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92歳。戦いあるのみ 鈴木修(スズキ相談役) 聞き手・篠原文也

文藝春秋digital
「工場にはカネが落ちている」──。“中小企業のオヤジ”のど根性を見よ!/鈴木修(スズキ相談役)、聞き手・篠原文也(政治解説者)

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鈴木氏(左)と篠原氏(右)

「相談役になっても毎日出社」

――鈴木さんは1978年に社長に就任されてから40年以上にわたり経営の第一線で活躍を続けられ、昨年6月、会長から相談役に退かれました。この間、「アルト」をはじめとする軽自動車を次々にヒットさせ、インドなど海外での展開を成功に導き、今やスズキは名実ともに世界的なコンパクトカーメーカーへと成長しました。

しかし、これほど大企業に成長しても、鈴木さんは自ら「中小企業のオヤジ」と称し、徹底した現場主義を貫かれてこられました。日本の産業を支えているのは数多くの中小企業であり、その成長が日本経済再興の鍵を握っているとも言えます。鈴木さんのご経験やお言葉からは、多くのヒントが得られるはずです。

今日は鈴木さんの会社人生を振り返っていただき、仕事・人生論、自動車業界の未来など、幅広くお話をうかがえればと思います。

鈴木 上手く話ができるか分かりませんが、篠原さんの注文に応じましょう。

――経営の第一線から退かれて半年以上が経ちましたが、どんな日々ですか。

鈴木 相談役になっても、急に仕事のペースが変わるわけではありません。昨年6月以降も相変わらず、毎日出社していますよ。

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――今もお忙しいようですね。

鈴木 43年も会社のトップを続けてきましたからね。ある日突然「相談役」になれ、と言われても長年しみついたクセは簡単には抜けないもんですねぇ。

ただ、会社には毎日来ていますが、「指示」は一切していません。

――そこは一線を引いておられる。

鈴木 若い役員連中には常々、私の発言は「質問」であり「提案」だと言っています。参考程度に聞いてもらえればいい。少しずつ発言を減らしていって、2年目以降は、お手並み拝見です(笑)。あと3年もすれば、理想的な相談役になれるんじゃあないでしょうか(笑)。

――現在92歳。こうして仕事を続けられている上に、今見ていると、血色がすごくいい。特別な健康法があるのですか。

鈴木 ゴルフに尽きますね。2021年は「マイルール」で楽しむゴルフを57回やりました。

――ええっ? それは化け物級ですね(笑)。

鈴木 コースは歩いて回ります。チョロだったら「こんちきしょう」と悔しがりますが、カッ飛ばせたら気分爽快、「実力はご覧の通り」と言って、涼しい顔をしています(笑)。

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インドで走るスズキ車

「こんちきしょう」が大切

――鈴木さんは元々、サラリーマンとして働かれていましたが、1958年にスズキの2代目社長・鈴木俊三氏の娘婿となり、同年にスズキに入社されました。ビジネスにおいても、「こんちきしょう」という思いをバネにしてこられた?

鈴木 43年も経営者を続けてきましたから、成功だけでなく失敗もかなり多いです。むしろ私は人よりも失敗が多かったかもしれない。その度に「こんちきしょう。今度こそ頑張ろう」と肝に銘じ、成功した時は「これが当たり前」だと思うようにして、ここまでやってきました。

――最も記憶に残っている失敗は何でしょうか。

鈴木 何といっても1975年の、自動車排出ガス規制への対応失敗ですね。当時の私は代表権こそないものの、専務として経営の一角を担っていましたから。

高度経済成長下の日本では、急増した自動車の排ガスによる大気汚染が深刻な社会問題となっていたんです。そこで政府は非常に厳しい排ガス規制を導入しました。自動車メーカー各社は、規制をクリアするための技術開発に力を入れていましたが、その中でスズキだけが、新型エンジンの開発に失敗してしまった。

このままでは規制が施行された後には車を一台も作れなくなる。とうとうスズキも倒産か、と途方に暮れていた時、手を差しのべてくれたのがトヨタさんでした。「排ガス規制は自動車業界全体にとって大きな問題だから、今度ばかりはお助けする。だが、早く立派なエンジンを開発して、独り立ちしてほしい」と、エンジンを分けてくださった。

トヨタさんには大変感謝すると同時に、よそさまにご迷惑をかけることはあってはならないし、してはならないと反省しました。ちゃんと売れるものを作って商売をしていこうと、しみじみ思いましたね。

