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『わが闘争』アドルフ・ヒトラー(前編)|福田和也「最強の教養書10」

人類の栄光と悲惨、叡智と愚かさを鮮烈に刻み付けた書物を、ひとは「古典」と呼ぶ。人間知性の可能性と限界をわきまえ、身に浸み込ませることを「教養」という。こんな時代だからこそ、あらためて読みたい10冊を博覧強記の批評家、福田和也がピックアップ。まずは20世紀で最も危険な一冊から。(前編)

 戦後七十年以上が経った今も、ヒトラーやナチスをテーマにした本の刊行は後をたたない。これは世界的な傾向であり、未だに全世界の人たちが、一九四五年四月二十三日に自殺した、ナチスの指導者にして、ドイツ国の首相、国家元首であった男を注視しているのである。その注目度は恐らく、現役のアメリカのトランプやロシアのプーチンにも匹敵するのではないだろうか。

 二〇一二年、ドイツの作家ティムール・ヴェルムシュは『帰ってきたヒトラー』という小説を発表した。二〇一一年のドイツに甦ったヒトラーが物まね芸人と誤解され、数々のテレビ番組に出演しているうちに新たな信奉者を獲得していくという内容である。この風刺小説はドイツ国内で二五〇万部を超えるベストセラーとなり、世界四二言語に翻訳され、現在一四〇〇万部以上の売れ行きが記録されている。ドイツ本国で映画化され、二〇一六年には日本でも公開された。

 この映画で面白いのは、ヒトラーに扮した主演俳優が、ベルリン、ハンブルク、フランクフルト、ミュンヘンなどの街角に立って普通の人々と語り合うドキュメンタリーシーンを入れ込んでいるところだ。

 ヒトラーは歴史上の「絶対悪」である。撮影スタッフは当初、人々の反応を心配してSPに俳優を警護させたが、あまりにも好意的に受け入れられたので、驚いたという。人々は偽者と分かっていながらも親しみをもってヒトラーに接し、中にはスマホと自撮り棒で記念写真を撮る者もいた。

 ちょうどこの本がドイツで刊行された頃、私はミュンヘンを訪れていた。プライベートの旅行だったが、興味があったので、ナチスに関連する場所を歩いてみた。

 ケーニヒス広場近くにあった総統官邸の建物は音楽演劇大学になっていて、ナチスの党本部のあった場所には「ナチス資料センター」が建築中。党本部は一九四五年に破壊され、六十年以上更地のままにされていたそうだ。二〇一五年にようやく「NS文書センターミュンヘン 国家社会主義の歴史に関して教育・記憶の場所として」がオープンしたが、建設が遅々としたのはドイツ国内で強い抵抗があったからだという。ナチスの党大会が開かれたビアホール「ホーフブロイハウス」は健在で、たくさんの観光客で賑わってはいるものの、それは普通のビアホールとしてはやっているだけのことだ。
「ナチス発祥の街」ミュンヘンはヒトラーとナチスの「負の痕跡」を消そうとしているというのが、そのときの私の印象だった。

 だから、『帰ってきたヒトラー』の本が日本で刊行され、映画が公開されたとき、ヒトラーがドイツでこれほど公然と笑いものにできるということに驚いたのだった。

 ヒトラーには二つの見方がある。

 一つは悪魔的であり狂信的な計画を着々と進めていった一種の天才的陰謀家、もう一つは歪んだ世界観を持つ、また野蛮な政治的手法を持っていたにしろ、結局は相対的な国際関係の中で、その時々の状況に応じて政策を打ち出した、他の大国の指導者たちと本質的には変わらない政治家。

 大戦の終結以来、マスメディアのステレオ・タイプはもちろん、政治学や歴史学といったアカデミズムの領域ですら、ヒトラーにたいする見方は、前者が基本になっている。つまりは、ヒトラーは徹頭徹尾計画的だったのであり、その信念の強烈さによって、はじめから抱いていた目論見を冷徹に実行したというのである。

