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緊急座談会《危機のリーダーの条件》 第3章 第2次世界大戦「勝敗を分けた決断力と知性」 近衛文麿、東條英機、チャーチル、ドゴール、ヒトラー

日本を救えるのは誰か?明治維新から米中対立まで、全5時間の大討論!/葛西敬之(JR東海名誉会長)、老川祥一(読売新聞グループ本社会長)、冨山和彦(経営共創基盤グループ会長)、片山杜秀(慶応大学教授)

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(左から)葛西氏、老川氏、冨山氏、片山氏

日本の敗因はどこに?

——世界的な危機となった第2次世界大戦に話題を移したいと思います。明治維新による近代化を成し遂げた日本は、日清戦争、日露戦争までは上手く国家を運営できているように見えました。ところが第2次世界大戦前から、徐々に国家を導くリーダーの能力が低下し、最終的に太平洋戦争で悲惨な結末を迎えます。

この時代における日本の敗因はどこにあったのか、ご意見をうかがいたいと思います。

片山 まずは明治維新以降、第2次世界大戦に向かうまでの日本の歴史の流れを振り返ったほうがいいでしょうね。黒船来航以降、1890年に明治憲法が施行されるまでは、明治政府は危ない橋の上を歩き続けました。坂の上の雲を目指しまっすぐ昇って行ったように見えますが、実際には、国内外とも情勢が目まぐるしく変化しましたから、元勲といえども政権の座からいつ転がり落ちてもおかしくない状況でした。

国が安定したのは、日清戦争(1894~95)と日露戦争(1904~5)をなんとか切り抜けてからのことです。日露戦争直後は、まだ伊藤や山縣らが健在でしたから国家のガバナンスが効いている状態でしたが、その後、大正から昭和初期になっても彼らの立場を継ぐ人材がなかなか現れず、明治維新で築いた貯金をだんだんと切り崩していくことになります。

葛西 日本海海戦で、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊相手に劇的な勝利をおさめた後、国内外ともに安定の時代が訪れたことで、明治維新以来「外向き」だった日本は次第に「内向き」に戻って行きました。

老川 日清・日露戦争に勝利したことで国家として緩みが生じ、政治家や官僚から危機意識が消えたのは確かですね。その国家の緩みがよく反映されているのが、満州における張作霖爆殺事件(1928)への対応です。当時の田中義一首相は、昭和天皇に事件の経緯を報告し、「軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する」と、いったんは約束します。ところが内閣に持ち帰って大反対にあい、首謀者である河本大作大佐の処分に踏み切れず、責任をうやむやにしてしまいました。

これを聞いた昭和天皇は「話が違う」と激怒し田中に辞職を迫りますが、元老の西園寺公望が「天皇が直接、そんなことを言ってはいけません」と、逆に天皇をたしなめてしまった。西園寺は山縣、松方正義なき後の最後の元老でした。天皇に代わって西園寺が田中を叱るべきだったと私は思いますが、そうしなかったため、結果的に軍部の横暴を容認する形となりました。これが後々まで仇となります。厳しい処分をとらなかったことで、陸軍の軍紀は緩み、のちの暴走にも繋がっていきました。

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“2世経営者”が大量生産された

葛西 明治維新に功のあった元勲たちは、天皇制も含め、自分たちが国家システムを作り上げたという自覚と誇りを持っていました。だからこそ、「我こそが国家を率いるのだ」と、建国者としての強い自負と当事者意識を持ち、国の重要課題に取り組むことが出来たのです。自分たちが担ぎ上げた天皇を敬いつつも対等に向き合い、時には真正面から意見を述べることまでしました。

ところが明治憲法の下で、国家の頂点に天皇が君臨し、陸海軍を直率することになった。そのため日本の人材育成はリーダーではなく、天皇を支える優秀な参謀・官僚を育成することに主眼が置かれるようになります。陸海軍も中央官庁も成績重視となり、“2世経営者”のような人材が大量生産されることになりました。こうなると内向きになるのは自然の流れで、彼らにはトップに立って国を率いるという気概や当事者意識もなく、組織での出世ばかりを気にするようになる。第1次世界大戦から国際情勢が激変していく中で、強力なエリートが主導する欧米列強に対し、人材の存在感が低下した日本が太刀打ちできなくなったのも当然でした。

片山 明治以降は高等教育の充実が図られ、陸軍士官学校、海軍兵学校、旧制高等学校に帝国大学など、様々な教育機関が次々と作られました。欧米にも留学生を大勢送り込み、社会全体の知性が底上げされた時代でしたが、教育内容に限界があったのかもしれません。試験選抜のエリートは国家のリーダーとして必ずしも通用しない。これはいつの時代にも起こりえることで、興味深い問題をはらんでいると思います。

