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なぜ江戸は首都になったのか|門井慶喜「この東京のかたち」最終回

★前回の話はこちら。
※本連載は第29回です。最初から読む方はこちら。

 お気づきかもしれないが、この連載には大きな用語の混乱がある。「徳川時代」と「江戸時代」のそれである。

 家康の幕府開創から慶喜の大政奉還まで、年数でいうと慶長8年(1603)から慶応3年(1867)までのおなじ約270年間を、私はこれまで「徳川時代」と呼んだり「江戸時代」と呼んだりして特段ことわりもしなかった。こういう場合には、ふつうなら、どちらかに統一するのが校正の常道なのである。

 そのほうが字面もよくなるし、読者の負担も減るだろう。担当者はさぞかし気になったにちがいないが、私としては、じつは「江戸時代」という用語には少し違和感があった。なるほど江戸には将軍がいる。人口も全国一だろう。その点ではまさしく日本の代表にほかならないのだが、しかし一国の首都の条件を経済という点に置いたら事情は一変する。

 当時の経済の最重要品目はコメである。と同時にお金である。コメをふくむ日本中のあらゆる主要な物産はまず大坂にあつめられ、そこで値段をつけられた上、ふたたび各地に散って小売りされるわけだから、ここでは明らかに大坂のほうが一国の支配者なのである。

 いわゆる天下の台所。これにくらべると江戸など単なる大消費地にすぎないだろう。「江戸時代」の語がしっくり来ない理由である。この時代は、じつのところ江戸の時代とは言いきれないのである。

 ならば「徳川時代」に統一すればいいのか。それもまた不都合がある。何しろこの連載は東京そのものを主題としているので、文脈によってはどうしても「江戸」の地名を出したいことがあるからである。まあ文章の苦労はともかくとして、大坂の存在はやはり気になる。大坂はこの時代には首都とは呼べないまでも半首都ではあったわけで、だからこそ維新のときには大久保利通が、いっとき、

 ――新しい帝都は、大坂にしよう。

 としきりに訴えたりもした。

 純粋に経済だけを見るならば、これは正しい選択だったろう。もしも実現していれば、いまごろ天皇ご一家は大阪城にお住まいかもしれず(当然そこは「皇居」と呼ばれることになる)、NHKのアナウンサーの話す標準語は大阪弁となり、芸能ニュースでは歌舞伎役者よりもむしろ文楽の大夫や三味線や人形遣いのほうが派手にスクープされていたかもしれない。結果からすれば日本の首都は江戸‐東京とエスカレーター式に進んだように見えるけれども、決してそんなことはないのである。

 ならばなぜ江戸は東京になったのか。言いかたを変えるなら、なぜ江戸は明治以後、真の首都になり得たのか。

 これをときあかすには、むしろ逆に、なぜ大坂は首都になれなかったかを考えるほうが早いかもしれない。大坂には何が足りなかったのか。

 あるいは何の限界があったのか。従来こういう問題はもっぱら政治や経済のほうから語られることが多かったけれど、ここではひとつ、もっと物理的なところから考えてみることにしよう。

 都市の物理とは何か。土木である。大地との格闘ともいえる。ただし江戸と大坂の場合はどちらも道路とか建物とかいう以前に、そもそもその大地をどのようにして得るかが大問題だった。どちらも元来はかなりの部分が湿地帯であり、とてものこと、大勢の人が住めるところではなかったからである。

 湿地の原因は、川だった。

 どちらも河口が近いから水がだらだら広がったわけだ。したがって豊臣秀吉による大坂の街づくりも、徳川家康による江戸のそれも(両者のスタートの差は10年もない)、まず手をつけたのは河道の改変である。

 当時のことばで「瀬替え」という。さしあたり工事の容易なのは大坂のほうだった。いったい大坂には東から2本の川が流れこんで来る。ひとつは琵琶湖からの淀川であり、もうひとつは奈良方面からの大和(やまと)川。

