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ゴダール「安楽死」の瞬間 宮下洋一

「良い旅を」——巨匠の最期を見届けた人物の証言/文・宮下洋一(在欧ジャーナリスト)

ジャン=リュック・ゴダール ©時事通信社

「幸福なまま逝かせてほしい」

老人がコップを手に持つと、部屋にいた夫人と友人、そして看護師の三人は、彼に優しく囁いた。

「ボン・ボワヤージュ(良い旅を)」

男はその声に反応した。

「メルシー・ア・トゥス(ありがとう、みんな)。この最期を実現してくれて……」

これが世界の映画史に革命をもたらしたフランス映画界の巨匠、ジャン=リュック・ゴダールの最後の言葉である。

2022年9月13日、ゴダールはスイス西部ボー州ロールにある家で安楽死を遂げ、91年の生涯に幕を閉じた。

このとき彼は、不治の病に侵されて死に直面していた、というわけではない。ではなぜ、ゴダールは死を選んだのか。フランスの日刊紙『リベラシオン』を始め、各国の新聞やウェブメディアは、映画界の巨匠が安楽死した理由について、「病ではなく、人生に疲れていた」と報じた。世界中に衝撃が走ったのは、当然のことだった。

これまで私は、世界各国で安楽死の現場を訪ねてきた。過去に2度、ゴダールと同じように安楽死したイギリス出身の老婦人を看取ったこともある。その一人が語っていた心情を、今でも忘れることができない。

「満足のいく人生を送ってこなかったら、もう少し長生きしようと思うかもしれない」

「これから先、私は苦しんで生きるだけ。幸福なまま逝かせてほしい」

悔いのない人生を送ってきたからこそ、口にできた言葉だと思った。2人の老婦は悲しむ表情を見せることも、ためらうこともなく、点滴の致死薬を体に流し込み、わずか20秒で息を引き取った。ゴダールも、こうした思いだったのか。

映画『勝手にしやがれ』(1959年)や『気狂いピエロ』(1965年)など、ヌーベル・バーグ(新たな波)を巻き起こした旗手の最期は、国内外の人々に大きな衝撃を与えた。その功績を称える者たちの数は、計り知れない。

しかし、彼が死期を早めた理由とそれを受け入れた団体、そして、どのように息を引き取ったのかを知る人は少ない。映画監督が亡くなってから約3週間後、私はスイス西部の都市ジュネーブに飛んだ。そこで出会ったさまざまな関係者が、ゴダールの描いたエンディングについて、世界で初めて明かした。

わずか1週間前に手続き

ジュネーブに到着した翌日、私は同市内に本部を置くスイス最大の自殺幇助団体「エグジット」のフランス語圏支部を訪ねた。同支部の共同会長の一人であるガブリエラ・ジョナン会長(55歳)と面会の約束を取り付けていたのだ。

エグジットは1982年1月に結成された世界初の自殺幇助団体で、ドイツ語圏・イタリア語圏支部(チューリッヒ)とフランス語圏支部(ジュネーブ)のふたつがある。会員数は、それぞれ14万2233人、3万1070人だ。

ゴダールがどの団体を通じて亡くなったのか、私がエグジットを訪問した時点では、まだ報じられていなかった。しかし、これまでスイスにおける安楽死の取材を重ねてきた私は、1970年代からのスイス在住者で、フランス国籍を有していないゴダールの死にかかわったのは、この団体だと確信していた。ゴダールがフランス語を母国語としていたことからも、必然的に割り出されたのがフランス語圏支部だった。実際、彼は安楽死を遂げるわずか1週間前、エグジットに連絡を取り、死ぬ日を事前にプログラムしていたことがわかった。

ゴダールが選択した方法は「自殺幇助」と位置づけられており、現在はスイス、ドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカの一部の州で容認されている。患者自らが致死薬の入った水を飲むか、同じ劇薬が入った液体を点滴から体内に流し込むかの二者択一だ。重要なのは、医師がその場に介入せず、あくまでも患者自身が実行し、自殺しなければならない点だ。ゴダールは、自らの手で致死薬を飲み、自殺したといえる。

一方、オランダ、ベルギー、スペイン、カナダ、コロンビア、ニュージーランド、オーストラリアの一部では、自殺幇助もあるが、大半は「積極的安楽死」が行なわれている。これは医師が注射器に入れた致死薬の液体を直接患者に投与し、死に至らせる方法で、前段の国々では、この積極的安楽死は殺人罪になる。

