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清武英利 記者は天国に行けない(10)「赤旗事件記者」

マスクを取ると、利権を追う。事件記者の顔が現れた。/文・清武英利(ノンフィクション作家)
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三重刑務所は、津市の公園区域の内にある珍しい刑務所である。津球場公園内野球場にも近く、市の中心部を流れる岩田川の河面に無機質な鉄筋コンクリート塀を映している。

2010年3月24日朝、その塀の中から「平成の政商」と呼ばれた男が仮釈放されて出てきた。

三重県桑名市に本社を置く中堅ゼネコン「水谷建設」の元会長・水谷功である。65歳になっている。約11億4000万円を脱税したとして法人税法違反の罪に問われ、懲役2年の刑が確定して、服役していた。

刑務所の前には新聞社の記者たちが待ち構え、刑務所職員に囲まれた水谷に駆け寄った。まだ午前8時半すぎだ。その取材目的を当日の東京新聞夕刊はこう伝えている。

〈水谷建設をめぐっては、小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」 の収支報告書虚偽記入事件に絡み、元私設秘書の衆院議員石川知裕被告(36)=政治資金規正法違反の罪で起訴=らに二〇〇四年と〇五年に各五千万円の裏献金を提供したとされる疑惑があり、石川被告は、保釈の条件で元会長らとの接触を禁じられている〉

記者たちは、政界への裏金疑惑を取材しようと思って、待っていたのだった。

水谷建設は脱税事件や贈収賄事件などで再三、捜査の対象になってきた。この連載の6回目でも触れたが、2003年に東京電力福島第二原発関連事業に絡んで名古屋国税局に摘発、追徴課税されたのは水谷建設だし、収賄事件で逮捕された元福島県知事・佐藤栄佐久にわいろを贈ったのも水谷である。

しかし、その水谷は報道陣の呼びかけに応じず、無言のまま迎えのワンボックスカーに乗り込んで、刑務所を後にした。それを追う記者はいなかった。

ところが、記者たちが姿を消すと、辺りを一回りしていたのか、ワンボックスカーが戻って来た。そして刑務所の傍で一人待っていた眼鏡の男を乗せて走り去った。

男は日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗日曜版」副編集長の山本豊彦という。当時47歳、専任記者時代を含めると、記者歴22年のベテランである。

身長は172センチだが、福岡県立東筑高校時代にサッカー選手だった名残を大きな背中や太い腕に残している。ちなみに東筑高校は俳優の高倉健やオリックスの名監督・仰木彬の母校で、反骨硬派の学生が多かった。1年先輩には強面のジャーナリスト・森功がいる。

山本は収監される直前の水谷に接触していた。そのときは名古屋のカラオケスナックで取材し、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を歌って、「では、体に気を付けて」と見送っている。それからも刑務所に接見に行っていた。「山本さん、来てくれや。面白い話、あるんやで」と呼ばれるのだ。

仮釈放されたその後、2人は喫茶店に入った。水谷はたっぷりとクリームが乗ったホットケーキを注文し、しゃぶりついて、「ああ、シャバの甘いもんはうめえな」と漏らした。

酒でも飲むのかな、と思って山本は見ていたが、よく考えると水谷は酒が飲めないのだ。

「それでどうでしたか」

「いやいや、やっぱ大変やで。君は入ったことがないからわからんやろうけどな」

「で、これからどうするんですか?」

「どうするったって……そんなに人間変わるもんやないから、前の仕事を地道にやるしかないわな」

水谷は、また事業を始めることを伝えた。政治家や東電との付き合いについて尋ねると、「そうやな。君はよう勉強しとるなあ」と煙に巻く。また尋ねる。はぐらかす。ぽろりと漏らす一言を待つ。いつもの禅問答だったが、そうやって核心をぼやかすのは、彼のフィクサー復権のために必要なことであったのだろう。

山本豊彦

「しんぶん赤旗日曜版」の山本豊彦氏と編集部

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山本はその翌年、判決が確定した防衛省汚職事件でも、「防衛利権」のカギを握る人物に密着していた。今度の山本の取材対象は、贈賄などの罪に問われた防衛商社「山田洋行」の元専務・宮崎元伸だった。

2人とも福岡で育ったという縁がある。宮崎は二回りも年上だが、中央大学経済学部第二部卒で、山本は早稲田大学第二文学部卒、いずれも夜間部で学んだという共通点もあった。

宮崎は航空自衛隊の次期輸送機のエンジン調達をめぐって、元防衛次官の守屋武昌(たけまさ)にゴルフ接待などを繰り返し、東京地検特捜部に贈賄などの容疑で逮捕されていた。事件の焦点は総額1000億円といわれる商戦に、官僚だけでなく防衛族議員がどう関与していたのか、そして防衛利権の中心にいるのは誰なのか――にあった。