 この悪魔的ヒトラー像は、今日にいたるまで健在であり、悪の代名詞としてのアドルフ・ヒトラーくらい確固とした一般的に定着した指導者像は存在しない。

 これまで世界で刊行されたヒトラーに関する本は軽く数万冊を超えているだろうが、ヒトラー自身の著書はたった二冊である。

 一冊は一九二五年に刊行された『わが闘争』、もう一冊はヒトラーの死の二十六年後に刊行された『ヒトラー第二の書』である。

 もっとも二冊目は一九四五年のドイツの降伏後、ベルリン総統府の地下壕から発見されたヒトラーの口述原稿を研究者が注釈をつけて出版したものであり、ヒトラー自身はこの原稿を極秘扱いにし刊行を禁じていた。

 よって、ヒトラーが自らの意志でこの世に送り出した唯一の書は、『わが闘争』ということになる。

 もしも、ヒトラーについて知りたいと思ったのなら、まず読むべきは『わが闘争』である。

 ところが、この本は戦後、ドイツ本国では発売禁止となっていた。店頭販売が法律で禁じられたわけではないが、政府が目を光らせていたため、五〇年代には書店でしか見られなくなり、古書店にしても、例えばベルリンのある古書店は一九七六年、戦前に出版された『わが闘争』を一五〇冊まとめて販売したとして、高額の罰金を払わされている。

 七九年に正式規定が定められ、学術的な目的による注釈をつけた抜粋書であれば、出版が許可されることになった。

 ドイツは『わが闘争』を読んで国民が再びナチスの主義に傾くことを恐れたのだ。

 ドイツ以外の国の対応はまちまちだった。オランダとルクセンブルクは禁書としたが、こうした国は意外に少なかった。戦後、対独協力者の追放を行ったフランスでは数々の論争を経ながら、『わが闘争』の翻訳本は細々と売られ続けた。イギリスでは一九三九年にハッチンソン社から刊行された翻訳本が戦後も売られ続けた。スペインとイタリアではムッソリーニの再評価にともない、一九七〇年代に再出版された。ロシアではソヴィエト時代は発禁とされたが、ペレストロイカ以降は何種類かの翻訳本が出版されている。
日本では一九六一年に『完訳わが闘争』(全三巻)が黎明書房から刊行されている。翻訳者はドイツ教育史の専門家、平野一郎とヘーゲルの研究者、高柳茂である。この本は十年後の七一年、同じ翻訳者によって全面的に改訳され、黎明書房から出版された。さらに二年後にはその改訳版が角川文庫の上下巻となって刊行された。

 平野は『わが闘争』翻訳への思いを次のように語っている。

「わたしは心の一部で、この翻訳が与えるかも知れない悪影響を危惧しながらも、戦後世代のくもりなき判断力がこの危惧を追いはらってくれるに相違ないと期待してきた。そしてこの期待は裏切られなかった。

 若い世代は『わが闘争』をバイブルとしてではなく、客観的に批判すべき書として取り扱ってくれた。同時にこの書が一度は読まるべき書であるとのわたしの考えを、いっそうたしかなものにしてくれたのである」
(『わが闘争 (上)』角川文庫)

 刊行年の早さからして、ヨーロッパ諸国に比べ、日本がヒトラーの著書に対してかなり寛容であったことが窺える。

 二十一世紀を迎えてもなおヨーロッパでは強い警戒心が解かれなかった『わが闘争』を取り巻く状況がここ数年で大きく変わった。

 理由は、二〇一六年一月一日にこの本の著作権が消滅したことにある。

 ヒトラーの著作権が残っていたということに驚く人も多いだろうが、実はドイツのバイエルン州が持っていたのである。これは連合国の処置で、ヒトラーの課税住所がバイエルン州都ミュンヘンのプリツレゲンテ広場一六番地の邸宅に置かれていたという理由による。

 一九四五年から二〇一五年までの七十年間、バイエルン州はヒトラーの著作権を守っていたというよりは、『わが闘争』が再販されないよう監視していたのである。

 この態勢は著作権が失われた以降は、「著作者人格権」となって継続されている。「著作者人格権」とは「著作を守る権利」であり、著作におかしな脚色がほどこされたりした場合、バイエルン州は意義を申し立てることができる。