どちらも医療の介入により、死期が意図的に早められる行為であることから、特に区別が必要でない限り、私は「安楽死」という言葉を使うようにしている。

安楽死を制度として認めた国々の従来の目的は、「回復の見込みがなく、耐えがたい苦痛」を抱えた末期癌患者や神経難病患者らの「死ぬ権利」を尊重し、彼らが望む安らかな死を実現することだった。

ところが近年、その適用範囲が拡がりを見せ、法の拡大解釈に歯止めがかからなくなっている。まだ生きることが可能な高齢者の安楽死を認める動きが顕著になりつつあるのだ。死に直面していたわけではないゴダールのケースも、その典型といえよう。

複合疾患だったゴダール

「ゴダールさんは死が差し迫っていなかったと思うのですが、それでも自殺幇助を受けることができたのはなぜですか」

私の問いに、エグジットのジョナン会長は、落ち着いた表情で、こう答えた。

「ゴダールさんは、確かに癌患者のような終末期の状態にはありませんでした。ですが、体中に痛みを抱え、体力の消耗も激しかったようです。(生きていくためには)他人の力が必要でした。彼は特に、意識がはっきりしている間に逝きたかったのです」

安楽死の要件のひとつに、「本人の明確な意思」というものがある。この意思がなければ、たとえ、不治の病や苦痛など、そのほかの要件が揃っていても、安楽死を実現することはできない。仮に、エグジットに登録したとしても、認知症が進んでしまえば、当人の明確な意思とは見なされず、死ぬことができなくなるのだ。ゴダールがもっとも恐れていたのは、この意思表示能力を失ってしまうことだったようだ。

ジョナン会長は「2014年以降、高齢に基づく複合疾患も、(癌のように)自殺幇助を受けることができる病のひとつに含めることになった」と、エグジットの方針を説明した。スイスやオランダでは、ゴダールのように複数の疾患に苦しむ高齢者の安楽死が増加傾向にあるという。エグジットでは、2019年に「複合疾患を持つ高齢者」134人が安楽死で亡くなっている。それ以前まで常に最多の割合を占めてきた、末期の「癌患者」122人を上回る数字が出ていたのだ。

ジョナン会長が続ける。

「ここ数年、複数の疾患を持つ高齢者の会員が増えています。これは、終末期を迎えた人々とは限りません。心身の衰弱によって、命の終え方だけは自分で決めたいとの思いから、エグジットに連絡を取ってくるのです。彼らは、死の選択を持ちたいのです。そして何よりも、自らの人生の指揮を最後まで執りたいと思っているのです」

命の終え方を自分で決めたいと考える高齢者が多いことは、世界共通の事実かもしれない。以前、私がオランダで安楽死した男性について取材した際、その男性も「私が我が運命の支配者、私が我が魂の指揮官なのだ」というのが口癖だった、と家族が話していた。

特別扱いを嫌っていた

エグジットの事務所を出てから、私は、ゴダールの自宅がある町に電車で向かった。ジュネーブからレマン湖沿いを北におよそ20分。人口約6000人の町、ロールに到着した。駅から湖に向かって10分ほど歩いた先に、ゴダールが自宅兼アトリエとして住んでいた家がある。

ヌーベル・バーグの旗手は、最後の作品『イメージの本』(2018年)を製作し終える時まで、この家にこもり、絶えず仕事をしていた。

このオレンジ色の一軒家の前には、一般人が添えた花が置かれていた。窓はすべて閉ざされていて、入り口のガラス窓は汚れていた。まるで頼れる人がいない孤独な生活を送っていたような佇まいだ。

この一戸建ての家の半分には、別の家族が暮らしていた。その住人がちょうど戻ってきたので声をかけてみた。トマさん(22歳)は、この家に引っ越してきて、まだ半年しか経っていないと言い、興味深いことを口にした。

「私が外に出て、時々、挨拶をしていた老人が、まさか世界的に有名な映画監督だったとは知りませんでしたね。彼が亡くなったニュースをテレビで見て、びっくりしましたよ。杖をつきながらでしたが、91歳にしてはよく歩いているなと、いつもその姿を見ながら思っていました。ただ、私の家の中まで葉巻の煙が立ち込めて酷かったですね」

