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柳田邦男 御巣鷹「和解の山」

悲しみでつながりあう人たちの物語。/文・柳田邦男(ノンフィクション作家)

喪失体験者のなかから

今年5月はじめのこと。

柔らかい春の陽射しをあびた深山の、巨石の転がる渓流に沿った急な登山道を登っていくと、両側の急斜面を埋める、天頂の白い雲を突き刺す白樺やコナラなどの枝先の開いたばかりの淡い薄緑のちっちゃな葉たちが、はしゃいでいるかのように煌めいて迎えてくれる。

ここ群馬県南西部の果て、御巣鷹山を包む新緑は、ここは天国ではないかと思えるほど、一点の濁りもない透明感が神々しいまでに漲(みなぎ)っている。

37年前の8月12日、日本航空のジャンボ機が墜落し、乗客・乗員520人が亡くなった山だ。科学技術の粋を集めたジェット旅客機が、なぜ大惨事を起こすのか。大切な家族の命を奪われるという苛酷な運命を背負った人たちは、どのような人生を歩むことになるのか。容易には解けそうにない宿題を背負った気持ちに突き動かされて、折に触れては慰霊登山を続けてきた。

現代に生きる人間の「生と死」「喜びと悲しみ」を、自分なりの眼で深く掘り下げたところで捉えたいという思いで、黙々と取材してきた。そんななかで、この10数年、日航機事故だけでなく、様々な事故や災害の被害者や被災者、つまり苛酷な喪失体験者のなかから、人間の精神性の在り処としてとても大事な、新しい精神文化のあり方が生まれ始めたと言える動きが見られるようになった。今年5月はじめ、山開きの知らせを受けて、御巣鷹山への慰霊登山に出かけたとき、山を包む新緑のあまりの柔らかな情景に、私が神々しさを感じたのは、そうした喪失体験者のなかから芽生えた新しい精神文化への強い思いを心の中に漲らせていたからかもしれない。

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慰霊登山と取材を続ける柳田氏

恩讐を超えて

狭い登山道は、大雨や雪で崩れかかったところが少なくないが、山を管理する上野村や日本航空有志たちの作業で、パイプの手すりやアルミ製の渡り板や階段が設けられ、登山の安全が確保されている。

事故機が墜落したのは、御巣鷹山の山頂から南側に離れた標高1500メートル余の尾根だ。機体はバラバラになって炎上し、胴体後部は尾根の反対側斜面の木々をなぎ倒して、スゲノ沢まで落ちていった。乗客・乗員の遺体の発見位置は、尾根周辺からスゲノ沢にかけて広範囲にわたったので、後に建てられた個々の犠牲者の墓標も斜面の広い範囲にわたって林立するかたちになった。

尾根に至る登山道は、道程(みちのり)の半ばあたりからは、葛折(つづらお)りになり、斜面もきつくなる。はるか前方にスゲノ沢上流付近の墓標群が小さく見えてくると、左手上方の7合目あたりの斜面の一角に休憩用の山小屋が見えてくる。山小屋からは、いつもは静かなのに、何やら工事をしている音が響いてくる。

山小屋に辿り着くと、数人の男たちが入口のすぐ上に出っ張った屋根の修理工事をしている。冬場の小規模な雪崩で屋根が壊されたのだという。部材を屋根上に持ち上げたり、金槌で釘を打ったり、皆いい年嵩(としかさ)の連中なのに、まるで学生の部活仲間のような和気藹々(あいあい)とした雰囲気で作業をしている。自称「ダン組」の男たちだ。

「ダン組」とは、日航機事故で小学校3年生の9歳だった健ちゃんを亡くした父親の美谷島善昭(みやじまよしあき)さんと日本航空OBの大島文雄(ふみお)さんが中心になって、春の開山時と夏の8月12日直前と晩秋の閉山時に、傷んだ墓標の基盤や登山道などの修復作業にボランティアで取り組んでいるグループだ。事故から20年余り経ったとき、日本航空を定年退職後も山に入り、墓標の修復や枯れた生花の整理などを個人的に黙々とやっていた大島さんの姿を見た善昭さんが感動して、「これからは一緒にやりませんか」と声をかけたのが始まりだった。かけがえのないわが子の命を奪われた父親と加害企業の社員OBが恩讐を超えて、520の御霊の眠る山を守るために個人レベルで「つながりあう」というかつて例を見ない人間関係が生まれたのだ。

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様々な事故や災害の遺族と一堂に会す(写真は筆者提供)

生きなおす力

善昭さんは、歳月を経るにつれて、墓標や登山道などの傷みが進むので、修復作業には“助っ人”がいてくれると助かると考え、事故当時から取材を受け、その後も長年にわたりサポートしてくれていた記者たち、毎日新聞の萩尾信也、朝日新聞の高松浩志、日本経済新聞の小林隆などにも声をかけた。記者たちは編集委員やデスククラスになっていたが、それぞれ仕事とは別に個人的に作業に参加するのを快諾した。

善昭さんの妻・美谷島邦子さんは、日航機事故遺族会の8・12連絡会事務局長として幅広く活動していて、周囲では「美谷島さん」と言えば邦子さんを指すので、善昭さんのことは「ダン(ナ)さん」と呼ぶようになっていた。それが善昭さんたちボランティアグループを「ダン組」と呼ぶようになった理由(わけ)だ。