 北の淀川、南の大和川という言いかたもできるだろう。このうち淀川のほうに、秀吉は、こんにち、

 ――文禄堤。

 と呼ばれる堤防をながながと築いて(厳密には堤防道路)、これでいちおう大坂の街は使いものになった。本流をしっかりと固めて広がらせず、固めたまま海(大阪湾)へどっと注がせることで大阪平野を干上がらせたわけだ。南のほうの大和川は、この時点では、大阪平野に入るや否やほとんど直角に北へ向かって淀川と合流していたから、阿倍野や船場、天満(てんま)といったような中心街へは支障がなかった。単なる辺境の川だったのである。

 だがその辺境の川が、しばらくして大問題になるのである。大阪平野に入り、ほとんど直角に北へ向かったら、じつは大和川はおもに3本にわかれる。

 玉串川、楠根川、長瀬川である。3つとも結局は淀川へそそぎこむのだが、これらはいずれも天井川、つまり河床が周囲の平地よりも高い川だった。

 その水は、誇張して言えば大雨のたび滝のごとく流れ落ちた。田畑はだめになり、子供も大人もおぼれ死んだ。堤防を築いたら川の底に土砂がたまり、いっそう河床が高くなった。もはやどうしようもない。このため沿岸村民はかなり早くから、これらの川を、

 ――よそへ、やってくれ。

 と行政へ嘆願している。

 すなわち瀬替えの訴えにほかならなかった。時代はすでに徳川時代である。訴訟先ははじめ大坂町奉行所だったけれども、らちがあかないと見るや、何とまあ、彼らは江戸まで行ってしまった。

 そうして幕府の本省というべき勘定奉行所へ駆けこんだらしい。ずいぶん強引なことをしたものだが、彼らの目的は、おそらく人命のみにはなかったろう。いわゆる「大切な人をまもる」のとおなじくらい、いや、それ以上に、

 ――稼げる。

 そのことを意識していた。これらの川がなくなれば、その跡地は、そっくりそのまま肥沃な田畑になる。

 穫れ高が劇的に向上する。江戸での訴え先が勘定奉行所だったというのは、要するに、この役所の重要な仕事のひとつが諸国年貢の収受だったことと関係がふかいと見るべきだろう。これは私の想像だが、彼らは風のうわさで、

 ――関東では、利根川を曲げているらしい。

 そう耳にしていたはずである。実際、その工事はもう始まっていたのだから(後述する)、彼らにしてみれば、

 ――利根川がやれるくらいなら、それよりはるかに狭く短い大和川がどうしてやれぬというのか。

 その感情が強かったのではないか。幕府は「よし、やろう」とは言わなかった。村民は訴願しつづけた。その訴願はついに50年におよんだというから恐るべき粘り強さである、または強欲さである。

 結局、幕府のほうが折れた。こちらもやはり、

 ――村民の、かけがえのない幸福のために。

 などという崇高な意識がはたらいたのではなかったろう。穫れ高が上がれば年貢米がふえる、瀬替えの工事費も回収できると算段が立ったわけである。

 工事開始は、宝永元年(1704)2月。

 完成は、同年10月。

 そう、たった8か月で終わってしまったのである。土木技術のすさまじい高さ。それだけで大和川は河道が激変し、いま見るような姿になった。大阪平野に入ったところで北へ向かうことをやめ、まっすぐ太く西進して大阪湾へと押し寄せる。

 この西進部分こそ、つまりは今回の掘削部分というわけだ。おおむね幅180メートル、長さ15キロメートル。性格的には川というより運河ないし放水路に近いだろうか。

 もちろんこの新河道のところにも元来は村があり、田畑があり、人々の暮らしがあり、笑顔や泣き顔があったのであるが、それらは水底に沈んでしまった。

 歴史から永遠に消えてしまった。沈んだとしても結果的には5倍もの広さの土地があらたに得られたのだから結構じゃないか。公共事業というものは、つまりはそうしたものなのだろう。ともあれ大阪平野の開発は、こうして約100年で完了した。

