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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#24

第四章
End Of A Century

★前回の話はこちら。
※本連載は第24回です。最初から読む方はこちら。

 1996年12月13日金曜日夕刻。

 師走。クリスマス・シーズン真っ只中の渋谷に降り立つと、スクランブル交差点から見上げた電飾の街そのものがまるでミュージカルの舞台かのように煌めいていた。人混みがエキストラとするならば、今、僕は初めて「東京」というステージの主役になった、そんな気分をひしひしと感じている。なんと言っても、我々、NONA REEVES にとって、そして僕にとって悲願の初オリジナル・アルバム《SIDECAR》が全国発売される日がやってきたのだから。それだけではない。世界にその名を轟かせる日本のレコード文化の「バベルの塔」、タワーレコード渋谷店で、「レコ発(レコード発売)イベント・ライブ」が遂に行われるのだ。

 黄色と赤のカラーリング、聳え立つタワーレコード渋谷店を仰ぎ見たのも束の間。関係者として裏口から初めて通される。その瞬間、前日より5度も最高気温を下げたビル風が吹き抜け、僕は身震いをした。このビルの中に所狭しと並べられた古今東西のレコードや CD を物色しては財布の中身と相談し、何枚かを大切に持って帰って貪るように聴いていた昨日までの自分。インディーズからのリリースではあるが、今日をもって「リスナー」「オーディエンス」としての自分が終わり、「アーティスト」「ミュージシャン」としての歴史が始まる記念すべき一歩。売り場に足を運べば、自分がデザインし工場でパッケージされた《SIDECAR》の CD ジャケットがビニールで美しく包まれ陳列されている。店員さんが手書きで作ってくれたポップまで……。今回、背表紙の帯をつけず、洋盤のようにステッカーを前面につけるアイディアは「棚に入れた時に見にくくなる」とレーベルの社長に反対されたが強行した。今の自分は、何に対しても異常なまでに頑なだ。俺は特別なんだと心に言い聞かせる間に自分自身も暗示にかかっていた。

 アルバムのレコーディングは8月の終わりから3ヶ月半、発売ギリギリまで続けられ、インディーズにしては異例の300万円という巨額の制作費がかかった。実際、スタジオに入るだけでもレンタル費を含めて通常なら10万円。エンジニアに対して支払う額をまとめ、安くしてもらったにしても30回入れば確かにそれに近くなる。マスタリングは、東京CDセンターで2度やり直してもらった。とはいえ、単に贅沢を重ねたわけではない。白金台の東京都庭園美術館の向かい側にあるスタジオ「ファーストステップ」は、トイレに鳥の巣があるような老朽化した狭いスタジオ。オープンリールの16trテープでの録音は、キラキラしたメジャーな「90年代J-POP」にしたくなかった「ローファイ」指向の自分たちにとっては願ったり叶ったりで、そこでの試行錯誤をメンバー5人全員楽しんだ。何より僕が少年時代から追い求めていたのは、スタジオでのこの瞬間だった。一生こういう作業を繰り返して生きていきたい、と僕は心から願った。ただし、現役で大学を卒業していた自分以外の4人はまだ学生。当然、バイトや授業との両立があり、レコーディングのすべてに立ち会っていたのは僕一人という状態。まだバンド全員が音楽だけで生活が出来るという夢には程遠い。

 とはいえ、自分達のアルバムが遂に発売されるのだ。派遣社員だったバンドマン湧井正則さんと、バイト先の凸版印刷内「電子メディアサービス」で出会った1994年の終わりから丸2年の日々が経過していた。彼が CD をリリースしていると知った時、僕自身が受けた衝撃と破壊力、交わしたやりとりのすべてを今や懐かしく思い出す。

「湧井さん、俺も一枚でもいいんで、最初の一秒から、最後の一瞬まで納得出来るアルバム、プリンスの《パレード》みたいなアルバムが作ってみたいです。自分が心から満足出来るアルバムが出来るなら死んでもいいと本当に思ってます」

「いや、死ななくていいでしょ、あはは。出来るよ、もちろんクオリティはそれぞれかもだけど、アルバム作るなんて必ず出来る」

《SIDECAR》は、プリンスの《パレード》を自分なりに意識したトータル・アルバムで自信作だった。しかし、完成し、発売する夢を果たした今、到底「死んでもいい」などとは思えていない。むしろ、ここからが茨の道なのだ。まだ自分は「プロ」になっていない。両親からの仕送りを含めた「モラトリアム」の中でこそ達成された、このふわふわとした状況が数年で終わることを僕は知っている。

 迎えた「レコ発イベント・ライブ」は、単独ではなく、勢いのあるもう一つの若手バンド「SUPER BUTTER DOG(スーパーバタードッグ)」との対バン形式だった。バタードッグのヴォーカル、ギターは永積タカシ君。ちょうど1歳年下の1974年11月27日生まれ。松下幸之助さん、小室哲哉さん、ジミ・ヘンドリックスと同じ誕生日だよねと言う会話を楽屋で交わす。永積君が通っていた自由の森学園高等学校には僕の女友達、栗原真子も通っていた。僕らのイベントに来ては、いつも趣味の写真を撮ってくれていた真子からバタードッグの噂を以前から聞いていた。この日も楽屋に訪れた真子は永積君の顔を見ると嬉しそうに僕に話した。

「永積君が校庭で歌い出すと皆が、『永積君が歌ってるよー!』ってクラスに言いにきてね。それで一杯生徒が集まって弾き語りを聴いてたくらい、自森(自由の森学園)の大スターだったんだよ」

