の意見もずいぶん取り入れてくれました〉(前出・「週刊文春」)

遠慮がなくなっていくにつれ、志村には自分がドリフの人気を支えているという自負も生まれる。ドリフのコント作りも、いかりやに代わり、加藤茶と志村で担うようになった。

だが、ビートたけしや明石家さんまらの「オレたちひょうきん族」の人気が沸騰すると、「全員集合」は85年に打ち切りになる。それでも翌86年、加藤茶と組んでスタートした「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)は平均視聴率22%を超え、87年開始の「志村けんのだいじょうぶだぁ」も平均視聴率20%。「変なおじさん」は、この「だいじょうぶだぁ」で最も頻繁に登場するキャラクターとして視聴者に親しまれることになった。

「陸の孤島」だった麻布十番

87年分の「高額納税者番付」俳優・タレント部門では、先輩の加藤(7位)を抜き、京マチ子に次ぐ3位に躍り出ている。この年には、東村山から車で約15分という三鷹市内に約3億円の一軒家を構えた。米国の音楽文化に惹かれた志村こだわりのアメリカンスタイルの豪邸だ。

三鷹の自宅前にも花束 

三鷹の自宅前にも花束 

だが、芸能界での成功を手にした志村にとって、“第2のホームタウン”と言えるのは、港区・麻布十番の街だろう。82年に新築マンションの一室を約4500万円で購入している。後に麻布十番を選んだ理由について、高校の後輩にあたる中山秀征との対談で、こう述べている。

〈ここは都会の下町ってよく言うけど、飲み屋も喫茶店も、なんとなく排他的なのね。よそ者は……みたいな空気でさ。俺は地元の人たちと仲よくなりたくて、たばこの吸い殻拾いやゴミ拾いを手伝った。麻布十番祭りの審査員とかもやったね。でも、それは仲よくなりたかったし、自分が好きでやっていたこと。それからはこの辺がなじみになって、以来ほぼ毎日、夕飯は麻布十番〉(「女性自身」13年12月10日号)

00年9月に南北線、12月に大江戸線が開通するまで、麻布十番は鉄道駅から切り離された「陸の孤島」と言われた。それ以前の最寄り駅である日比谷線六本木駅から喫茶店のアマンドの脇の坂を下り、麻布十番の広場まで歩いて15分かかる。

駅から遠い、という地理的な条件が「排他的」と志村が評する空気を作り出してきたのではないか、と40代の商店主に尋ねると、「それもあるが――」と言って続けた。

「ここがほかの商店街と違うのは、お金があることです。昔の庄屋さんと同じで、それぞれ昔からの店の土地を高層化しているから、店の収益に頼らなくて済む。だからお店ものんびりしているでしょう」

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★2020年5月号(4月配信)記事の目次はこちら

「僕は金には執着がない」

志村の性格にも合ったのではないか。小松政夫は「食事を一緒にしたことあるけれど、結構シャイであんまりモノを言わない人ですよ」と表現し、元マネジャーの一人も「遊び人に見えるけど、非常にシャイで自分から『皆で飲みに行こう』とは口にしない」と口を揃える。

何度か酒席を共にした、みのもんたもこう振り返った。

「上品な大人の飲み方をする人だし、泥酔するまで飲むということがなかった。だからお店のお姉ちゃんたちにもモテていましたけどね(笑)」

志村自身、メディアの取材によくこう答えていた。

「僕は芸能界は好きだけど、芸能人ってあまり好きじゃないんですよ」

恥ずかしがり屋の志村にとって、いったん内側に入れてもらえれば外から不用意に闖入者の入ってこないこの町が心地よかったのだろう。

麻布十番で飲む酒に、志村はお金を惜しむことがなかった。

〈僕は金には執着がない。やっぱり、入ってきたものはきちんと排泄しないと回ってこないと思うんだ。10入ったら、8遣って、2は税金を払う(笑)〉(「CIRCUS」05年4月号)

「だいじょうぶだぁ」の仲間たちや、商店街の顔見知り。安心できる仲間と飲む酒代は自分で払い、払わせることはしなかった。自らの冠番組に出演した若い女性タレントらと飲む姿もよく報じられたが、彼女たちもいわば“身内”だったのだろう。「朝4時、5時まで飲むと、お付きの運転手がハンドルを握るロールスロイスで三鷹の家に帰っていた」と前出の元マネジャーは証言する。

過去には、女優・いしのようこら共演者との同棲も報じられたが、独身を貫いた。「家で待ってくれる人がほしい、子供がほしい」という寂しさを吐露する一方、周囲には「女とは6年、7年も付き合うものじゃねえ、3年で充分なんだよ」と強がりも言い、関係が安定すると、仕事にのめり込むのが常だった。

「仕事、女、酒の“正三角形”が理想なんだよ」

志村はよくこう語っていたという。

動きが7、言葉が3の哲学

90年代半ばまでに「だいじょうぶだぁ」などが相次いで終了するが、その後も第一線で活躍し続けてきた。志村の笑いは何が傑出していたのか。「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家も務めた西条昇江戸川大学教授はこう語る。

「『マックボンボン』のステージを浅草の国際劇場で見た時、志村さんがボケた相方に突っ込みを入れた光景は鮮烈でした。なにしろ手のひらではなく足で、隣にいるのにかかと落としみたいにぐーんと上げた足を下ろして足の裏ではたく。テコンドーみたいなキレのある動きに小学生だった私は目を奪われました」