 その第1段階が淀川の文禄堤、第2段階が大和川の瀬替えであることは上に見たとおりである。大坂の街はこれにより都心部と郊外の農地とが完備され、真に機能しはじめた。いっぽう関東はどうだったか。関東平野ではこの時点でもまだ利根川の大蛇があばれていたのである。

 淀川と大和川を合わせてもなお足りぬほどの「坂東太郎」。その水源は、群馬の山中にあった。そこから南へまっすぐ駆け下りて東京湾へなだれこむのがもともとの川すじで、その河口につまり江戸があったわけだ。

 上野や本郷、白金など、いくつかの台地をのぞけば江戸の地がもう見わたすかぎり水びたしだったのは、遠浅の海ばかりのせいではない。むしろ利根川の水のだらだらによるところが大きいのである(ほかの川もある。後述)。

 現在は、もちろん川すじは大きく異なる。群馬の山中を発して南下するところまではおなじだが、埼玉県幸手市あたりで東へL字状に進路を変えて、銚子付近で太平洋に出る。

 はっきりと江戸(東京)を避ける川すじ。土木工事の結果である。その工事の始まったのは、おそらく江戸幕府の開創まもなくだったのではないか。西暦でいうと1600年代初頭。大坂ではまだ大和川には手もつけられていなかった。あの訴願好きの村民たちは、大坂城では豊臣家ががんばっていたので、そっちへ押しかけたことはあるかもしれないが。

 もっとも、利根川は大河である。こんなL字改流の大工事が、のちの大和川のように8か月で終わるはずもない。いったいに関東平野にはほかにも渡良瀬川、江戸川、綾瀬川、隅田川、荒川などが網の目のように並行しているので(いずれも河道は現在とまったくちがう)、それらとつなげたり切り離したり、無数の小工事をおこなわなければならないことも工事をいっそうむつかしくした。

 起工から約50年後、承応3年(1654)にようやく利根川は太平洋へと接続したものの、この時点では、それは一部の流れにすぎなかった。

 残りの水はまだまだ他の川と合流しつつ、結局のところは東京湾へそそいだのである。このため、このいわゆる利根川東遷(とうせん)の大事業は、そののちも関東平野のあちこちで工事がつづけられることになった。

 堤防の修築やら、支流の締め切り(閉塞)やら、川幅の拡張やら……つづくうち世の中のほうが明治になった。こと治水においては、関東平野の開発は、とうとう徳川時代には完了しなかったのである。

 そうした治水の未完了は、ただちに農地化の未完了を意味する。関東平野の面積は約1万7000平方キロメートル、もちろん日本一だけれども、その広大な面積ほどには米の穫れ高は上がらなかったような感じがする。もしも関東平野に口があるなら、

 ――俺はまだ、全力を出していない。

 などと言いたかったかもしれない。それとくらべると大阪平野のほうは、面積こそ約1600平方キロメートル、関東平野の10分の1にもみたないけれど、その内蔵するものはじゅうぶん利用されつくしたといえる。

 彼は全力を出したのである。それに大坂の場合には、周囲に有能な都市が多かった。酒づくりの奈良や伏見、塩づくりの赤穂、江戸の大流行商品である菜種油しぼりの六甲山麓地域といったような「稼げる」物産都市もそうだけれど、何と言っても中世以来の一大金融センターである京がすぐそこに控えていたことで、優秀な人材に事欠かなかった。人材の集積こそは都市発展の最大の条件にほかならないのである。

 大坂は、いわゆる天下の台所だった。

 コメをふくむ日本中のあらゆる主要な物産がまずそこにあつめられ、そこで値段をつけられた。ということは要するに、全国の物産は、その値段をつけられるだけの高度な人間の頭脳めがけて殺到したのである。