葛西 成績主義に偏った教育では、専門的知識を持った人材は育ちますが、大局観を持ったリーダーは生まれず、内向きのお山の大将が増えるだけ。若い頃から外向きで育った明治の元勲たちが、大局を俯瞰する力を持っていたのと対照的です。徳富蘇峰は「山縣有朋が生きていれば、日米戦はなかった」と言っています。

冨山 明治維新はいわば内乱ですから、自分がいつ殺されるかわからない状況です。明治政府が樹立されて以降も、いつ転覆されるか分からないというシビアな状況の中、大久保、西郷や、それに続く世代が、次々と決断を下していました。そういった極限状況の中で磨かれた判断力、胆力が国家のリーダーには必要なのです。日露戦争でも、戦争の長期化を回避すべく、伊藤は側近の金子堅太郎を送ってアメリカに仲裁を働きかけた。あの判断は、やはり経験によって研ぎ澄まされた勘に裏打ちされたものでした。

それが日露戦争以降、意思決定の訓練を積む修羅場が少なくなり、お勉強中心のエリート教育が重視されるようになった。知識や分析力を備えた人材は数多く輩出されても、実践経験が圧倒的に欠けていました。

老川 明治維新のリーダーたちは幕藩体制を破壊し、日本の近代国家としての礎を築いた革命家でした。これは現代にも示唆的なことかもしれませんが、人間は安定した状態に安住しすぎると、自己鍛錬の意識が薄れ、資質のレベルも下がってきます。そうであればなおさら、平時における人材の育成が重要になるわけです。

いかに権力を集中させるか

——第2次世界大戦に向かう日本においては、満州事変を企て世界最終戦争を夢想した石原莞爾にしても、ポピュリズムに流されたかに見える近衛文麿や、エリート軍人の官僚的な限界を露呈した東條英機にしても、厳しい現実を客観視せず、的確に判断を下すことができなかった指導者が目につきます。当時の統治機構のあり方にも問題があったのでしょうか。

片山 元勲たちが次々と世を去った大正期以降(1912~)は、いかにして内閣総理大臣に権力を集中させ、リーダーシップを発揮させるか苦心する時代が続きます。明治国家のグランドデザインには、天皇の下に各機関が横並びとなる欠陥があったため、縦割り構造を超えて行政と立法をマネジメントできるリーダーが必要だと考えられたのです。

そこで編み出されたのが平民宰相、原敬に代表される「政党政治」でした。もともと伊藤博文の作った明治憲法体制下では、議会でどの政党が多数党になろうが、それとは関係なく天皇の大命降下によって総理大臣が選ばれ、政党に関係のない組閣がおこなわれていました。政党政治が試みたのは、選挙で勝った与党のリーダーを総理大臣に任命し、その政党のメンバーを多く閣僚にするということ。国民の声を代表する与党が議会と内閣を支配することで、つまり、戦後憲法で実現した議院内閣制を作り出そうとしたわけです。

この政党政治を完成させる仕組みが、1925年の普通選挙法だったはずでした。ところが、タイミング悪く世界大恐慌が起こり、誰が舵を取ってもうまく行かない時代に入ってしまった。政党は選挙で勝つために派手な公約をぶち上げるものの、国民に嘘を見抜かれ、切り捨てられてしまいます。次第に国民の期待は、軍部に向かうようになりました。

1932年、海軍青年将校らが起こした五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、政党政治は終焉を迎えます。山本薩夫監督の映画『戦争と人間』に、「これからは軍人さんの時代なんだよ」でしたか、芦田伸介扮する財界人の名台詞がありました。そういった軍部独裁の時代が到来するのです。でも軍人は、政党人よりもはるかに政治が不得意でした。斎藤實や岡田啓介や米内光政の海軍軍人の内閣、林銑十郎や阿部信行率いる陸軍軍人の内閣、外務官僚の広田弘毅や司法閥の平沼騏一郎の内閣など、一通り登場しましたが、名宰相は一人もいなかった。やはり国民の力を大きく束ね、強い権力を持てる内閣は、議会と国民を背景にした政党内閣ではないか——その時に、最後の「切り札」として期待を集めたのが公爵で貴族院の政治家だった近衛文麿だったのです。

