見出し画像

保阪正康「日本の地下水脈」|テロに流れる攘夷の思想

「天誅」──維新前夜の尊王攘夷派の合言葉は、なぜ後世のテロで蘇ったのか?/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)

画像1

保阪氏

右翼によるテロリズム

思想家・社会運動家の満川亀太郎が大正7(1918)年に設立した「老壮会」には、国家主義者から社会主義者まで左右を問わず多くの言論人が集い、思想の交差点ともいうべき活況を呈した。その後、老壮会は活動を停止するが、のちの思想家たちに与えた影響は大きい。今日、私たちが漠然とイメージする右翼・左翼という大まかな分類も、老壮会以降に形成されたものである。

老壮会以後、日本の思想の世界は全く新しい局面を迎えた。

左翼には、共産主義という外来の絶対的な思想があった。マルクスの「資本論」は左翼にとって教典ともいうべき重みがあった。さらにはロシア革命(大正6年)によって人類史上初めての社会主義国家であるソ連が誕生したことで、日本の左翼運動は勢いを増し、大正11年には日本共産党が設立された。しかし、社会主義・共産主義運動の拡がりを受けて各地に特別高等警察が設置され、大正14年に治安維持法が制定されると、弾圧を受けて左翼運動は急速に退潮してゆく。

一方、右翼の側は、その信条は様々ではあるが、「天皇絶対主義」に集約される。だが、当時の右翼は、世界基準で思想と呼べるほどの堅牢な体系的論理を持つまでには至らなかった。逆に言えば、明確な思想を持たない運動家でも、「天皇陛下万歳」を叫んでさえいれば国家主義者を自称していられる余地があったとも言える。

老壮会の解散以降、こうした思想性の欠如は、暴力性を帯び、陰惨なかたちで日本社会に影響を与えるようになる。思想や論理を持たない右翼によるテロリズムが横行しはじめたのだ。テロは次第に国家、軍部におもねる色彩も帯びていった。

テロの檄文をつぶさに検証していくと、社会に不満をもつ若い世代を結社が動かしてきた構図が見えてくる。また、その文言からは、明治維新前後に活発化した「攘夷」の地下水脈が見え隠れすることに気づく。そこで今回は、近代以降の右翼によるテロの系譜と、その底流にあるものを詳しく見てみたい。

「天誅」という言葉

近代日本における右翼のテロのはしりとして、安政7(1860)年、徳川幕府の大老、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」がある。

井伊は安政5年に大老に就任後、開国に反対していた孝明天皇の勅許が得られないまま、日米修好通商条約の締結に踏み切った。これが尊王攘夷――天皇絶対主義の下での鎖国の継続――を目指す武士や公家の激しい怒りをかった。さらに当時、徳川第13代将軍家定の後継問題を巡り、水戸藩主徳川斉昭の子である一橋慶喜を推す一派と、紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)擁立を目ざす一派が対立していた。結局、安政5年に慶福が14代将軍となったのだが、直弼は一橋派の弾圧を進めるとともに、尊王攘夷論者の粛清も進めた。いわゆる「安政の大獄」である。

こうした井伊の動きに反発した水戸藩の脱藩浪士17人と薩摩藩士1人が、江戸城の桜田門外で彦根藩の行列を襲撃し、直弼を殺害したのだ。将軍の後継問題が暗殺の背景にあるが、開国路線が直弼暗殺の大きな理由でもあった。

この事件によって幕府の威信は落ち、安政の大獄で弾圧された一橋派が盛り返す。その後、暗殺という手段を用いて開国派を排除する動きが攘夷派の中に公然化していく。井伊の命を受けて尊王攘夷派を取り締まった役人などが標的とされた。とりわけ京都を中心に活動していた土佐藩の岡田以蔵をはじめとする尊王攘夷派の志士たちは「天誅」と称する人斬りを多数行い、開国派に恐れられた。天誅思想の広がりである。

大久保暗殺の斬奸状

維新以降のテロの中で歴史を変えた事件としては、明治11(1878)年の大久保利通暗殺事件がある。麹町区麹町紀尾井町清水谷で、島田一郎ら不平士族6人が大久保を斬殺した「紀尾井坂の変」である。

大久保は同じ薩摩出身の西郷隆盛や長州出身の木戸孝允らとともに、200年以上続いた幕藩体制を終わらせる原動力となった。明治2年の版籍奉還により大名が治めていた土地と人民を朝廷に返還させた。その2年後の廃藩置県では旧大名を東京に移住させ、中央から役人を派遣して各地域を統治させた。こうして近代的な中央集権国家の枠組みが構築された。