ゴダールは、葉巻を愛した。毎日、キューバ産葉巻の老舗「パルタガス」を好んで吸っていた。新聞を脇に挟み、葉巻を吸いながら杖をついて歩いている光景が、街中では頻繁に目撃されていた。周りが声をかけても、「ボンジュール(こんにちは)」と言葉を返すくらいで、会話をしなかったという。ゴダールは、有名人ではあるが、町の住民から特別扱いされることを嫌ったようだ。

朝はいつも、町の大通り沿いにあるパブ「チャーチル」でエスプレッソを飲み、フランスの風刺週刊紙『カナール・アンシェネ』を読んでいたという。ここで働くナタシャ・ジェルマキアンさん(29歳)は、こう振り返った。

「とにかく寡黙な人で、ほとんど話はしませんでした。でも、一杯のコーヒーだけで、毎回、10スイスフラン(約1500円)のチップをテーブルに置いていってくれました。それと、年に1回、ゴダールさんのファンだというキューバ人女性がここに来て、2人は、映画について延々と語り合っていましたね」

ゴダールの自宅兼アトリエ(著者撮影)

1年前から歩くことが困難に

冒頭で示したように、ゴダールの最期を見届けた人間は3人いる。

1人は1970年代から映画を共同製作するなど、公私ともにゴダールのパートナーだった元女優・脚本家のアンヌ=マリー・ミエビル夫人(76歳)だ。彼女はゴダールの死後、沈黙を守っている。

そして、もう1人がゴダールと15年近くの付き合いがあった税理士のパトリック・ジャンヌレ氏だ。特別に会う約束をしてくれた彼も同じく、映画監督の安楽死について、これまで沈黙を保ってきた。その理由を、私にこう説明した。

「ゴダールさんの身内と親友の希望で、世間を騒がせるようなことはしないと決めたのです。世界的な有名人であったからでもありますが、メディアで物議を醸されることを避けたかったのです。彼の死に方については、公にしないという方針を、仲間のジャン=ポール・バタジア(製作主任)やファブリス・アラーニョ(撮影者)らと立てました」

ゴダールの影響を受け、映画の製作を副業で行なうようになったというジャンヌレ氏の背後には、大型スクリーンが設置されていた。仕事以外でも、友人としてゴダールと交流を重ねてきた彼は、91歳だった映画監督の健康状態をどのように見ていたのか。

「ゴダールさんは、亡くなる数カ月前から、重い疲労を訴えるようになりました。食べたり飲んだりすることがうまくできなかった。特に、1年くらい前から歩くことが困難になったのです。起きることも難しくなり、杖なしでは歩けませんでした」

だが、それが安楽死を決意するに至った理由なのか。ジャンヌレ氏は、「重篤な病には罹患していなかった」とも言った。現に、世界を驚かせた〈病ではなかったが、人生に疲れていた〉という言葉がフランスの日刊紙『リベラシオン』に渡ったのは、彼らの仲間内でそう解釈し、同紙へ伝えたからだった。

この言葉が想定外の物議を醸したことに対し、ジャンヌレ氏は後悔している様子だった。

「リベラシオンが掲載した記事は、多くの人に誤解を与えたと思うのです。フランスという国は、物議を醸すことに時間をかけ、問題の解決にはあまり時間を費やさない。(スイス人の)私には理解が難しい社会です。粗探しばかりで、やや病的だとも感じます。ゴダールさんの死の本質については語らず、世間を賑わすだけの内容に傾倒した記事が、その他の新聞にも多く見られました。残念でしたね」

近いようで遠いフランス。彼は、安楽死を認めない国では、報じ方のスタンスが異なるという、見極めの甘さがあったことを反省していた。しかし今度は、そのような誤解がないように伝えてほしいとの願いも込め、ジャンヌレ氏は私に会う決断をしてくれた。そこで彼が強調したかったのは、「スイスは違う」ということだった。

「スイスでは、自殺幇助はまったく平凡な死と考えられています。問題になることも、議論になることもありません。しかし、隣のフランスでは、まったく別の話なのです。ゴダールさんは、その意味で言えば、ふたつの異なる世界を生きていたのかもしれません」

とはいえ、それが現実だとしても、ゴダール本人の口から自殺幇助の話が実際に出た時は、「ショックを受けました」との心境を吐露した。ただ、不思議なことに、「愛着を感じるようなショックでした」と目尻を下げた。それは、ゴダールらしさが溢れる発言だと、彼が受け止めたからに違いない。

「孤独」が招いた結末なのか

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