山小屋の屋根の修理作業に取り組んだ「ダン組」に、この日は新たな参加者がいた。日航機事故とは無縁の宮城県仙台市の南・亘理(わたり)町から駆けつけた大工の早坂満さんと由里子さん夫妻だ。

早坂夫妻の独り娘で18歳だった薫(かおる)さんは、2011年3月11日の東日本大震災の日、隣町の山元町にあった自動車学校で授業を受けていたが、学校側の不手際でバスによる避難の遅れのため津波に呑み込まれて亡くなった。その喪失の悲しみに打ちひしがれていた夫妻は、同じように子を失った美谷島邦子さんに助言を求めるようになり、2018年からは御巣鷹山への慰霊登山をするようになっていた(その詳細は次号以降に記す)。

そして、今年は開山に合わせての「ダン組」の活動にも参加したのだ。プロの大工だから、屋根の修理などはお手のものだった。70をとうに過ぎた善昭さんも大島さんも、定年前後の歳になった記者たちも、大歓迎。

そんなさりげない作業風景のなかにも、「喪失の苦悩」「悲しみの暗いトンネル」という試練に直面した人が、先行するかたちで同じ体験をした人と「つながりあう」ことによって、前向きに「生きなおす力」を見出すという新しい精神文化の芽生えを、私は感じたのだった。それは人間の心の営みの可能性とすばらしさの証だと言えるだろう。

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尾根高く舞うシャボン玉

御巣鷹山は、不思議な山だ。

10数年前から、毎年8月12日が巡り来ると、尾根の昇魂之碑の前の広場には、朝から日航機事故の犠牲者の遺族たちだけでなく、全国各地の事故や災害の犠牲者の遺族たちが慰霊登山にやって来て集うのだ。

そうした人たちが直面した事故や災害は、JR福知山線脱線事故、信楽高原鉄道衝突事故、名古屋空港・中華航空機墜落事故、関越道バス事故、笹子トンネル天井板崩落事故、東京・港区エレベーター事故、東武線竹ノ塚踏切事故、明石花火大会歩道橋事故、御嶽山噴火災害、さらに東日本大震災の大津波災害関係では、大川小学校、七十七銀行女川支店、名取市閖上地区、山元町自動車学校の惨事、等々、実に多岐にわたっている。もちろん年によって参加者の顔ぶれは多少違っても、10人を下ることはない。驚いたことに、3年前には、事故から60年近く経っている国鉄鶴見事故の“遺族2世”の男性も参加していた。

誰かが時間を決めて集合の呼びかけをしたわけではないのに、集まった遺族たちはそれぞれに慰霊の鐘を鳴らし、昇魂之碑に焼香をすると、亡き人たちの御霊の平安と社会の安全を祈って、一緒にシャボン玉を飛ばすのだ。大小のシャボン玉が七色に輝いて尾根の上空を高く低く舞う情景は、あの世とこの世が境界もなく融け合っているように見えて、飛ばした人たちの心を安らげる。喪失のかたちは違っていても、互いに「つながりあう」ことが、なぜ「生きなおす力」を生み出すのか、人間の心の営みのすばらしさを、私は身近に目撃してきたので、その一つひとつのエピソードを丁寧に記録しておこうと思う(以下敬称略)。

事故後11時間が経過しても煙が上がり続ける

事故後11時間が経過しても煙が上がり続ける

第1話 閖上の記憶

あの日、2011年3月11日午後2時46分に発生した地震の揺れは、仙台市のすぐ南に広がる名取市の港町・閖上地区でも只事でなく、誰もが恐怖を感じたほどだった。

そのとき、丹野祐子(たんのゆうこ)(42歳、当時)は、閖上中学校の卒業式を終えた後の長女と、学校近くの公民館で開かれていた謝恩会に参加していた。普段はスーパーに勤務しているのだが、この日は休みを取っていたのだ。地震発生と同時に会場は騒然となり、間もなく出された津波警報に従って全員2階に避難した。もう1人の子、中学校1年生の公太(こうた)は、卒業式参列の後は授業がないので、下校したのは確かだった。

公民館のすぐ前は、かつて中学校があったところで、運動場がそのまま広場として残されていたので、子どもたちの恰好の遊び場になっていた。公太はその広場にいるのだろうと、祐子は思った。だが、子どもたちは、津波警報が発令された後も、すぐにはその重大性を感じなかったのか、遊び続けていた。祐子は公太のことが心配になって、公民館の2階から、広場の子どもたちのなかに公太がまだいるかどうか探したが、見つからなかった。

突然、避難者たちの間にざわめきが起こった。

「津波だ!」「大変だ!」「凄い!」

祐子も海岸の方向を見た。それは恐ろしい光景だった。津波とは台風襲来時の高潮のように、海面が盛り上がって海水の壁を作り、それが堤防を越えて押し寄せてくるものだと思っていた。ところが海岸の方から迫ってくるのは、まるで違っていた。家屋や船や瓦礫がごちゃまぜになって壁状になり、それが横一面に広がって猛烈な勢いで、こちらに向かって攻めてくるのだ。シェークスピア流に言うなら、マクベスの森が迫ってくる感じなのだ。祐子は恐ろしさのあまり、声も出なかった。

運命を分けた足の速さ

広場を見ると、子どもたちが300メートルほど離れた中学校の校舎を目指して一斉に走っていく後ろ姿が見えたが、公太の姿は確認できなかった。辺りは、あっという間に瓦礫と泥水に被われ、公民館も中学校も2階以上が一面の水面上に残されたかたちになった。

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