島田らは暗殺後に斬奸状を持って自首したが、そこには大久保の5つの罪とする内容が書かれていた。要約すると以下の通りである。天誅思想が根幹にあることが窺われる。

〈その1、議会を開かず、民権を抑圧し、以て政治を私物化した罪

 その2、法令を乱用し、私利私欲を横行させた罪

 その3、不急の工事、無用な修飾により、国財を浪費した罪

 その4、忠節、憂国の士を排斥し、内乱を醸成した罪

 その5、外交を誤り、国威を失墜させた罪〉

岩倉使節団に参加し、明治4年11月から明治6年9月まで欧米を視察した大久保は、諸外国の制度に学んだ上で、近代日本をどのように建設するか、3段階に分けてのビジョンを持っていた。それは伊藤博文や山縣有朋に引き継がれるのだが、そうした外交姿勢が批判されていることが興味深い。

明治22年には、やはり外交を引き金とするテロが起きた。外務大臣の大隈重信が爆弾で狙われた「大隈遭難事件」である。事件の背景をまず見てみよう。

当時の日本政府は、幕末に結ばれた欧米諸国との不平等条約改正に力を入れていた。長州出身の井上馨外務卿(のち外務大臣)は、不平等条約で失った関税自主権の回復と領事裁判の撤廃による主権の一部回復を目指した。要点は、(1)2年以内に外国人の営業活動や居住の自由を認める、(2)外国人の判事を任用する、(3)西洋式の近代法を2年以内に制定する、を条件に領事裁判を廃止し、輸入税率を引き上げるというものであった。

井上はこれを実現させるために、日本の近代化を諸外国にアピールしようとした。現在の東京都千代田区内幸町に「鹿鳴館」を建設。政府高官らが内外の男女を招き、西洋風の舞踏会などを開催した。これが「鹿鳴館外交」として知られる。

ところが井上が提案した外国人の内地雑居や外国人判事任用には、政府内から激しい反対があった。土佐藩出身の谷干城・農商務大臣は改正案に反対して辞職。政府の法律顧問でフランス人のボアソナードも改正案に反対した。また急激な西洋化政策に対する反発は民間側からも激しく、井上は辞職に追い込まれた。

井上の後に外務大臣となった佐賀出身の大隈も、条約改正を進めようとした。税率は井上案と同じで、法権回復については外国人判事の任用を大審院(当時の最上級審の裁判所)に限ることとした。こうして明治21年にはメキシコとの間で対等条約締結に成功した。

日本に流れる「攘夷」の地下水脈

しかし翌年、イギリスの新聞にこうした条約改正案の内容が報じられると、国内では再び広く反対運動が起こった。そして同年、大隈は福岡藩出身の不平士族、来島恒喜が投げた爆弾で右足を失う重傷を負ったのである。来島はその場で短刀によって自らの喉を刺し、自殺した。来島は国権主義的政治団体、玄洋社に所属していた。

来島の動機は、以下のようなものであった。

「来島の大隈を刺さんとせしもの、一の私怨、私恨あるにあらず、又私人来島恒喜が私人大隈重信を殺傷せんとしたるに非らず、来島は自ら図りて遂に策の之に出ずるにあらずんば到底大隈の反省を促し能わざるを思い、以て与論は大隈の条約改正案に反対なるを示さんが為に之を敢行したるなり、その主とする処は大隈の条約改正案を阻止するにありたるなりき、その要とする処は国威の失墜を未然に防止せんとするにありたりき、来島の見る処はただに大隈のみにあらずして其の何人たるを問わず、国家を誤るものを正さんと欲するに在り(後略)」(『玄洋社社史』。荒原朴水著『増補 大右翼史』に掲載)

来島は、個人的な怨恨ではなく、「国の威信」を守るために大隈を襲ったという。その論理は大久保暗殺事件の「斬奸状」と共通するものがある。「国威」が汚された、それを守ろうという発想は、幕末に猛威を振るった攘夷に連なる考え方と重なり合う。この発想を行動に移すときに「天誅」という語がそのバネになっていると言っていいだろう。