 おそらく初期の大坂の市(いち)をささえた人材のうち、多くは京から来たのだろう。それ以降は人が人を呼ぶ。あるいは街が人を呼ぶ。全国から、とりわけ西日本から有能な者があつまることになった。大坂というのは街自体はひろくないし、大阪平野もせまいけれど、むしろその故にこそ他の街の力をためらうことなく借りる意識がはたらいたといえる。この点で、私の目には、徳川時代の近畿地方は、

 ――商店街みたいだ。

 と映じたりもする。漠然と「上方(かみがた)」と呼ばれるアーケードの下で、大坂屋をはじめ、京屋、奈良屋、伏見屋、赤穂屋、六甲屋……個性ゆたかな店が軒をならべ、独自の商品を売り、そのことで全国の注目をうながす。

 いうなれば多極分権型。これに対して関東平野は、一極集中型というか、ひとつの巨大なショッピングモールだったろう。関東平野という未完成ながらも広大きわまる箱型の建物のなかに、すべての店が入居してしまう。

 その中心はもちろん江戸である。ほかにも新宿、品川、浦賀、佐倉といったような小さな個性は点在するが、それらは新宿、品川、浦賀、佐倉である前にまず江戸郊外である。一種の従属の街なのである。あるいは傘下の街なのである。どこもかしこも似たような歴史しか、あるいは歴史の浅さしか持たない上にあんまり江戸の光がまぶしすぎるからだろう。商店街型、ショッピングモール型、どちらが上という問題ではない。徳川時代のふたつの首都はこうして地方の東西も、周囲との関係もまったく異なるものだったのである。

 それが近代に入ってどうなったか、これはみなさんご存じのとおり。

 ショッピングモールが勝利した。その理由はもう明らかだろう。治水工事の継続により未完成の関東平野がようやく「完成」し、すみずみまで人の手で使えることになったこと。それにより農地がふえたのはもちろん、それ以上に江戸の、いや東京の郊外の面積がふえたこと。

 そう、あの1万7000平方キロメートルがようやく全力を出したのである。もはや大阪の街は、ないし大阪平野は、置き去りにされるほかなかった。これは単なる面積の問題ではない。関東平野の持つあの一極集中的、ショッピングモール的性格が、そっくりそのまま近代日本そのものの理想とする国家像と一致していたことは偶然ながら大きかった。

 一刻もはやく中央集権の実(じつ)を手に入れたいと思う政府にとって、江戸=東京は、じつに落ちつきのいい場所だったのである。大久保利通が最後には大坂遷都論を撤回し、江戸への遷都に同意したのも、うがって見れば、彼がのちに国家中枢の独裁者になることと無関係ではないかもしれない。この点でもまた大坂ないし上方という多極分権型の商店街はむなしく置き去りにされたのだった。

 21世紀の現在、このショッピングモールは「首都圏」と呼ばれている。

「関東平野」とどう違うのかは誰もわからず、どこからどこまでが圏内なのかはさらにわからず、そもそも地名なのか否かさえ判別しがたい名詞だけれども、逆にいえばそういう曖昧なことばを使わざるを得ないだけ、それだけ日本の首都はふくれあがった。

 新宿も、品川も、浦賀も、佐倉も、こんにちではさらに大宮や千葉や横浜をも呑みこんで、この箱型の建物はあっけらかんと立っている。

 その繁栄が永遠につづくものかどうか、未来はそれこそ誰にもわからないが、もしも今後、関東が――東京がと言いかえてもいい――首都の座をどこかに奪われることがあるとしたら、その原因は、やはり土木にあるような気がする。政治も経済も、さらに言うなら通信も医療も建設も運輸も電力も学問も芸術も、結局のところは大地の前提があってはじめて成り立つものだからである。

この連載をまとめた書籍が、2021年、文春新書より刊行される予定です。

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』 『シュ ンスケ!』。東京駅を建てた建築家 ・辰野金吾をモデルに、 江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、 はじまる』。最新刊は『銀閣の人』。

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