だが結局、東京地検特捜部の捜査は政治家には及ばず、失速してしまう。宮崎は懲役1年6月の判決を受けて服役した後、水谷と同様に、刑期途中に仮釈放されて出所してきた。「出られたから」と山本のもとに電話がかかってきた。それでまた一緒に飯を食った。

山本によると、その宮崎の刑もあすで満期になるという夜だった。携帯が鳴った。宮崎からだった。

「山本さん、怖いんだ。俺は嵌められるかもしれない」

「えっ」

「何かに巻き込まれて、また捕まるかもしれない。今晩付き合ってや」

辣腕の宮崎は山田洋行から部下を連れて飛び出し、新たな専門商社を作っていたから、憎まれていた。そのため、(またも陥れられて刑務所に行く羽目になるのではないか)という恐れを抱いていたのだろう。

宮崎とともに、山本は今度もカラオケに行った。取材源から連絡があれば夜中の何時でも行く、というのが彼の流儀である。そして飲み、日付が変わるまで歌った。午前零時を過ぎ、翌日になった。山本は言った。

「終わりましたね。帰りますか」

「うん、いいよ」。宮崎は元気を取り戻していた。やがて彼も復活して事業を再開する。

大きな疑獄や経済事件が明るみに出たとき、山本はたいていカギを握る人物たちの周辺にいる。権力監視といえば格好は良いが、刑務所から国会、酒場、カラオケに至るまでどこでも行き、一般紙の記者から半歩ほど後ろに距離を置いて、最後までいる。

刑務所の塀の向こうに落ちようとする者にも彼らなりの訴えや、事件調書に記載されなかった事実があり、それを聞き取って書くのが大きな仕事だ。社会部の調査報道記者に似ている。

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一般紙の記者と異なるのは党員としての責務を負っていることである。大学1年生のころに共産党に入党し、母親に電話した。母親は在日米軍立川飛行場の拡張に反対して、いわゆる「砂川闘争」に身を投じたことがある。きっと喜んでくれると思ったら、「そんな早くに決めるもんじゃない」と叱られた。その山本が語る。

「共産党は政党助成金や企業献金をもらってないので、赤旗の購読収入というのが最大の収入なんですよ。購読者を増やせるかどうかは、それだけ価値のある記事があるかどうかにかかっている。だから特ダネを取り、部数を増やさないとウチの財政にも関わるんですよ。ちなみに、芸能面にも力を入れてるんですよ。人は政治だけで生きているわけじゃないですから」

スマホで情報を得られる時代になって、新聞界の退潮がさらに進んでいる。機関紙の赤旗も、活字と新聞離れには無縁ではなく、2000年には日刊と日曜版と合わせて200万人も読者がいたのが、今は約90万人に減った。党員は26万人、一般読者にも支えられている。

読者はメディアを見比べて、カネを払う価値がないと思えば購読をやめていく。「読者は賢い」と彼は言う。私も面白くなくなったらすぐに購読をやめるだろう。山本が受刑者や元被告と呼ばれる人々のところに通い、執拗にスクープを追い求める裏には、そうした切羽詰まった事情もある。

一般紙の記者も初めは渦中の人物の周りにワッと群がっているのだ。だが、当事者が起訴されるとたいてい「これはもう終わった人」と見切りを付け、次の事件へと去る。記者たちの羅針盤は検察幹部や政治家の情報なので、捜査や政局次第であっちに走り、こっちに動く。

それで、事件の終結に興味のない山本や週刊誌の記者、特異なライターが残る。そして最後に山本たちが、水谷や宮崎のような“危ない人”とカラオケに行ったり、恨み節に耳を傾けたりする。

もちろん、ただでは済まさない。

マスクをかけた山本の風貌は、前沖縄県知事の翁長雄志(おながたけし)に似ていて、とても温厚そうに見える。ずっと昔から知り合いだったような気持ちを相手に想起させる特技を備えている。ところが、マスクを取ると、利権の在りかや政界腐敗を追う峻厳な政党記者の顔が現れる。

次期輸送機エンジン納入を巡る事件では、渦中の宮崎が東京・赤坂のすっぽん屋に守屋と防衛庁長官の久間章生を招いた事実を赤旗日曜版の一面トップですっぱ抜いた。接待を受けていたのはやはり、事務次官だけではなかったのだ。

2007年10月28日付で、「10数万円を費やした宴席の目的は、久間氏の防衛庁長官就任祝いと宮崎の新会社設立の報告だった」という証言を掲載すると、政界やメディアは大騒ぎになり、守屋は約20日後の参議院証人喚問で事実を認める事態になった。