攘夷は、近代日本におけるナショナリズムの底流をなしていると考えられる。かつて司馬遼太郎は「近代日本は、攘夷の思想を未消化、未分化のまま残してきた。地下水脈にはずっと攘夷の思想が残っている」と指摘した。長い鎖国時代に培われた攘夷の思想は、欧米化が急激に進められた維新後も容易には無くならず、日本人の中に脈々と流れ続けた。そして、その地下水脈は常に噴出口を求めていて、この社会の底流にうごめいている。

それは現代社会でも変わらない。在日外国人排斥を掲げる人物が昨年の東京都知事選に出馬して約18万票を集めた現象などもその一種とみられる。

大正時代に入ると、政治家や財界人を狙ったテロが続発した。たとえば大正10(1921)年に起きた原敬首相暗殺事件がある。

原は南部藩出身の非藩閥政治家で、衆議院の第一党である立憲政友会の総裁だった。寺内正毅内閣が米騒動の混乱で退陣した後、原は大正7年に総理に就任。すると原は、藩閥政治に終止符を打つことと、議会政治による国家運営を目指す。

原敬暗殺事件の謎

原内閣は、陸海軍、外務大臣を除く全ての閣僚を政友会から選出した。当時選挙権は直接国税を10円以上納めた25歳以上の男性のみにあり、有権者は98万人。全人口の2.2%でしかなかった。限定的とはいえ、原内閣は選挙による民意を反映した政権でもあった。

原内閣は国民の人気が高く、第一次世界大戦に伴う戦時好景気も追い風となった。党勢は拡大し、貴族院(皇族や華族、勅任議員からなる。有権者が選ぶことは不可能)にまで政友会の影響力が及ぶようになった。

さらに原は、軍部を政治の支配下に置くことを考え、尽力した。台湾総督を軍人から文民に変更。ワシントン海軍軍縮会議に参加する加藤友三郎海軍大臣の代理として海軍大臣を自ら代行した。これは戦前の日本において文民統制が実現した唯一の瞬間とも言える。

しかし、大戦終結後の大正9年には1転して戦後恐慌となり、原内閣の政策は行き詰まる。政党の力が伸びるにつれ、政党間の争いは激しくなり、利益誘導型政治や「党利党略」の弊害が目立つ事態になる。

また、当時は納税資格を撤廃した「普通選挙」を求める運動が広まっていた。のちに首相となる犬養毅や、「憲政の神様」と称された尾崎行雄らが議会で普通選挙の実現を政府に迫っていた。原は直接国税の条件を3円以上と大幅に引き下げたものの、資格要件を撤廃した普通選挙は時期尚早としてしりぞけた。そうした中、鉄道職員であった中岡艮一(こんいち)が東京駅で原を短刀で襲撃、原はほぼ即死した。

原の暗殺は、いまだに謎が多い。犯人の中岡は当時19歳で、大塚駅の転轍手(てんてつしゅ)だった。原を恨む理由は全くない。しいて言えば、大塚駅に橋本という国家主義的な考えを持つ助役がいた。橋本が原の批判を頻繁に口にしていたことから、橋本の教唆が疑われるが、裁判は一切を明らかにしないまま終了した。

この裁判は、現役首相の暗殺であるにもかかわらず、全ての疑問点を洗い出していない。司法界を含めての不透明な動きがあったと言われているが、形としては一少年の思い込みという構図になっている。攘夷も天誅も感じられない非日本型のテロというべきかもしれない。

結局、中岡は死刑ではなく無期懲役となった。そして昭和初期に続いた恩赦で刑が軽減され、昭和9年に釈放された後、満州に渡った。「満州日日新聞」という現地紙を調べると、昭和13年に「中岡艮一君結婚」と書いた小さな記事が出ている。中国人女性と結婚したという意味だ。戦後は帰国し、長く生きた模様だ。

こうした経緯をみると、国家的な枠組みのなかで原は暗殺されたのではないかとの仮説が浮上する。中岡は誰かの教唆を受けて原を暗殺し、釈放後もその助けを借りて満州へ行ったのではないか――。関東軍の特務工作を担っていた甘粕正彦(満州映画協会理事長)や玄洋社の総帥、頭山満らの勢力の影響を示唆する説もあるが、謎のままである。

画像2

原を暗殺した中岡艮一

またも「天誅」が登場

ここから先は

4,178字 / 1画像
noteで展開する「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。同じ記事は、新サービス「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。新規登録なら「月あたり450円」から。詳しくはこちら→ https://bunshun.jp/bungeishunju

文藝春秋digital

¥900 / 月

月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください