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「なぜ隅田川には橋がなかったか」 門井慶喜「この東京のかたち」#16

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※本連載は第16回です。最初から読む方はこちら。

 東京という街について考えていると、ときどき欲求不満になる。

 遠くへ旅行できないことのそれにも似ているだろうか。何しろ街づくりの始まったのは天正18年(1590)、徳川家康の関東入府のときであり、それ以前のころのことには想像の手がなかなか届かない、というより、想像の材料がないのである。

 いっそのこと、古代、中世の日本には、

 ――江戸など、存在しなかった。

 そう言いきってしまいたい衝動にも駆られたりする。そんななか貴重なのは、平安初期の歌人・在原業平が隅田川のほとりに立って(という設定で)、こんな歌を詠んでくれたことだった。

  名にし負はばいざ言問はむ都鳥
  我が思ふ人は有りやなしやと

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 『古今和歌集』羈旅歌。この歌のなかの「都鳥(みやこどり)」が、いまの鳥類図鑑でいうユリカモメであることは、知っている人も多いだろう。ユリカモメが東京都の鳥に指定されているのも、新橋―豊洲間を運行している新交通システムの愛称が「ゆりかもめ」であることも、つまりはこの歌のゆかりであるわけだが、しかしあらためて考えてみれば、この鳥は、ないしこの歌は、ほんとうに都民のこんな優遇に値するのだろうか。

 実際、私はやや疑問である。なぜならこの一首を詠んだとき、業平は、隅田川または東国一般をほめたのでは決してなかった。それどころか、

 ――これだから田舎は。

 と馬鹿にすらしていただろう。その証拠に……と、ここは『古今和歌集』の詞書を引くのもいいが、それに材を採ったと思われる『伊勢物語』のほうを引こう。平易だから訳はつけない。

 なほゆきゆきて、武蔵国と下総国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

 要するに、京都という正真正銘のみやこから来た業平たちが、はじめて見る鳥を「都鳥だ」と言われて、

 ――なーにが「みやこ」だ。そんなら京にいる彼女の様子を知らせてみろ。

 と鳥をいわば挑発した。それが一首の真意なのだ。挑発したのは「渡しもり」、または東国の住民一般に対してだったかもしれない。

 ちょうど現在の東京都民が、千葉県袖ケ浦市の東京ドイツ村へ行って、

 「東京じゃないし」

 と笑うようなものだろうか。

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 いったいに在原業平というのは、平安時代の太宰治みたいな人だった。自虐とみせかけて他人への精神的攻撃をおこなうその手つきは天才としか言いようがなく、こんな意地悪な解釈も、おのずから許されるのではないだろうか。

 ついでに邪推をかさねるなら、業平たちは「すみだ河」という川の名前にも違和感があったかもしれない。こんな草ぶかい土地をながれる、むやみと大きい濁り川が、よりにもよって「澄み」だってさ。

 とにかく隅田川は、そういう田舎の大河だった。あるいは手つかずの大自然だった。時代がくだり、鎌倉・室町の世になっても事情がやっぱり変わらなかったらしいことは、源頼朝のエピソードを見てもわかる。エピソードと言うにはあまりにも小さな風景だけれども、この鎌倉幕府の創始者は、じつはこの川をなかなか苦労して渡っているのだ。

 頼朝は治承4年(1180)8月、打倒平氏の旗をあげた。
 蟄居先の伊豆から西進して、京にのぼろうとした。けれども相模国石橋山であっさり負けて、安房へのがれた。ところが安房でふたたび味方があつまり、かえって勢力が増したので、武蔵国へ入り、さらに鎌倉へ入ることにした。

 頼朝による本格的な東国支配、全国支配はここに端を発するわけだが、そのひとつ前、武蔵国へ入るときに、頼朝はつまり隅田川のほとりに立ったわけだ。

 彼はその渡河にあたり、たくさんの釣り船や商人船(あきんどぶね)をならべさせたという。いわゆる浮橋または船橋である。さぞかし足もとがぐらぐらしたのではないか。
 人や軍馬はともかくとして、駄馬(荷物をはこぶ馬)がその上へずかずか乗ったのでは、事によったら2、3艘くらいは沈んだかもしれない。まことに危険な旅だった。頼朝がこんな思いをしたということは、逆にいえば、当時の隅田川には本格的な橋はなかったことになる。

 あったとしても、せいぜいが簡素な土橋か何かだったのだろう。当時のわが国にはそんな高度な水上建築技術はなかった……わけではない。ちゃんとあった。おなじころ西日本では、川どころか海の上にしっかりと大鳥居を立てた上、寝殿造の社殿まで建てている例があるのだから。

 その鳥居および社殿とは、そう、安芸国宮島の厳島神社のそれである。海はもちろん瀬戸内海。さかのぼれば、おそらく縄文時代くらいから、畿内と九州をむすびつける日本水運の大動脈だった。

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 戦前のものと思われる、隅田川の絵はがき(筆者所有)