 とはいえ、ドイツにおいて誰でも自由に『わが闘争』を出版することができるようになったという変化は大きい。

 二〇一六年一月、ドイツのミュンヘン現代歴史研究所(IFZ)が上下巻総ページ二〇〇〇ページに及ぶ『わが闘争』を刊行した。これは著作権消滅後すぐの刊行を目して、その数年前から準備が進められていた本であり、痛烈な批判を込めた数千もの注釈が付されている。IFZがこうした本を出したのは、極右のネオナチによる『わが闘争』の出版を防ぐ目的もあった。

 上下巻で約六五ドルのこの本は初版四〇〇〇部に一万五〇〇〇部の注文があって大増刷し、一年間で八万五〇〇〇部が売れるベストセラーとなった。購入者は政治や歴史に関心のある人や教育者が多いという。

 IFZは意外な売れ行きに対し、国内に極右のイデオロギーが広まるといったことはなく、逆に全体主義的な政治観に対する議論を深めたと、コメントしている。

 戦後七〇年以上が経っても、かくも警戒される『わが闘争』には一体何が書かれているのだろうか。

 その説明に入る前に、まずこの本がどういった経緯で書かれたのかを説明しよう。

 アドルフ・ヒトラーは、一八八九年四月、ドイツとオーストリアの国境にある、ブラウナウという小さな町に、税官吏の息子として生まれた。

 少年時代のヒトラーはマザー・コンプレックスが強く、父親を敬遠していた。学校では図工と体育と歴史が好きで、数学と国語が苦手だった。弁舌にはこの頃から長けていたと言われている。

 青年となったヒトラーは画家を志し、ウィーンの造形美術大学に入ろうとしたが、入学試験に二度失敗。それでもあきらめきれず、絵を売りながら、浮浪者収容所に身を寄せるような生活を続けていたが、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツに戻り、志願兵となった。

 予備歩兵十六連隊に配属された彼は伝令兵として功を立て、一級鉄十字章という勲章をもらいはしたが、上等兵になってからは、四年間の従軍生活において一度も昇進せず、下士官にすらなれなかった。

 前線からミュンヘンの部隊に戻ったヒトラーは反ユダヤ主義と民族主義思想が買われ、兵士に右翼的再教育を施す役を与えられた。弁の立つ彼は軍部の政治思想啓発講習会の責任者、カール・マイエルに見込まれ、調査のためにドイツ労働者党の集会に参加するよう命じられた。

 この集会への参加がヒトラーの運命を大きく変えた。

 ドイツ労働者党は一九一九年一月五日にミュンヘンで結成された。党首はミュンヘンの国有鉄道中央工場の仕上げ工、ドレクスラーだった。彼は、ナショナリズム、反マルクス主義、反ユダヤ主義を掲げ、同僚の労働者二十四名とともに党を立ち上げたのだった。

 集会に参加したヒトラーはドレクスラーに気に入られ、その場で入党させられたばかりか、党の委員にまで任命された。会合において一般大衆を前に演説するようになると、次第に政治活動への関心が強まり、第一次世界大戦終結により、国防軍が大幅に削減ざれるという事情もあって、政治家になる決意を固めた。

 一九二〇年二月の大集会で、ドイツ労働者党は「国民社会主義ドイツ労働者党」と改称した。略称は「NSDAP」。「ナチス」というのは国民社会主義者「National-sozialist」の略称「Nazi」の複数形で、党の反対派が軽蔑をもってつけた俗称でもある。

 同年三月、ヒトラーは国防軍を退き、党の宣伝家として活躍するようになった。彼の演説は多くの人々を魅了し、ヒトラーの名とともににナチスの存在は人々の間に浸透していった。党員は一九二〇年六月末の一一〇〇人から一年で三三〇〇人に増加した。

 二一年七月、ナチスの中で他の極右民族主義政党との合同問題が起き、これに反対したヒトラーは脱党しようとした。けれど、最大の広告塔を失うわけにいかず、党首のドレクスラーは引き留めた。ヒトラーは留まる条件として、臨時党大会の開催と現委員会が総辞職して自分が第一委員長になることを求めた。党が条件を全面的に受け入れたため、ヒトラーは党内の独裁権を獲得した。