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――会社の存続が危ぶまれるほどの経営危機だったわけですね。

鈴木 不思議なことに、スズキは大体25年周期で、会社存亡の危機に見舞われてきたんです。最初の危機は、1950年の労働争議。この時、私はまだ入社していませんでしたが、会社が倒産寸前まで追い込まれたと聞いています。2度目の危機が、この1975年の排ガス規制。そして3度目の危機は、1998年の軽自動車の規格改定です。その後も色々とありましたが、とてもここではお話しできませんね(笑)。

ただ、苦境に立たされた時こそ、己を見つめなおすチャンスだと思っています。大切なことは、過去の危機の経験から学び、いかに次世代に伝えていくかということです。

「アルト」で大逆転

――排ガス規制の余波が残るなかでの社長就任となりましたが、翌79年に発売された初代アルトが爆発的な大ヒットとなり、スズキは軽自動車のトップメーカーとなりました。アルトはその後もモデルチェンジを繰り返し、昨年には9代目が発売されました。やはり鈴木さんにとって、1番思い入れのあるクルマでしょうか。

鈴木 実は、私が社長に就任した時には、新型車の開発はかなり進んでいて、年内には発表できる段階にまで来ていました。ところが、開発中の実車を見ても、いまひとつピンとこず、ありふれた車としか思えませんでした。

当時は軽自動車そのものの売れ行きが大きく落ち込んでいる時代でした。値段の安い軽自動車は、日本が高度経済成長期に差し掛かった60年代には大きく伸びましたが、その終盤からは売れ行きが鈍り始めていました。さらに、新しい排ガス規制に対応する新型エンジンの開発に失敗したことで、スズキは会社全体が打ちひしがれて、社員たちはすっかり自信をなくしていました。

ここで軽自動車の退潮に歯止めをかけなければ、スズキという企業が消えてしまうかもしれない。そう思うと中途半端な商品を発表するわけにはいきません。そこでアルトの発売を1年延期し、内容を徹底的に見直すことにしたんです。

――具体的には、何を変えられたのでしょうか。

鈴木 まずは、今でいうマーケット調査をやりました。うちの工場に出掛けて、従業員の車を眺めていた。すると、軽トラックで出勤してくる従業員が何人もいたんです。

「なんで軽トラックで通勤しているんだ」と質問すると、奥さんが小売業をやっていたり、「半工半農」で兼業農家をしている従業員が多かった。休みの日は奥さんの仕入れを手伝ったり、野菜を市場に出荷しなければならないのです。軽トラックと乗用車の2台持ちはできないから、使い勝手がよい軽トラックのほうを選ぶのだということでした。「本当は軽トラックで通勤したくはないんだけど、あんた、乗用車を買える給料をくれないじゃないか(笑)」なんて言われましたね(笑)。

これがアルトの発想の原点になりました。「商用車」あるいは「乗用と商用の兼用車」にチャンスがあると感じたのです。そこで、アルトをあえて「乗用車」ではなく、後部に荷物を置くスペースを広くとって「商用車(ボンネットバン)」として売り出すことを決めました。一見すると乗用車に見えるのですが、農作物の出荷やちょっとした配達にも使えるクルマにしたのです。

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初代アルトと並ぶ鈴木氏(左端)

安くするために軽くする

――生活の様々な場面で使えるということですね。

鈴木 今風の言葉で言えば、マルチパーパス(多目的)。新車発表会では「アルトきはレジャーに、アルトきは通勤に、またアルトきは買い物に使える、アルト便利なクルマ。それがアルトです」というキャッチフレーズが話題になりましたが、あれは私が土壇場で思いついたものでした。

――初代アルトの価格は、全国統一で47万円。これは当時では破格の安さでした。

鈴木 これは技術陣の努力によるものでした。技術の最高責任者だった稲川誠一さん(後の会長)には「一台あたりの製造コストを35万円にしてほしい」と伝えました。当時の製造コストは少なく見積もっても45~50万円。無茶苦茶な要求でしたが、コストダウンに懸命に取り組んでくれました。どうしてもコストが下がらないと言ってきたので、「エンジンを取ったらどうか!」と言ったこともあります(笑)。それくらい発想を変えて欲しいと思ったのですが、稲川さん達は良く応えてくれましたよ。

