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長嶋茂雄初告白「天覧試合」秘録 陛下と皇后さまの姿を見た時、「野球をやっていてよかった」と 鷲田康(ジャーナリスト)

文・鷲田康(ジャーナリスト)

プロ野球がスポーツ振興の土台だった

2021年11月3日。皇居・宮殿で文化勲章の親授式が行われ、巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄ら6人の出席者に天皇陛下から直接、勲章が贈られた。

当日、親授式に同席した長嶋の次女・三奈が取材に答えたところによると、陛下は長嶋に「野球を長い間やってこられたので、良かったと思います。実際に私も野球の経験があるので嬉しいです」と親しく語りかけたという。

実は陛下と長嶋には野球を巡りちょっとした縁がある。

陛下は子供時代から野球が大好きだった。日本テレビには11歳の誕生日に巨人のユニフォーム姿でバッティングをする映像が残され、大の巨人ファンだったことも知られている。1970年の小学校5年生のときには、東京スタジアムで行われたロッテ対巨人の日本シリーズ第3戦を生観戦。この試合で長嶋は決勝2ランを放って、陛下の心に強く印象を残した。

その後も巨人監督への復帰が決まった1992年の12月に、長嶋は目白にあるおでん屋で陛下と直接、話をする機会を得てもいる。その日、陛下が学習院大学の教職員との忘年会で店を訪ねたところ、たまたま長嶋も来店していたのだ。そこで2人は20分ほど野球談義に花を咲かせていたという。

そんな浅からぬ縁のある陛下からの叙勲だったが、実は長い文化勲章の歴史の中でも、野球界からの受章は長嶋が初めてのことだった。そればかりかスポーツ界全体を見回しても、「フジヤマのトビウオ」として知られる水泳の古橋廣之進が2008年に受章して以来、僅か2人目の栄誉だったのである。文化勲章受章への思いについて聞くと、長嶋からは文章でこんな回答が返ってきた。

「プロ野球をはじめ、野球というスポーツの育成、発展に尽力されてこられた多くの先輩、同輩、あるいは後輩を含めて、初めて文化勲章を受章できたことを誇りに思っています。ただ、これは私自身だけではなくプロ球界、アマチュア球界をはじめ、多くの皆さんの力によるものだと思っています」(以下、太字部分は今回の取材への回答となる)

戦後日本の復興の中で、スポーツ振興の土台を支えてきたのは紛れもなくプロ野球だった。しかしどれだけ国民の人気を集めても、プロ野球はまだまだ大衆娯楽でしかなかった。プロ野球を文化的な側面から評価する視点が、なかなか育たないのも日本の現実だった。

その中で今回の長嶋の文化勲章受章は、1つのメルクマールとなる出来事だったと言えるだろう。プロ野球が単なる国民的娯楽というだけではなく、人々の生活と密接に関係したものとして評価された。長嶋というスーパースターの存在を通して、プロ野球が日本社会に大きな影響を及ぼす文化として認められた。長嶋の文化勲章受章は、その扉を開くものとなったのである。

そしてそんな長嶋の姿から、もう1つ思い起こすことがある。今から60年以上の昔に、プロ野球をまず国民的スポーツへと押し上げたのもこのミスタープロ野球だったのだ。

1959年6月25日の天覧ホーマーはまさに、そのエポックメーキングとなる出来事だった。

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昨年文化勲章を受章した

「ショッキングな出来事」

「あの光は何か?」

天覧試合の実現は、昭和天皇のこの一言がきっかけだったと伝えられている。夜になると水道橋方面の空が決まって明るくなることを、陛下が侍従に尋ねられたのだった。

「いま、国民に人気のあるプロ野球のナイトゲームの明かりです」

侍従の説明に身を乗り出して陛下はこう語られた。

「夜でも野球はできるのか……」

この話をきっかけに陛下がプロ野球に興味を示していることが関係者の間で広まり、それを聞きつけた当時のセ・リーグ会長・鈴木竜二と巨人代表・宇野庄治らが宮内庁を訪れ、天覧試合の開催を申し入れた。その後もカードの選定や何度かのスケジュール調整を経た末に、1959年6月25日に後楽園球場で行われる巨人対阪神戦の“伝統の一戦”で、史上初めてプロ野球の天覧試合が挙行されることが決まった。

「天覧試合のあった今から60年以上前の時代感覚と、現在の感覚は随分違ってきていると思います」

長嶋は天覧試合の実施が決まったときの気持ちをこんな風に語っている。

「天皇、皇后両陛下が初めてプロ野球をご覧になる。今では考えられない程のショッキングな出来事でした。天覧試合のうわさが出始めた頃から、ほとんどの選手、監督、コーチなど高揚感と言うか、簡単には身動きさえ戸惑うような緊張感に包まれていたと思います」

この年は4月に皇太子明仁親王と美智子さまがご成婚。そのパレード見たさにテレビの普及率が急上昇するなど、世はロイヤルブームに沸き立ち皇室と国民の距離は縮まりつつある時期だった。しかし一方で当時の野球界はまだまだ戦前の教育が残る世代がチームの中心にいたこともあり、まさに天皇とは“天上人”であることに変わりはなかった。