 二三年秋、ドイツはフランス軍のルール占領と国内のインフレにより崩壊の危機に陥った。バイエルンではG・V・カールの右翼政権がドイツ国防軍司令長官HVゼークトと結んでドイツに独裁政権を立てようとし、ナチスを実行部隊とて利用していた。が、直前になってカールらが実行計画を延期したので、十一月八日、ヒトラーは自ら行動を起こし、九日にはミュンヘンの中心部にあるオデオン広場に向けてデモ行進を敢行した。二〇〇〇~三〇〇〇人が参加したが、広場の入り口で武装警官隊に銃撃され、ヒトラーは逮捕された。ミュンヘン一揆である。

 結果、ナチスは解散させられ、ヒトラーはレヒ河畔のランツベルクの拘置所に入れられた。仲間たちの多くは彼を見捨て、ヒトラーは絶望の底で自殺を考えた。彼の政治家としての命運もこれまでと思われた。

 ところが、側近たちが同じランツベルクに送られてくると、ヒトラーは息を吹き返した。翌年に予定されている裁判を自分の最高の弁論の機会とみて、側近らとともに対策を練り始めた。

 二月から三月にかけてミュンヘンの人民裁判所で行われた一揆に対する裁判は極右ドイツ民族至上主義者の宣伝の場となった。

「われわれに何度でも有罪を宣告すればいい。だが歴史の永遠の裁きを司る女神は微笑んで、起訴状と宣告された判決を引きちぎるだろう。なぜなら、その女神はわれわれに無罪を言い渡しているからである」

 法廷で堂々とこう主張するヒトラーに言い渡されたのは五年間の禁固刑にすぎなかった。ヒトラーのように自分がドイツ人であると自覚する者、四年半も戦争でドイツの兵士として闘い、その功を示した者は共和国を守るための法律で裁かれるべきものではない、というのが法廷の判断だった。

 この裁判によって、ヒトラーの存在は「英雄的愛国者」としてドイツ中に知れわたった。

 このような事情により、ランツベルク刑務所に入れられたヒトラーは特別待遇になった。

 広くて快適な部屋が与えられ、昼も夜も側近たちと一緒に食事をすることができた。所長の厚意によって誰とでも面会ができ、差し入れも自由で小包、新聞、手紙などは何の検閲もされなかった。

 あまりの快適さにヒトラーは刑務所を「国費で勉強できる大学だ」と言うほどだった。

 こうした中、ヒトラーは裁判の趣意書をまとめようと、側近のエミール・モーリスとルドルフ・ヘスに向かって語り始めた。自分の来し方について、自分の運動の目標について、自分の世界観について。

 やがてそれは趣意書の域を大きく超えるものとなっていき、最終的に上下巻、二冊の本にまとまった。

『わが闘争』の誕生である。

「一九二四年四月一日、わたしは、同日付のミュンヘン国民裁判の判決によって、レヒ河畔のランツベルクの要塞拘置所で禁固刑に服さなければならなかった。

 それと同時にわたしは、絶え間ない数年の活動の後に、多くの人々から要求されており、またわたし自身からいっても運動に役だつと感ぜられる著作に、はじめて取りかかることができるようになった。そこでわたしは二巻の書において、われわれの運動の目標を明らかにするだけでなく、われわれの運動の発展の姿を記そうと決心した。この方がどのような純理的な論文からよりも、学ぶところが多いであろう。

 さらにそのさいわたしは、わたし自身のおいたちを、第一巻と第二巻の理解に必要であり、またユダヤ新聞がつくりあげたわたし個人に関する不当な伝説を破壊するのに役立つかぎり、述べておいた。

 わたしはここでこの著作を、無縁の人々にではなく、心からこの運動に従い、知性がさらに心から啓蒙を求めているこの運動の信奉者に、向けているのである」
(『わが闘争』序言 平野一郎・将積茂 訳)

           ∴

では、『わが闘争』には何が書かれているのだろうか。

後編に続く


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