
【55-社会】「専門知」は万能ではない 今、求められる「総合知」の力|辻田真佐憲
文・辻田真佐憲(近現代史研究者)
専門家崇拝の危険性
コロナ禍は、専門家の重要性とともに、その危うさも明らかにした。“8割おじさん”こと、京都大学の西浦博教授はその代名詞ともなった接触8割削減について「あの緊急事態で日本は法的にロックダウン(都市封鎖)できなかった。スローガンを作って流行制御するしかない。専門家で僕しかその評価はできないのだから踏み込んだのです」と振り返っている(『AERA』9月28日号)。
西浦の言動は効果覿面(てきめん)だった。自粛ムードが醸成され、街からは人影が消えた。なるほど、これは一面で日本の危機を救った英雄的行為だったかもしれない。だが同時に、その専門である理論疫学の範囲を明らかに逸脱した、政治的な動きだったともいえる。
ロックダウンやそれに類する規制は、政治・経済・社会・文化さまざまな分野に多大な影響を及ぼし、場合によっては人々の生活を破滅に追い込んでしまう。だからこそ、民主的に選ばれた政治家が、厳格に管理された公文書にもとづき、さまざまな専門家の意見を聞きながら、最後はみずから責任を取るとの覚悟のもと、行うべきなのだ。そうではないものが、専門家の権威を用い、スローガンで日本社会特有の同調圧力を煽って、みずからの考えを実現しようとするのは、コロナ禍以外の例を考えればすぐわかるように、たいへん危ういといわざるをえない。
筆者はここで西浦個人を批判したいのではない。問題なのは、“8割おじさん”を可能ならしめた、われわれの社会がもっているところの、権威主義的な専門家崇拝のほうである。
専門知が大切なのはいうまでもないが、それはけっして万能ではない。寿命にも能力にも限りがある人間は、あらゆることに対して学術的に精緻で厳密な態度では臨めない。にもかかわらず、非常時における政治家のように、しばしば社会全体にかんする深刻な判断を迫られてしまう。
そのときに役立つのが、作家や評論家が得意とする物語、あるいは総合知だ。総合知は、細分化された専門知をまとめあげて、「これくらいでいいのではないか」という大まかな見取り図を提供する。政治家にせよ、官僚にせよ、経営者にせよ、あるいは一般の有権者にせよ、日々の判断で参考にするのは、もっぱらこの総合知にほかならない。専門知はこの総合知を媒介にすることで、はじめて正しく社会的な影響を及ぼすことができる(いうまでもなく、「偉い先生やマスコミが言っているのだから」は、専門知でも総合知でもない。そのような権威主義は、「人気の政治家が言っているのだから」という事大主義にも容易に転化する)。