 私はかねて、

 ――海の国道1号線。

 と呼んでいる。

 釣り舟も、商人船も、それこそ数かぎりなく行き交っていたにちがいないが、それよりも多いのは荷船(にぶね)、つまり貨物船だったろう。

 早い話が、古墳時代である。いま奈良県や大阪府には巨大な古墳がたくさん残っているけれども、あのなかの石棺にはしばしば明らかに北九州産の石材がもちいられているという。

 輸送経路は、瀬戸内海しか考えられない。どんな形状の船だったのか、どんなふうに石を積んだのかは知るよしもないけれど、とにかく私たち日本人は、この海を、海というよりはむしろ運河にちかい何かとして利用してきたのである。

 隅田川はただ単に、交通量が少なかっただけだろう。だから恒久的な橋梁がなく、頼朝はぐらぐらと浮橋ないし船橋の上を歩かなければならなかった。まだまだ田舎の大河だったわけだ。

 そういう隅田川が、江戸時代に入ると、とつぜん都市河川になるのである。

 きっかけが天正18年(1590)の、徳川家康による関東入府であることは、これはもちろん疑問の余地がない。家康は首都を江戸とさだめた。そうして彼は、それにともない、当時のことばで、

 ――瀬変え。

 という、一大土木工事をおこなったのである。

 つまりは川のねじまげである。理由は、おもにふたつだった。ひとつは洪水防止のため、もうひとつは水運網の整備のため。対象となるのは、利根川と荒川。

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 その工事はこんにち、それぞれ、

 利根川東遷
 荒川西遷

 などと呼ばれている。もともと利根川と荒川は、おなじ水系に属していたのだ。

 利根川のほうは群馬山中の水源からまっすぐ南流して東京湾へそそいでいたし、荒川のほうは埼玉の西部に端を発し、東へながれて利根川と合流していた。

 いうなれば、もつれた2本の糸である。家康はそれをほどいて別々の川にした上で、利根川はぐいと東へまげて、鹿島灘へそそぐようにした。

 荒川はひとり南流させて、江戸の市中へ引きこんで、東京湾へこぼした。この荒川の下流部こそ、すなわち江戸時代の隅田川なのだ。またの名を「大川」とも呼ばれていたことは、時代劇や落語でもおなじみだろう。くりかえすが「田舎の大河」が、とつぜん都市河川になったのである。

 それはまさしく江戸という街そのものが無から首都になったのと軌を一にする出世だった。そうして、江戸の人口は激増した。ロンドンをしのぐとか、しのがないとか、いろいろ説があるけれども、少なくとも100万人をこえたのは確かなようである。彼らはこのもっとも身近な、もっとも大きい、しかし生活感情の上では大きすぎるところのない手ごろな川に、ひじょうに多くを期待した。

 その期待に、隅田川はけなげにこたえた。ざっと挙げるだけでも、その役割は、

1 外港の一部(東京湾に直結)
2 運河
 2‐1 貨物輸送路
 2‐2 旅客輸送路
3 漁業の場
4 災害時の放水路
5 避暑地(夏の納涼船)
6 情緒の対象
 6‐1 文学の材料
 6‐2 美術の材料

 と、あまりにも多すぎる。およそ人間が川というものに押しつけることのできるすべての仕事を押しつけている観があり、ほとんどかわいそうになるくらいである。各項についていちいち詳説することはしないけれども、たとえば「2‐2 旅客輸送路」に関しては、私たちは、猪牙船にのりこんで吉原へ向かう通人のすまし顔を思い浮かべてもいいだろう。

 また「6‐1 文学の材料」に関しては、歌舞伎等における『都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)』などのいわゆる「隅田川もの」を思い出してもいいだろうし、あるいは、これは近代小説だが、永井荷風『すみだ川』や池波正太郎『鬼平犯科帳』などを読みなおすのもおもしろい。

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吾妻橋から隅田川を眺める池波正太郎

「6‐2 美術の材料」の代表は、もちろん葛飾北斎「隅田川両岸一覧」だ。こんなふうにさまざまな目的で川を酷使する江戸っ子たちの態度は、さながら中世以前の日本人の、あの瀬戸内海に対する態度にも似ているだろう。あれもたいへんなものだった。(貨物輸送については前述したが、ほかにもたとえば、文学の面では『源氏物語』がある。紫式部が主人公・光源氏に自粛生活を送らせたのは、須磨、明石という瀬戸内海ぞいの街だった。)隅田川という水の道は、いうなれば、江戸の瀬戸内海なのである。

 とすれば、江戸の国道1号線とも呼び得るだろうか。こうした歴史の反映なのだろう、こんにち隅田川の沿岸は、どこか雑多な印象がある。高層ビルあり、むかしながらの工場あり、マンションあり、下町ふうの商店あり。

 この風景を、あの在原業平が見たらどう思うだろうか。幸か不幸か、そこにはほかならぬ業平の歌から採ったにちがいない、

 ――言問橋(ことといばし)。

 という名の橋がかかっている。

 その上を、エンジン音も高らかにバスや車が行き交っている。やっぱり、

 ――あずまえびすは、風情を知らぬ。

 などと馬鹿にするかな。でも少なくとも源頼朝は満足するのではないか。何しろ言問橋は浮橋ないし船橋ではない。頑強な近代的橋梁である。

(連載第16回)
★第17回を読む。

門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。
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