
【68-文化】「観る将」という深い沼 AIの急速な進化が将棋のイメージを変えた|松本博文
文・松本博文(将棋ライター)
「観る将棋ファン」
「相撲ファン」とはどういう人を指すだろうか。ひいきの力士がいて、相撲の取組を国技館などの現地か、あるいはNHKのテレビ中継などで熱心に観戦する。こういう人は、昔も今も相撲ファンと呼ばれるだろう。観る側が相撲を取るかどうか、などは関係がない。
これが「将棋ファン」となると、そのイメージはずいぶんと違う。かつてはまず頭に浮かぶのは、家庭や職場や学校などで実際にプレイヤーとして将棋を指している人たちだったと思われる。
将棋の雑誌を開いてみれば、そうしたプレイヤー向けの上達法の記事が多く掲載されている。逆に、相撲の雑誌には、どうすればファンも強くなれるか、という記事はほとんどないだろう。
ところが将棋ファンのイメージは最近、ずいぶんと変わってきた。相撲のように観戦専門の人たちが増えてきたからだ。それを「観る将棋ファン」、略して「観る将」ともいう。
なぜ「観る将」が増えてきたのか。
まず、相撲界に多くの名力士が存在するように、将棋界にも多くの名棋士が存在する。そうしたスターたちの人となりは、昔から注目され続けていた。
たとえば1980年代末から現在に至るまで、将棋界の輝けるスーパースターは、羽生善治九段だった。若き日の羽生九段は七大タイトル同時制覇という前人未到の偉業を達成して、社会的なフィーバーを巻き起こした。その存在は将棋界という枠を超えて、現代の知性の象徴のようにも見なされている。
羽生九段はずっと有名だったが、最近ではキャラが立った他の棋士の存在にも世間は注目し始めた。
昭和の中頃、数々の最年少記録を打ち立て「神武以来の天才」と呼ばれた加藤一二三九段は名人位にも就いて、将棋界の頂点をきわめた。将棋ファンで加藤九段を知らない人はいなかった。しかし加藤九段がテレビのバラエティ番組に連日登場し、多くの人から「ひふみん」と親しまれるようになる未来は、古参の将棋ファンには想像しえないものだった。
将棋界の重要なコンテンツは指し手の記録である「棋譜」だけではない。将棋指したちのドラマ、エピソードを追いかけるだけでも、実は十二分に面白い。現在、インターネット上では将棋界に関するさまざまな情報が伝えられている。「観る将」にとってはそれだけでも最高のエンターテイメントであったりする。
将棋とインターネットはもともと、非常に相性がよかった。「観る将」が増えた要因は、ネットの普及によるところが大きい。将棋界は一面、伝統的で保守的な側面を持つ。しかしもう一面では、新しい技術を利用することにも長けている。
「観る将」という言葉が広がるにつれ、レトロニム(再命名語)として、従来イメージされていた将棋ファンは「指す将」と呼ばれるようになった。