巨人を率いる監督の水原円裕のぶしげ(茂)は、試合前には「みんなよそ行きのプレーはせんでもいい。普通にやれ」と硬い表情の選手たちに語りかけたという。しかし当の水原本人は試合当日の朝に清めの水ごりをして後楽園球場に乗り込むなど、最もこの天覧試合を意識していた人物の1人でもあったのだ。

そういう時代背景の中で天覧試合の実施を聞いた当時のチームの雰囲気を、長嶋はこう語っている。

「60年前と現代では時代感覚が違っているという話はしましたが、天皇、皇后両陛下が初めてプロ野球をご覧になると言えば、日本国中が大騒ぎになるというのが時代の風潮でした。水原監督以下コーチも選手も朝から緊張の連続、特に年配の監督やコーチが試合前の練習時にのどが渇くのか、たびたび水道の水を飲みに来られた記憶があります」

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貴賓室でご観戦

スランプの真最中だった

そして長嶋もまた、試合前日には眠れぬ夜を過ごした1人だった。

この年の長嶋は開幕から絶好調を維持して4月は4割4分6厘という驚異的なハイアベレージを残して打率トップを走った。5月にはあまりの好調さに相手チームの敬遠攻めにあい、5月16日の中日戦では1、2打席と歩かされた末の5回2死1、2塁で、またも捕手が立ち上がった。あまりに露骨な敬遠策に、4球目が投げられる前に長嶋は打席で後ろを向いてヘルメットとバットを置き始めるパフォーマンスで“抗議”する一幕もあったほどである。

しかしこの敬遠攻めが長嶋の打撃を、徐々に狂わせていく。

6月に入ると札幌遠征のダブルヘッダーで8打数ノーヒットとピタリと安打が止まってしまった。その後も打率こそ3割3分台をキープしていたが、本塁打は6月に入ってわずかに1本。そんなスランプの中で、長嶋は天覧試合を迎えることになったのである。

前日の6月24日の阪神戦も4打数無安打と、まったくいいところなく凡退を繰り返した。翌日の大一番に備えて長嶋が床に就いたのは午後10時過ぎだったが、天覧試合の興奮と自らの打撃不振を考えると、まんじりともせずに寝ついたのは午前1時ごろになっていたという。

「いわゆるインスピレーション」

いよいよ明日だ――昂る気持ちを抑えながら、就寝前にバットケースから5本のバットを取り出し、枕元に置いて床に就いた。

「天覧試合ではベストの試合をお見せしたい。巨人も阪神も監督、コーチ以下選手たちの思いは同じだったでしょう。私ももちろん、明日はベストのプレーをご覧頂きたいという思いで愛用のバットを枕元に並べて寝たのです」

長嶋の回顧だ。

長嶋がこの頃愛用していたバットは米ルイスビル社製の「ルイスビル・スラッガー」アーニー・バンクスモデルというタイプだった。しかし後に野球博物館で展示された天覧試合の記念バットは「アル・ケーライン」と刻印された少し重量の重いモデルで、実際に試合で使ったのもこちらのモデルだった。明け方に目が覚めた長嶋は、前夜に準備した5本のバットを握り、自分の感覚とピタリと一致する1本を選び抜いている。その結果が、ちょっと重めのアル・ケーラインモデルだった訳だ。

長嶋はバットを選んだ経緯については以下のように語った。

「いつも使っていたバットとは違うバットを選んだ理由ははっきりと思い出せませんが、いわゆる私自身のインスピレーションが働いたのかもしれません」

スランプのど真ん中で、通常より少し重めのバットにインスピレーションを感じて選んだのだ。バットを握った瞬間に振り回さずに、ミートを心がけようという直感が働いた。おそらくその結果の選択だっただろう。

そして当日の朝、起床した長嶋は最寄りの駅でありったけのスポーツ紙を買い込んできた。そして下宿先の自室に戻り全紙の一面を広げると、そこに自分で青や赤のマジックを使って次々と見出しを書き込み始めたのだった。

「長嶋天覧試合でサヨナラ打」「長嶋逆転満塁本塁打」――大きな文字でこう見出しを書き込むと、次は自分の手で監督の水原の談話も作った。

「水原監督の話 長嶋の1発に尽きる。さすがゴールデンルーキー。歴史に残る1発だ」

得意のイメージトレーニングをこの頃からやっていたのである。

「一般の方はどのように考えられるかわかりませんが、私としては自分を盛り上げるためにやったことでしょう。人それぞれ色々な言動があると思いますが、イメージングトレーニングかどうか、私独自のやり方のひとつだったと思います。ともかく『この試合にベストを尽くそう!』という考えしかなかったと思っています」

川上哲治と交わした会話

そうして近所に住むコーチの川上哲治の車に同乗させてもらって、後楽園球場に向かった。

誰もが緊張していた。

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