志村のいとこ、小山政雄もマックボンボン時代の言葉を覚えている。「飲みに行くのも『年配の人たちが足を運ぶような一杯飲み屋に行かないと勉強にならない』とよく言っていた。自分がしたことのない体験をしているような年上の人たちが酔っ払ってどんな仕草をするとか、どんな合いの手を打つのか、そういうことは熱心に研究をしていました」

志村が特に影響を受けたのは亡くなった米国の喜劇俳優、ジェリー・ルイスだ。「底抜けてんやわんや」という作品で、一人のボーイが1時間一言もしゃべらずにドタバタのヘマを繰り返す情景は、志村のコント「変なおじさん」や「ひとみばあさん」に通じるものがある。活躍してからも、六本木のレコードショップ「WAVE」に通っては、国内外の映画のビデオテープをまとめ買いした。公開されないコメディ映画にも目を配り、痛飲した後でも気になれば朝までビデオデッキにかけていたという。

「多くのお笑い芸人が言葉に頼るのと違い、志村さんは体を動かして笑わせる。こうした表現は、隠し事で慌てるとこんなリアクションをするよな、という人間を客観的に観察して再現する能力がなければできません。『ひょうきん族』で登場した“楽屋オチ”は、当時の人には面白かったけれど、今の人が見ると時代の空気感が分からない。一方で人間の滑稽さには普遍性があり、どの時代の人も笑えるのです」(西条氏)

実際、“カトケン”の全盛期の頃に受けたインタビューでは、タモリやビートたけしらについて問われ、こう答えている。

〈タモリさんやたけしさんみたいにトークがうまい人に立ち向かおうという気はないんだ。ライバルなんて思ってないよ。その代わり、コントに関しては負けないっていう自信はあるけどね〉(「週刊現代」89年9月9日号)

最後まで貫いたのは「お笑いは動きが7、言葉が3の配分」という哲学だった。04年からは動物好きが高じて「天才!志村どうぶつ園」で司会を務めたりもしたが、仕事の中心は常に「コント」。06年には舞台「志村魂」をスタートさせるなど、舞台喜劇にも力を注いできた。

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「僕はコントしかできない」

朝ドラ出演を楽しみに

今年は、70歳にして志村の新たな挑戦に注目が集まっていた。

初の主演映画「キネマの神様」の顔合わせを済ませたばかりで、NHKの朝の連続テレビ小説「エール」に出演する12月25日夜、麻布十番の寿司屋で開かれた親族との古希を祝う席でも、志村自身、そのことを楽しそうに話していたという。この席で芋焼酎と紫色のちゃんちゃんこをプレゼントされると、恥ずかしがって拒みつつも、最後はまんざらでもない表情で袖を通した。

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古希の祝い

麻布十番の喫茶店「おもかげ」にも2月中旬、志村の姿があった。定番のサイフォンコーヒーを注文し、テレビの製作会社のスタッフ6人といつものように打ち合わせをしていた、と店主の田口はる代は語る。

「1月に胃のポリープを切除されたという報道があったけど、静養されたのでしょう。とてもお元気に見えました。その前にお目にかかった時より肌艶がよかったぐらいでした」

主治医が語る「異変」

ところが――。

異変が生じたのは3月17日。倦怠感に襲われた志村は2日後に発熱して呼吸困難に陥った。訪問診療に駆けつけた主治医の判断で病院に搬送されそのまま入院したのが、3月20日だ。主治医が証言する。

「飲んでいて具合が悪い時は『目眩がする』とLINEとかで直接連絡もくるけど、今回はマネージャーさんからだった。一目でいつもの志村さんでないと分かり救急車をお願いしました。事務所の方はメディアに察知されることを気にしておられたがそれどころではなく、サチュレーション(血中の酸素飽和度)が異常に下がっていた。搬送先の病院で撮ってもらったレントゲンにはもう肺炎像が写っていました」

23日に新型コロナウィルス陽性との検査結果を受け、新宿の国立国際医療研究センター病院に転院。28日、病院からの呼び出しで長兄夫妻、次兄夫妻と甥の5人が駆けつけた時、タブレットの画面越しに目にした治療室の志村は目を閉じて意識がなく、会話を交わすこともできなかった。重症者の治療に有効とされている人工心肺装置も、志村には効果が見られなかったという。

人気者になって間もない頃、志村と2人で交わした約束があったと、幼なじみの角田は振り返る。

「歳をとったらこうしたいな、という話になると、志村は美学を語るわけ。『東京で毎晩派手に飲んではいるけれど、本当に格好いいのは蕎麦と日本酒だよ。2人で酒を持ち寄って、蕎麦にツユは要らない』とね。70になった時にやりたいと話してたから、今日は約束を守ろうと思って志村に酒を注いでいてね。だからこれは2人で飲んだ分なんだ」

そう言って角田はボトルの減った空間を2本の指で測ってみせた。

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兄・知之さん(左)と親友・角田さんと

毎年大晦日には志村は必ず、長兄の知之の家族が暮らす実家の一軒家に愛車に乗って顔を見せ、元日まで過ごすのが恒例だったという。その愛する東村山の町に、70年の生涯を駆け抜けた“最後のコメディアン”は帰っていった。

(文中敬称略)

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