出口さんカンバン

出口治明の歴史解説! インフラ再建コストを考えた勝海舟と西郷隆盛

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年1月のテーマは、「リーダー」です。

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※本連載は第10回です。最初から読む方はこちら。

【質問1】織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人は、グローバル基準でどう評価されますか?

 リーダーとしては織田信長(1534~1582)がぶっちぎって傑出しています。金銀銅の3通貨制を設けたり、楽市楽座を実行したり、海外との交易を盛んに行った。ビジネスに関するビジョンをいくつも打ち出した点で、3人の中では圧倒的に世界に通用する人物だと思います。

 それは信長が、他の戦国大名に比べてマーケットを知っていたからです。若い頃には那古野という商売の中心地をブラブラし、町の若者たちと一緒に遊んでいた。売ったり買ったりもよく見ていた。ビジネスの現場をわかっていたのでしょうね。

 近年は、「信長の行った主な政策は、他の戦国大名も行っていた」とその独自性に疑問を投げかける研究者もいるようです。しかし、どの大名も天下は取れていないですよね。信長が傑出していたのは、「コレとアレを組み合わせていけば、天下が取れるで」という大きなグランドデザインを描けたところにあります。

 後継者の豊臣秀吉(1537~1598)や徳川家康(1543~1616)は、僕に言わせれば信長のグランドデザインを実現したに過ぎません。秀吉の太閤検地や度量衡の統一は、信長が領地内で実施した検地の延長線上と見ていいでしょう。江戸時代は「家康の優れたシステムで長く安定した」と言われますが、優れている点はたいてい信長のアイディアをパクったものです。

 この3人のうちで僕が部下になることを選べといわれたら、迷うことなく信長に仕えます。信長に仕えたら命がいくつあっても足りないという声が聞こえてきそうですが、それは全く違います。

 信長の考え方は合理的で、理解しやすいのです。僕が考えたアイディアも、信長が機嫌のいいときに提案すれば、しっかりと聞いてくれるでしょう。逆に上司の機嫌がわるいときに、新しいプランを持っていって叱られるのは古今東西、今でも同じです。

 皆さんの職場でもそうではないですか? ドジなことばっかりしている従業員は、上司の顔色をきちんと見ていないのです。上司の機嫌が悪いときに「資料ができました!」と不用意に持っていくからポカリとやられるわけです。「人の顔色をうかがう」という言葉を悪く言う風潮がありますが、人間関係を円滑に進めるには、きちんと顔色を見たほうがいい場合もあります。

 サラリーマン時代に、部下に「僕はどんな上司や?」と尋ねたことがあります。すると部下は「楽勝な上司ですわ」とあっさり答えました。「なんでや?」と尋ねたら、「だって、機嫌よく笑っているか、怒っているかのどっちかですから、こんなわかりやすい上司はありません」と言われました(笑)。

 その意味では、信長もわかりやすい“楽勝の上司”だと思います。

 もう1つ信長が優れているところは、仕事をミスっても部下を殺さない点です。信長の部下で、仕事のミスが原因で殺された人はいません。激しく叱責されたり、追放されたりはあっても、殺されないというのはとても安心できます。

 信長は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という川柳のせいで恐いイメージが創られたように思います。あれは江戸時代に作られたものなので、家康を必要以上に持ち上げようとしています。

 豊臣秀吉は、目から鼻に抜ける賢さがあって、仕事の面では頼りがいのある上司です。僕が高い成果を出せば、たくさん褒美をくれてモチベーションも高めてくれそうです。

 しかし、秀吉の部下はミスをしたり機嫌を損ねたりすると殺されてしまいます。高い成果を求められるのに、ミスは許されないのは仕事をするには厳しすぎる環境です。この3人の中では、一番仕えたくない上司ですね。誰でも殺されるのはいやですから。