 バンドの中で一際目立っていたのがキーボードのひょうきんな男。本番を迎えたバタードッグで驚いたのが、曲が終わると静かにギターのチューニングをする永積君を差し置いて、アフロヘアでインパクトのある鍵盤奏者の「池ちゃん」がトークを引っ張りその場を沸かせていたことだ。曲間に僕が一人 MC で喋りまくる NONA REEVES とはタイプが全然違った。

 バタードッグは、年が明けるとメジャー・デビューするらしい。彼らはパーラメントやファンカデリック直系の「本物のファンク・バンド」。その上で、パーソナルな永積君の弾き語りを軸とする抒情的でフォーキーな魅力も兼ね備えていた。それに対し、僕はイギリスで80年代に生まれたいわゆる「ブルー・アイド・ソウル」グループの方に心酔していた。「青い瞳」、つまり白人による「黒人音楽」という「偽物だからゆえの憧れを換骨奪胎した素晴らしさ」を自分でも体現したい、その道を必死で歩んできた。「ブルー・アイド・ソウル」の中でも伝わりやすいミュージシャン性、マニア臭を持つブロウ・モンキーズやスタイル・カウンシル、シンプリー・レッド、スクリッティ・ポリッティは下北沢の先輩達も大好きだった。しかし、カルチャー・クラブ、ワム!、ティアーズ・フォー・フィアーズなど、どちらかと言えば「アイドル」視されていた「80's MTVバンド」達が放つ世界観を、馬鹿みたいに真剣に追い求めてきたのは広い東京でも自分だけなような気がしてしょうがない。今年リリースされたシングルで最も愛したのは、マイケル・ジャクソンが昨年リリースした二枚組アルバム《HIStory : Past, Present and Future, Book I》からの〈They Don’t Care About Us〉だったが、周囲に誰一人同じレベルでの共感者はいなかった。ただし、そのある種の時代錯誤、主要な音楽ジャーナリズムなど通常の視点との絶対的な乖離、ズレこそが自分の武器だと僕は信じている。

 発売イベントには、多くのファンと友人たちが足を運んでくれた。終了後、パーテーションで分けられた臨時の僕らの楽屋には人が訪れ、ごった返した。まず一番多かったのが、早稲田大学のサークル、トラベリング・ライトの後輩たちだ。ただ、「幹事長」という代表職を務めたにも関わらず、任期満了後の丸2年間、一度もサークルに顔を出さずにいた僕にとっては名前と顔が一致する者は限られていた。考えれば、ほんの少し前、僕が湧井さんの STARWAGON や、エレクトリック・グラス・バルーン、PEALOUT に夢中だったように、タワーレコード渋谷店で大展開されている自分たちを若いバンドマンが慕ってくれることは不思議ではない。その後輩たちの集団に紛れて、いつも見かける背が高い女の子が今日もいた。早稲田大学第二学生会館の1階のラウンジ、隣のサークル「MMT(モダン・ミュージック・トゥループ)」に所属していた2学年下の後輩。彼女の名前だけは忘れもしない。土岐麻子。日本を代表するサックス奏者、土岐英史さんの愛娘。彼女が隣のサークルに入部した瞬間から、山下達郎や吉田美奈子など日本のポップ・ミュージックを愛する先輩や仲間が大騒ぎしていたことを思い出す。NONA REEVES 始動以来、一度も欠かさず現場に足を運んでくれる彼女は、ある意味最初の「おっかけ」のような存在。心強い援軍だ。ライヴを終え楽屋でパイプ椅子に座りキャスター・マイルドに火を着けた僕に、土岐さんはニコッと微笑みながら声をかける。

「ゴータさん! 今日もノーナ、めちゃくちゃカッコ良かったです! 特に小松さんのドラム! ホントに凄かったです。昔、私のバンド、手伝ってもらったのが嘘みたいで」

 僕がまだ大学生の頃、土岐さんは早稲田の文学部キャンパスの学生食堂でバイトをしていた。客として授業のたびに通っていた僕が、カツカレーを頼むとルーとライスを少しずつ多くしていてくれたと最近仲良くなってから教えてくれて、笑ってしまった。後輩といえどもサークル自体は違うので、その頃はきちんと挨拶を交わしたことがない状態。お互い照れてアイコンタクトだけ交わしていただけだったのだが。

 すぐ後ろから、カズロウとお腹が大きくなったマイカが顔を見せた。夏のバーベキュー大会以来に顔を見せたマイカの頬は興奮で紅潮している。

「ゴータくん! すごい良かったよ。ずっと言ってたもんね! CD 出すなんて! 夢を叶えてすごいよ!」

「いやいや、まだ始まったばっかり。って言うか、めちゃくちゃお腹大きいやん! いつだっけ? 生まれるの」

 隣のカズロウが、はにかみながら答えた。

「1月。1月26日が予定日」

「うわ! アンドリュー・リッジリーと同じやん。ワム!の!」

 カズロウが甲高い声を上げて笑った。

「そんなこと言うのゴータくんだけだよ、嬉しくないし。あはは」

 次の瞬間、白髪混じりの胡麻塩坊主頭、東條英機のような丸い眼鏡をかけ、黒いコートを来たお洒落で小柄な50代の男性が慣れた様子で顔を見せた。

「あー、ゴータ君。お疲れさまー、良かったよー」

 彼の名は渡辺忠孝。ワーナーミュージック・ジャパンのディレクター。僕らをメジャー・レーベルにスカウトしてきた彼は、兄の筒美京平とともにC-C-Bの数々のヒット曲を手掛け、フィッシュマンズとも仕事をしたというベテランだった。

■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としてもSMAP、V6、YUKI、岡村靖幸、私立恵比寿中学、「ヒプノシスマイク」など多くの作品、アーティストに携わる。
近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。
代表作に小説『噂のメロディ・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
Spotify公式ポッドキャスト「西寺郷太の GOTOWN Podcast」、毎週日曜更新。
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