石原莞爾

石原莞爾

日本を破滅に導いたブレーン集団

葛西 近衛に対する期待は相当なものだったのでしょうが、結果的には、典型的なポピュリズムの政治家でした。第1次近衛内閣では、東亜新秩序を唱え、アジアへの進出を図って日中戦争の泥沼にはまった。第2次内閣では、日独伊三国同盟を締結(1940)して英米を敵に回してしまいました。

近衛のポピュリスト的な政策を考え出したのが、ブレーン集団「昭和研究会」です。これは政界、官界、学界、言論界まで左右を問わず幅広くエリート人材を集めたグループでしたが、彼らに通底するのは観念的なドイツ学派的な考えだったと思います。英米的な経験主義とは正反対で、非現実的なドグマ(独断)に囚われていた。彼らが「東亜新秩序」や「新体制運動」を提唱し、日本を破滅の道に導いていったのです。この昭和研究会こそ、近衛政権のポピュリズムの元凶だったと私は考えています。

近衛文麿

近衛文麿

日米開戦の回帰不能点は?

片山 近衛は、昭和研究会が掲げた新体制運動の流れから大政翼賛会を組織し(1940)、混乱した日本をもう一度仕切り直す試みにも出ています。それまでの政治は、軍が政府に逆らって横暴を続け、各省庁はバラバラに動き、衆議院や貴族院が勝手なことを言い、ことあるごとに右翼が圧力をかけていた。欧州で第2次世界大戦がはじまり日本にも危機が差し迫るなか、近衛としては早急に国をまとめる必要があったわけです。

それで「今こそ全ての政党を廃止し、大同団結で挙国一致の巨大政党を作るしかない」と考えた。大政翼賛会は、ヒトラーのナチスドイツを参考に、全ての政党を解散・合流させ強大な政治権力を握ろうとする試みでした。ヒトラー並みの権力をもって軍も内閣も議会も全て抑え込み、日本の政治力を回復させようとしたのです。結局は、「そこまで権力を集中させるのは天皇陛下に畏れ多い」「現代の征夷大将軍か摂政関白にでもなるつもりか」と、右翼に批判されて挫折してしまいましたが。

葛西 近衛が犯した最大の失敗は、間違いなく日独伊三国同盟の締結でしょう。以前、アメリカの海軍軍人と食事をする機会があり、日米開戦の「ポイント・オブ・ノー・リターン(回帰不能点)」はどこだったかと質問したことがあります。彼は迷わず「三国同盟だ」と答えた。三国同盟はイギリスに対抗する軍事同盟ですから、アメリカとしては「日本と戦わざるを得ない」とあの瞬間に腹をくくったというのです。

冨山 三国同盟は、近衛のプラグマティズムが最悪のかたちで出たものです。第2次大戦の開戦当初はドイツがフランスを降伏させ、イギリスも苦戦を強いられていた。近衛は一時期の戦局だけを見て、「イギリスが負けそうだから、ドイツと組めば安心だろう」と非常に危ない決断をしてしまいました。アメリカの存在などは頭の中になかったはずです。

葛西 結局、アメリカから在米日本人の資産凍結・石油の対日禁輸などの経済制裁を課され、近衛は「こんなはずじゃなかった」と大慌てになります。最後は万策尽きて政権を投げ出します。

老川 近衛はもともと貴族の出身で、若くして気品があり、教養もあったから、国民的人気も高かった。それは同時に、政治指導者になるための修練を積んでいないという弱点でもあり、粘りや意志の堅固さでは欠けるところがあった。だから、思うようにならないとすぐに首相の座を放り出し、あるいは「蒋介石政権を対手とせず」といった重大な談話を簡単に発して、収拾のつかない事態を自ら招いてしまったのでしょう。

首相、陸相、参謀総長を1人で兼任

片山 近衛の辞職後は、成り行き任せで太平洋戦争に突入しました。開戦時の首相が東條ですね。東條は、日本の首相に戦争指導をする権限があまりに欠けていることに愕然とします。しかし、大政翼賛会のような政治改革をおこなうアイデアも時間もない。そこで始めたのが兼職でした。首相、陸相、軍需相に陸軍参謀総長と片っ端から兼務していった。近衛が大政翼賛会でやろうとした縦割り打破と権力集中を、1人で職を兼ねることでやりおおせようとしたのです。しかし、いくら「カミソリ東條」でも能力の限界があり、かえって戦争指導が遅滞しました。世間は「東條ファッショ」、日本のヒトラーだと批判し、反東條運動が起こります。暗殺も企てられた。日本ではいつの時代も、権力を集中しようとする者への反発は凄まじいのです。

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