 徳川家康の場合は、顔色をうかがっても何を考えているのか、よくわからないところのある上司です。実際のところ有能なのかどうかもわかりません。実績だけを見ると、あまり優れた才能があるようには感じません。信長が描き秀吉が発展させたデザインに、新しく何かを加えたようには見えないのです。長生きしたことが勝因のほぼ全てでしょう。まさに「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」です。

 彼が徳川幕府を開けたのは、長生きしたからです。家康が先に死んで前田利家(1539?~1599)のほうが長生きしていたら、前田幕府ができていただろうと僕は考えています。


【質問2】歴史を見ていると負けた側のリーダーやその仲間たちは皆殺しにあいます。しかし、明治維新では徳川慶喜は殺されていません。それはなぜでしょうか。

 明治維新は、軍事クーデタによる政権交代ですが、死者数でみると戊辰戦争(1868~1869)は8000人強、その他を合わせても3万人前後といわれています。その理由として、明確な対立軸がなかったことは、12月19日に配信された講義で説明しました。薩長は初め「尊皇攘夷」を掲げて幕府打倒をめざしたのに、結局は幕府の阿部正弘(1819~1857)が描いたグランドデザイン「開国→富国→強兵」を踏襲するに至ったからです。

 そこに加えて、薩長側の西郷隆盛(1828~1877)と幕府側の勝海舟(1823~1899)が、冷静で賢い人だったことも大いに影響しています。当時の江戸は、国内最大の都市でした。焼け野原にしたら国家の貴重なインフラを失い、復興するにはコストがえらくかかることがわかっていたのです。クーデタを起こした西郷たちは、貴重なインフラを傷つけることなく、できるだけ静かに幕府が江戸を出ていくことを秘かに望んでいました。“居抜き”希望だったのです。

 逆に「江戸を破壊したろか」と言い出したのは勝のほうです。リーダーである徳川慶喜の命を助けると約束しなければ、江戸の町に火を放ってメチャクチャにしてまうぞ、と脅迫したわけです。こういうところは、勝は本当に腹が据わっていますよね。

 これから新政府を樹立する側にしてみれば、慶喜の首一つより、日本最大の都市のインフラのほうがはるかに大切です。これから銀座の一等地でBARを開こうと思っているのに、前のオーナーに店内をメチャクチャにされて出ていかれては困りますからね。

 加えて、徳川幕府の役人であっても、有能であれば明治政府はしっかり登用していることも重要です。限られた有能な人材を殺したり、放っておくことこそが損失だとわかっていたのです。

 江戸無血開城はそういう駆け引きの観点から見ることが大事です。何も平和主義に基づいたわけではなく、インフラ再建コストの問題がメインです。西郷も勝もきちんと算盤を弾くことができた有能なリーダーでした。

 実は、世界の歴史を見ても、相手の国を滅ぼしたあとに火をつけたり、皆殺しにしたりするのはごくまれなケースです。これからは自国の領地になるのですから、元からあるインフラを活用したいと考えるのは理の当然です。

 1月2日の配信で紹介したペルシャのアカイメネス朝が多民族のダイバーシティ国家になれたのも、征服した国の優秀な人材を根こそぎ登用したからです。「日本の将棋は敵の駒を部下にできるけれど、チェスは部下にできない」と比較されることがありますが、外国でも実は将棋タイプの発想が一般的なのです。算盤が弾けたら当然のことでしょう。

 ただし、フランス革命(1789~1799)は例外です。ルイ16世(1754~1793)やマリー・アントワネット(1755~1793)やロベスピエール(1758~1794)が次々とギロチンにかけられ、2万人近くが処刑された話は、明治維新に比較すると強烈です。ロシア革命でもニコライ2世(1868~1918)をはじめ王族やその仲間が処刑されました。イデオロギーの対立軸が明確なときはたくさんの血が流れるのです。その典型例がアメリカの市民戦争(南北戦争)であることは、以前にも話した通りです。

(連載第10回)
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■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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