中野信子様

アブない美意識――生き残るために「汚染」を「排除」する 中野信子「脳と美意識」

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 誰かを裁く、という行動がある。

 新型ウイルスの検査を拒否した人へのバッシングも過激だが、相変わらず、不倫が報じられた芸能人へのネガティブな反応もすさまじい。

 この人たちの脳では、何が起きているのだろうか。

 そもそも、制裁――サンクションを加えたくなる衝動、を感じたことのない人はめったにいないだろう。自分にはそんな感情がない、と言い張る人もいるが、まあ単に忘れてしまっているか、自分をよく観察できないタイプなのか、そんな感情を持ったことがあると他人には知られたくないから隠している/黙っているのか、いずれかだと推察される。  

 まず、ルールを破った人に対して制裁を加えることで、得をする人は一体誰なのかを考えてみよう。

 有り体に言って、制裁を加える本人ではない。むしろ、制裁を加える本人は、その制裁に対する仕返し(リベンジ)と周囲からの悪評のリスクを負わなければならないため(仮に匿名であっても特定される可能性は常に付きまとう)、客観的に見れば、制裁というのは、さほど割に合う行動ではなく、合理的な選択とは言えない。また、制裁に掛かる労力、そして時間的コストを支払う必要があるという問題もある。

 個人という単位で見たときに最も利得が高くなるのは「何も見なかったことにする」というチョイスである。制裁そのもの、リベンジ行動への対応、悪評への応答を考慮した場合、アクションを起こすこと自体が時間と労力の損失になるからだ。

 では、制裁を加える本人にもたらされる利得は何か。リベンジのリスクがあるにもかかわらず、それを行うのは何らかのインセンティブがあるから、と考えざるを得ない。しかし、想定できる利得というのは、実は制裁を加える本人の脳内に分泌される報酬(ドーパミン)だけだろう。

 何の関係もない人をバッシングして何の得があるのか、とよく言われるが、脳内の報酬という得があるのだ。むしろその報酬しかないというべきか。

 個人という単位では、まったく利得がないばかりか、損失が大きくなるかもしれない行動なのに、わざわざどうして、ドーパミンを分泌させてまでやらせるのか。生物としてはどんな目的を達成するために、そんなことをさせる必要があったのか。自ら(ドーパミンで誘導してまで)損失を被りたがる個体を出現させることで、利益を得る人たちは誰なのか。

 それは、制裁を加える本人を除いたすべての集団構成員となる。

 つまりこういうことだ。「不謹慎」とは協力構造を「汚染」するもの。ルールを逸脱している「汚染」を排除しなければ、集団全体に感染してしまう恐れがある。ルールの無効化をもたらし、ひいては集団そのものを崩壊させてしまうかもしれない。

 だから、崩壊の引き金になりかねない「不謹慎」=「汚染」を排しておかねばならない。もちろん、それは一人でやっても意味はなく、集団内の個体が協力して汚染に対処する必要がでてくる。これは、拙著でも触れているが、すべての集団で起こり得る現象だ。そしてこの現象は、危機的な時に強まると考えられる。

 さて、危機が起こると、人々にはどんな影響があるのか。危機的な状態が迫ってくれば、人々は互いに互いを守ろうとして、より親密な交流が活発になり、強い絆を構築するためのホルモン、オキシトシンの分泌は盛んになる。つまり、集団を守る働きが高まっていき、これが「汚染」狩りにつながっていく。

 しかし、実際にその行為によって苦しんだ人たちが、本当にそんな制裁を望んでいるかといえば、恐らくそうではないだろう。

 声を挙げるのは、意外にも当事者でない場合が多いようだ。例えば実際に自分が不倫されたわけでもない人が、あいつは許せない! 不謹慎だ!といって怒る。ただ想像して、その行為を不謹慎だと判断したということになる。勝手な想像とは恐ろしいものだ。むしろ他人のことになど首を突っ込まず、自分のためにだけ生きていてほしいと思うが、この一文すらも介入的であるかもしれない。

「不謹慎」=「汚染」の検出は、人々にそれを判定する規範がなくては不可能である。ただ、規範は使われ方次第で、どんな人間でも断罪し得る、恐ろしいものともなる。

 例えば、規範意識が高いところほど、いじめが起きやすいという。規範意識から外れた人のことはいじめてもいい、という構造ができてしまうからだ。あなたが先にルールを破ったのだから、あなたのことは排除しても構わないはずだ、と。

 男女間にも同様のことが言えて、決めごとの多い夫婦ほど離婚しやすい傾向にあるのだという。それは、二人で決めた「規範」からひとたび相手が逸脱すると、その行動を取った相手を許せなくなるからだ。

 密告制を伴う恐怖政治は互いに断罪し合う仕組みによって、人々をそれぞれの規範意識で攻撃させ合い、分断し、コントロールする。誰もが誰もを許さない社会が構築されたら、どこで息をすれば良いのだろう。

 ネットなどで第三者がさしたる根拠もなく他人を断罪してしまえるのは、正義の執行自体が快感であることに加え、他人を「あいつはダメだ」と下げることによって相対的に自分の置かれている階層が高く見えるからでもある。さらに、いち早く糾弾する側に回ることで、他者から叩かれる可能性が低くなる、という防衛的な意味合いもある。

 誰かを叩く行為というのは、規範意識に則って汚染を排除するという重要な社会的機能の一つなのだ。そして本質的にはその集団を守ろうとする行動である。総員の善意と美意識が集積した末の帰結ともいえる。だがそれが過熱したときが恐ろしい。美意識の暴走によって心を蝕まれた人々が互いに攻撃し合うさまは、新型ウイルスのパンデミックよりもずっと黙示録的に見える。

(連載第8回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。
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