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なぜ三菱は巣鴨を買ったのか|門井慶喜「この東京のかたち」#27

★前回の話はこちら。
※本連載は第27回です。最初から読む方はこちら。

 三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、天保5年(1834)、土佐国安芸郡井ノ口村で生まれた。

 ずいぶん田舎だった上、身分は「地下(じげ)浪人」というものだった。半士半農というより実質的に農民である。それでも村の子供たちは寺子屋にかよう習慣があり、弥太郎もそうした。

 弥太郎は、字がへただった。友達にそれを笑われると、

「へたでかまわん。出世したら能書家を雇って字を書かせる」

 とうそぶいた。おなじ理由で、

「そろばんも、へたでいい」

 それでも弥太郎は、安芸郡で一、二をあらそう秀才だったらしい。ことに漢詩づくりの才は群を抜いていて、14歳の春、高知城下へ呼び出され、藩の最高学府である教授館へ自作を提出し、試問を受けた。

 2か月後には藩主・山内豊熙より金一封を賜わったというから試験は合格だったわけで、弥太郎とその両親は、さぞかし鼻が高かったにちがいない。田舎者でも、低い身分の者でも、とにかく読み書きそろばんを学ぶことができ、成績がよければ政権によって賞誉される。徳川300年が築いた最大の国宝はこの広汎かつ開放的な教育制度にほかならなかった。

 弥太郎は「そろばんも、へたでいい」と言ったわりには計数にあかるい人間だった。成長して藩に取り立てられたのもこの方面である。明治維新のときには34歳だったけれども、その職は、大坂商会という藩営の小さな商社(厳密には藩の一部局)の責任者だった。

 この大坂商会がやがて廃藩置県をきっかけに藩の手をはなれ、弥太郎個人のもちものになるところから三菱の歴史が始まるのだが、この経緯は、おなじ財閥でも、たとえば三井とくらべると天と地ほどちがう。三井のほうは何しろ家祖・三井高利が江戸に呉服店・越後屋をひらいたのが延宝元年(1673)。

 あの「現金掛値なし」の越後屋である。ほどなく京や大坂にも店を出した。弥太郎よりも160年ほども前にはもう全国の一等地で一等人気の商売をしていたのである。幕府の御用達にもなった。資本の蓄積はおびただしく、両替商の兼業による金融方面の実績も豊富であり、その上で悠々と明治期に歩み入ったのである。

 まことに大人と子供である。いや、赤ん坊である。その赤ん坊を急激に成長させ、わずか10年そこそこで三井の背中をうかがうまでにしたのだから、弥太郎はよほど忙しかったろう。実際、経営以外のことは何もせず、趣味に没頭した形跡もない。明治維新で成り上がった志士連中がこのんで手を出した骨董いじりとも無縁だったようである。

 文字どおり「仕事ひとすじ」の会社人間。そんな弥太郎の、唯一、趣味らしいものが庭園だった。

 これはけっこう好きだったらしい。井ノ口村の生家では自分でデザインもした。10坪にもみたぬ土地のなかに石をちょうど日本列島のかたちになるよう配したというから気宇壮大ではあるけれど、芸術のほうの才能はどうだったか。あまり恵まれなかったかもしれない。もっとも、弥太郎は、三菱を経営するようになってから、

「事業になやんだら立派な庭園を見に行く。なやみが晴れる」

 という意味のことを言ったという。やっぱり趣味というよりも仕事の一部だったようだ。明治11年(1878)には隅田川の東、当時は漠然と「深川」と呼ばれていた場所に広大な土地を買い、全国の樹石を投じて庭としているけれども、これもまた、はっきりと会社のためだった。

 庭園は「深川親睦園」という名前になった。現在の清澄庭園(江東区)である。弥太郎はここへ毎年、春と秋には社員を呼んで宴をひらいたというから要するに保養施設であるが、この宴席のさい、彼が園内に掲げさせたという規則がおもしろい。

 当時としてはきわめて先進的な酒の飲みかたを示しているのだ。カギカッコは原文。

  一、毎年春秋(はるあき)に社員親睦の目的で酒を置く。「人に敬を失する勿(なか)れ」。

  一、酒を置くのは、歓をつくすためにとどまる。「二汁五菜に過ぐべからず」。

  一、芸妓を呼ぶのは、酒をつがせるためである。「猥褻の具となす勿れ」。

  一、酒量に制限は設けないが、適量を知り、「人に酒を強(し)ゆる勿れ」。

  一、時間厳守。開会も散会も遅れるべからず。

 この5か条をあえて一気に要約するとしたら「ほどほどにしろ」ということか。他人に対しても、料理に対しても、接待の女性に対しても、おのが酒量に関しても。ところがこれとおなじ明治11年に、弥太郎は、もうひとつ広大な庭を購入しているのだ。こちらはどうやら社用というより、仕事を離れて、自分ひとりの風流の場にしようという意図があったようだ。