山本は読売新聞社会部時代の私と、何度かすれ違っている。実際には、つい1年前に代々木の共産党本部で会ったのだが、どうも初対面のような気がせず、その不思議さに首を傾げた。

彼は福岡県北九州市の遠賀川沿いの川筋で生まれている。遠賀川は筑豊の母なる川で、石炭を運ぶ無数の川舟が白帆を張って行き来した。私は彼より一回り年上だが、宮崎県延岡市の五ヶ瀬川の近くで育った。五ヶ瀬川の少し上流ではアユがいくらでも捕れた。山本の地元は八幡製鉄所(現・日本製鉄九州製鉄所)、私の住んだ延岡は旭化成の企業城下町で、そんな川沿いの日なたの匂いが懐かしい気持ちにさせるのかと思っていたが、どうもあれは古い事件記者の匂いだ。

私たちは全く別々に、拘置所や刑務所の近くで人を待ち、フィクサーや情報屋、談合屋の事務所のソファに座り、共通の人脈と酒を飲んでいた。私を含めた警察や検察記者、週刊誌記者らが通っていた一つが、「裏社会の案内人」と言われた情報誌『現代情報産業』の石原俊介の事務所だったが、山本もそこに顔を出していた。ちょっと時代は違うが、同じ「情報のムラ」の住人でもあったわけだ。どうりで同じ匂いがするはずだ。

私が1994年7月に社会部デスクに就くと、東京協和・安全両信用組合の経営破綻をきっかけに、金融機関が次々に行き詰まり、やがて住宅金融専門会社、通称「住専」がつぶれた。捜査機関など当局頼みの従来型取材ではとても追跡しきれないので、私は社会部別室に「金融取材班」とも「清武班」とも呼ばれる夜討ちに長けた調査報道班を設け、社会部と経済部の部際にある不祥事を取材し始めた。班のメンバーには「俺たちは社会経済部、つまりどこにもない社経部の記者だ。特ダネを取って、長期連載をして、本を書く」と言い含めた。

すると、その金融取材の現場に山本がいた。

第一勧業(現・みずほ)銀行首脳が総会屋に巨額の利益供与を繰り返した、97年の金融事件にも彼はいた。私たちの金融取材班の重要な取材相手の一人が第一勧銀広報部次長の小畠晴喜だった。

山本は小畠たちが混乱の収拾に走り回っているのを知ると、自宅に近い小畠の自宅に自転車で行って取材していたという。小畠も石原の事務所に通い、裏社会にも通じていた。夜回りを受けた小畠は支店長昇格の後、作家江上剛としてデビューし、『非情銀行』や『起死回生』『失格社員』など体験に基づいたベストセラーを量産していく。私が小畠と再会したとき、山本は飲み友達として彼に深く食い込んでいた。

その97年11月、四大証券の一つだった山一證券が自主廃業に追い込まれる。破綻の連鎖の中で、約2600億円の不良債権隠しが発覚したのだ。

すると、山本は山一證券で社内調査委員長を買って出た元常務・嘉本隆正の夜回りを始めた。嘉本たちは社員がわれ先に再就職活動に走るなか、素朴な怒りから崩壊した山一に踏みとどまり、山一破綻の真相解明に乗り出していた。

嘉本の記憶では、山本はいきなり自宅にやってきた。玄関先に立ち、一通の手紙を差し出して、「ここに私の取材趣旨を記しました。改めて参上しますので、お読みいただけませんか」と告げて帰ろうとした。嘉本はそこに好意を抱いた。それまでハイヤーで乗り付け、ドカドカ上がってくるような新聞記者が多かったのである。

「こんな遠いところにまた来るのは大変だろうから、まあ上がりなさい」

そう言って居間に招き入れた。私は『しんがり 山一證券 最後の十二人』という山一破綻をめぐるノンフィクションを執筆する際、嘉本の自宅に通ったのでわかるのだが、彼の自宅は千葉県の少し奥まったところにあるしもた屋で、電車を乗り継いでいかなければならない。

嘉本は赤旗の記者がすべて共産党員であることは知っていたが、真相を話すのに朝日新聞も日経も赤旗もない。ただ、真面目な記者であればいい、と思っていた。

嘉本宅の最寄りの駅はタクシーがなかなか捉まらない小さな駅だ。だから嘉本は親しい人が来ると、小さな車を運転して駅まで迎えに行く。私は彼に送迎してもらったことを小さな誇りにしているが、山本もその乗客の一人だと聞いて、なるほどな、と思ったことがある。

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近年、山本や赤旗取材班の存在がメディアに登場するようになった。山本は2014年から赤旗日曜版編集長に就いていたが、その名が知られるようになったきっかけは、2019年10月13日付の日曜版「桜を見る会」私物化のスクープである。

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