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塩野七生 エライ人はやっぱりエライのよ 日本人へ221

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文・塩野七生(作家・在イタリア)

実は、ローマでの1カ月の入院生活にもその後の自宅でのリハビリにも耐えられたのは、一にも二にも本を読む毎日であったからだ。入院中とて個室だから備えつけのテレビで番組を選ぶのは自由でも、ニュースを見るのは日に1度だけ。それ以外はクラシック音楽か動物のドキュメンタリーを見るぐらいで、本を読む時間は充分にあった。

と言っても、横文字はしんどいからタテ文字。つまり日本語で書かれた本。それも日本の文学で鴎外、漱石、荷風、谷崎、芥川ときて中島敦どまりだから、戦前の日本の小説。既に読んだものばかりだが、小林秀雄の言ったような、1度目は意味を受けとり2度目は考える、などというまっとうな読み方ではない。読みながらも次々とわいてくる空想を愉しむという、日本文学研究者が知ったら怒るであろうフラチな読書法なのだ。何しろ、これら文豪たちは女をどう見ていたかとか、文豪たちとおカネの関係とかならば書けるかも、などと思いながら読んでいるのだから。

とはいえ、歴史への接近の道となると、大別して3つに分れる。第1は重箱のすみを突っつくと言われるやり方で、大学の先生あたりが得意とする方法。これはこれで歴史研究上は重要な作業であるし、このやり方でとおしているかぎり学者と認めてくれるという実利もある。

第2は、次の一文で言い換えることも可能な方法。「いかなる偉人も召使の眼から見ればタダの人」とする考え方だから、歴史上の偉人であろうが天才であろうが、召使の知的水準まで引き降ろしてきて評価を下す、という考えに立つ。このやり方をとる人は日本には多く、例をあげれば、アレクサンダー大王をマンガにした作品。あそこでは偉人と読者の間をつなぐ役として、召使ではなくて少年を登場させている。タダの人は少年というわけ。

それで第3だが、第2とは反対の考え方になる。「いかなる偉人も、タダの人でしかない召使が見たからタダの人にしか見えなかったのだ」とする考えなのだから。しかし、この考え方には重大な欠陥がある。召使や少年を介在させないために天才と凡才の間が開いてしまい、結果としてタダの人の多い読者は偉人の一生などは読まなくなる、というわけ。いかにアレクサンダーの真のスゴさは少年あたりにわかってたまるか、と確信して書いたとしても、その本は売れないから出版社も出さなくなるということ。ベストセラーは夢にしても適度な数ぐらいは売れないと、歴史物語作家を職業にするわけにはいかなくなる。この難問は、一時私を考えこませた。

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