 それがすなわち東京北郊、巣鴨(文京区)の六義園(りくぎえん)である。現在もおなじ名前で呼ばれている。

 六義園のほうは、深川親睦園とはちがって、或る程度「できている」庭だった。

 庭をつくったのは弥太郎よりも約200年前の人物で、旧幕時代の側用人・柳沢吉保である。吉保はまだ20代前半だったころから、第五代将軍・徳川綱吉により、ほとんど異常なまでの寵愛をあたえられたことで有名だが、その寵愛のしるしのひとつがこの4万6000坪の下屋敷だった。吉保はここへ7年をついやして樹石を入れ、池の水を引き、築山(つきやま)を築き、みずから六義園と命名したのである。

 命名の由来は、『古今和歌集』仮名序の説く和歌の6種の表現形式にある。庭の内容もやはり古今集ほかの古歌にまつわる88の景色を再現したというから凝りに凝っている。和歌のテーマパークみたいな感じ。もちろん将軍綱吉その人をも何度もまねいたにちがいなく、その名園を、200年後に、弥太郎はわがものとしたのである。

 そうして周辺の土地もつぎつぎと買った。旧幕時代には加賀藩前田家中屋敷、津藩藤堂家下屋敷、紀伊田辺藩安藤家下屋敷等だったところである(厳密には藤堂家の土地は宮内省との交換による)。これにより弥太郎のこの土地は2.6倍、いっきに約12万坪にひろがった。

 12万坪といえば、おおむね東京ドーム9個ぶん。途方もない広さである。おそらく当時、漠然と「巣鴨」と呼ばれた地域の半分くらいは占めたのではないか。幕末以来、苦楽をともにした腹心の部下である川田小一郎(のち日本銀行総裁)が、

「あんまり広すぎるが、何に用いますか」

 と聞いたところ、弥太郎は、

「いずれは巣鴨から板橋まで買い上げ、国家の役に立つ仕事をやってみせよう」

 と言ったそうだから、つまり弥太郎にも明確な目的はなかったわけだ。あったらそれを言うはずなのだから。

 ここまで来るともはや庭のためとか何とかを超えて、購入そのものが目的という感がある。弥太郎自身、いっそ土地のほうで自分のもとへ進んで来たかのような錯覚をおぼえたのではないか。どうしてこんなことになるかと言うと、それは、これらの土地が、元来はみな大名の下屋敷または中屋敷であることと関係があった。あの酒宴5か条の「深川親睦園」のほうもやはり久世家、戸田家、松平(右京亮)家といったような大名の下屋敷だったのだ。

 大名の屋敷地とは、建前の上では、将軍より拝領したものである。

 事業のために借りたわけではない。あくまでも君臣関係のしるしなので「地代をよこせ」とは言われない。どれほど所持したところで経済的負担にはならないのである。それが維新後はいわゆる地租改正を経て、自由売買が可能になったかわり、国家へ地租を現金で納めなければならなくなった。

 地租とは、不動産所有税である。その税額はもちろん面積に応じて決まるから、大名たちは、いや旧大名たちは、もはや屋敷地を上だの中だの下だのと2つも3つも持つわけにはいかなくなった。だいいち持つ必要もないのである。そこで生活させる藩士がいないのだから。そういうわけで郊外のものから売りに出したのを、引き受けたのがここでは弥太郎だった。

 弥太郎はここにおいて、純粋に近代的な意味での「地主」になったのである。三菱といえば現在では丸の内のオフィス街があまりにも有名だけれど、丸の内よりも先に、この会社は、こうした郊外買いの経験がじつは豊富だったのである。

 弥太郎は、51歳で死んだ。

 先の「深川親睦園」や六義園の土地を買ってから、わずか7年後のことだった。死因は胃がん。当時としてはめずらしい病気だが、弥太郎は或る時期から、強烈に心労にみちた日々を送っていたらしい。得意の海運事業において三井を中心とした強力なライバル会社があらわれ、消耗戦のような価格競争をしかけて来たのが原因かと思われる。岩崎弥太郎という仕事人間は、仕事に命を奪われたのかもしれないのである。

 死の直前、半月ばかり六義園に滞在した。気分がいい日は椅子にすわり、それを持ち上げさせて庭をまわったとか。

 古歌ゆかりの八十八境をぞんぶんに眺めることができただろうか。いや、きゅうに嘔吐したというから庭どころではなかったかもしれない。結局、弥太郎は本邸へと戻り、そこで息を引き取った。200年前、あの柳沢吉保が、おなじ六義園で5年間ゆっくり隠居ぐらしをしたあとに死んでいることを考えると、何かしら、

 ――近代は、損だな。

 そんなふうにも感じてしまうのである。吉保は吉保でいろいろ苦労があったにちがいないのだが。

 現在、六義園は東京都の所有に帰している。一般公開もされている。私も最近見る機会があった。仮山泉石ことごとく場所を得て、たいへん上品なものだったが、それだけに弥太郎の顔が脳裡にちっとも浮かばないのはわれながらおかしかった。墓所はこの近くにあるという。あの12万坪のどこかなのだろう。

(連載第27回)

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』 『シュ ンスケ!』。東京駅を建てた建築家 ・辰野金吾をモデルに、 江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、 はじまる』。最新刊は『銀閣の人』。
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