スズキには『小・少・軽・短・美』という基本方針があるのですが、これは、小さく・少なく・軽く・短く・美しくという言葉の頭文字をとったものです。製品は勿論、工場など社内の全てにおいて、『小・少・軽・短・美』を実践することで、単なるコスト削減だけでなく、社内のあらゆるムダを削減しています。その始まりがアルトだったのだと思います。

同じように『一部品1グラム軽量化・1円コスト低減』にも取り組んでいます。自動車1台につきおよそ2万点の部品が使われていると言われています。これを部品1点当たり1グラム軽くし、1円安くできれば、車1台では20キロ軽くなり、2万円コストが下がるんです。車体が軽くなれば当然燃費も良くなります。これらの考え方は、今も昔もこれからもスズキのモノづくりに生きていくのだと思います。

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ニッチでなければ勝負できない

――海外での事業についてもうかがいます。初代アルトで勢いを取り戻したスズキは、1981年にアメリカの自動車メーカー・ゼネラルモーターズ(GM)と提携し、北米市場に進出します。記者会見の「規模の大きいGMに飲み込まれてしまうのではないか」との質問に、「GMは鯨で、スズキは蚊。スズキがメダカなら鯨に飲み込まれてしまうが、小さな蚊なら、いざという時にでも空高く舞い上がり、飛んでいくことができる」と答えられたことは、大変話題になりました。

その後も、インドやパキスタン、ハンガリーなど、日本の大手自動車メーカーが手を伸ばさない国や地域に進出し、成功を収めてきました。以前、鈴木さんに海外進出についてうかがうと、「我々はニッチな市場じゃないと勝負できないんだよ」とおっしゃっていましたね。

鈴木 私が社長になった時、スズキは日本の自動車メーカーにおいて12社中の12位。スズキはもともと小さな企業ですから、頑張ったところで日本では1位になれそうもない。ならば外国でもいいから、1位になれる市場を探そうと考えました。自動車メーカーとしてのスズキの特徴は、小さい車に強いことです。「自分たちの得意分野でナンバーワンになりたい」という気持ちで、海外の事業に取り組みました。最近気が付いたのですが、考えようによっては、自動車メーカーが無い国へ行って、1台でも生産して販売すれば、国内生産車シェアは100%でシェア第1位になれるんですよね(笑)。

あまり知られていないのですが、海外市場で言えば、スズキにとって最も歴史が深いのが実はパキスタンなんです。1975年、パキスタンの国営企業を通じて、ジムニーの生産を開始。これがスズキの四輪駆動車初の海外生産となりました。1982年には、政府傘下にある自動車公団との合弁会社を設立しました。乗用車と小型トラックを生産・販売しています。本当は自力でやりたいのですが、いかんせんスズキは小さいメーカーなので、外国で自力でやっていく余裕はない。合弁で割り切りました。

スズキの工場はカラチにあるのですが、それまでカラチ市内で荷物を運ぶのは馬車ならぬロバ車、市内はロバの『落とし物』だらけ。特にカラチという街は乾燥しているものですから、すぐに乾燥して粉々になって舞っていく。その粉塵を吸い込むことでいわゆる風土病が蔓延していたんだそうです。ところがキャリイトラックが発売されるや否や、あっという間にキャリイがロバ車にとって代わってしまった。それでパキスタンではキャリイのことを親しみを込めて『スズキのロバ』と呼んでいただいているんですよ。本当に嬉しいことです。

――パキスタンの人たちは相当喜んだことでしょう。

鈴木 こんな話もありますよ。NHKの鈴木健二アナウンサーがカラチを訪れた際の話です。現地のホテルにチェックインをしたところ、名字が同じ「鈴木」というだけで、スズキの関係者としてVIP待遇を受けたらしいんです。日本から遠く離れたパキスタンで「鈴木/スズキ」が高い評価を受けていることに、非常に感激したと、ご本人の著書に書いてありました。

GMがつないだ縁

――海外市場の中でも、インドはスズキにとって最も重要な市場となりましたね。現在、インドでの乗用車の販売台数のうち、スズキは約半数を占めている。圧倒的なトップシェアを獲得しています。今年3月には、岸田文雄首相の訪印にあわせて、インドでの電気自動車および車載電池の現地生産を発表しました。

鈴木 インドは世界で類を見ない小型車中心の市場です。そのインドへの進出を決めたのは1982年のことでした。

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