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西川史子さんロングインタビュー「シンプルに、自分が心地良いと思う仕事や人間関係を重ねて楽しくやっていきたい」

まだ文化人枠が少なかった90年代末から「ミス日本の女医」として芸能活動を開始し、20年にわたってテレビを賑わせてきた西川史子さん。4月に50歳を迎えたばかりの西川さんに、芸能界の第一線から距離を置く理由や、これまでのタレント業での思い出などについてじっくり伺いました。(聞き手・構成=小泉なつみ/ライター)

◆ ◆ ◆

――4月に50歳のお誕生日を迎えられたとのこと、おめでとうございます。50歳になってみて心境の変化などありましたか。

西川史子さん(以下、西川) ありがとうございます。運命に流されず、逆らわずみたいな心境ですね。苦しんだり我慢したりするのではなく、楽しい時間を増やしていきたいなと、ゆるく考えています。ただ、勤めているクリニックの看護師さんがわざわざ、細木数子の六星占術を読み上げてくれたおかげで、自分が大殺界中であることを知りまして。細木さんいわく来年まで動くなということだったので、落ち着いて、穏やかに過ごしたいですね。

――2020年1月からタレント業を大幅に減らしはじめ、2020年3月には『サンデー・ジャポン』を卒業。本業である医師としてのお仕事へと軸足を移されたんですよね。これまでの生活とかなりギャップがあったのではないでしょうか。

西川 テレビの仕事は時間帯が普通ではなかったので、クリニックでの9時から19時勤務という人間らしい暮らしに慣れるのに時間がかかりました。普通の時間に帰ってきてココとしのぶ、2匹の犬にご飯をあげて、それから自分の夕飯を食べる……みたいなことがずっとできていなかったことに気がつきました。あとはまあギャップというか、目が見えなくなってきたという実感はあります(笑)。作業に応じて、老眼鏡を毎回替えなきゃいけない。
 
――なぜ昨年のタイミングで医業をメインにするキャリアシフトを決断したのですか。

西川 それこそ50になる前に今後の人生をどうしていこうか、考えた結果でした。離婚後も以前と同じような生活を送っていたんですけど、もっと「自分の軸になるもの」は何だろうかと。自分は一体何者なんだろうという考えに立ち返った時、「やっぱり私は医者なんだ」と原点に戻った感じですね。医者になるのには大金がかかっていますから、その元を取らなきゃっていうのもあります。

――そもそも、なぜ医師である西川さんがテレビで活躍することになったのですか。

西川 直接のきっかけはホリプロの部長のスカウトでした。でも当時はバラエティに出たいとかタレントになりたいと思っていたわけではなく、医療についてわかりやすく情報発信する存在になれたらいいなと思っていました。でも結果的に、バラエティの方が楽しくなっちゃったんですね。

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西川史子さん(写真=鈴木七絵/文藝春秋)

――つまり、芸能の仕事としてはまるっきり素人だったわけですよね。そのトーク力は一体どこから……?

西川 私はただただテレビが大好きで、起きたらリモコンのボタンを「ポチッ」と押してたから、家族に「起きポチちゃん」と呼ばれていたくらいテレビっ子だったんです。『欽どこ』や『ひょうきん族』、ドリフ、松田聖子さん……。70年代~80年代に浴びるように見たテレビは全部がキラキラしていて。だから自分がそこに出させてもらうなら、何か役目を果たさなくちゃ、という思いはありました。

――役目というのは、「毒舌キャラ」のことでしょうか。

西川 それはキャラというか、本当の気持ちを大げさに表現していただけで、全部本音だったんですよね。私には医者という本業があって、芸能活動やテレビに出ることは純粋な「趣味」なんです。だから好感度なんかを気にせず、正直に感じたことを話せた。同世代の女性たちが「これは変でしょ」と考えていることを「変だよね」とテレビで言えないと、私が出させてもらっている意味はないと思っていました。たとえば今なら小室圭さんの話題とかですね。

 ただその役目を果たさなきゃという気持ちが大きくなりすぎてしまった結果、ずいぶんキャラに食い殺されてしまったとは思います。

――心がけられていたのは、時代の空気を代弁する、みたいなことですか。

西川 そんな高尚な気持ちはないんですよ。ただ私が言いたいことを吐き出していただけで、私はたぶん普通の人なんです。有吉(弘行)さんからつけてもらったあだ名は「普通のおばさん」ですから。わあ、この人は本質を見てると思いました。

――「素人のくせに」みたいな業界内からのやっかみはなかったですか。

西川 「素人が出てくるな」というのはすごく言われましたね。タレントさんから「医師免許があるからいいわよね」という言葉を投げかけられたり。あとは医者仲間から、「同じ学校の出身者だと思われたくないから大学名を言わないでくれ」とか「医者を名乗るな」とか、色々言われました。

 でも、そんなことはなんでもないくらいテレビの仕事が面白かったんです。今はもう自分の出た番組を全然見ないようになりましたが、昔は番組ひとつにつき、300回は見返していました。どこを使われて、どこをカットされたのかとか……。

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――西川先生といえば、やはり13年にわたってレギュラー出演していた『サンデー・ジャポン』の印象がお茶の間に浸透していると思います。生放送だけに毎週プレッシャーも大きかったのでは。

西川 最初は病気の解説といった「医療情報を伝える文化人枠」みたいな形で呼ばれていたんですが、そのうちにレギュラーになって。私はずっと、画面から見て一番左はじの席に座るのが夢だったんです。自分の右側から見た横顔が好きだから、右から撮ってもらえる位置に座りたかったのね(笑)。でもその場所をもらったことで今度は「何か言わなきゃ」って自分で自分を追い込んでしまって、前日にお腹を壊すこともありました。

――メンバーに相談したりしたのですか。

西川 (爆笑問題の)田中さんにはよく相談していましたね。太田さんは全く知らなかったと思いますが(笑)。『サンジャポ』卒業、最後の日の放送で田中さんが、「ある時期、西川さんが日本中のタレントの中で一番テレビに出てた時代があったよね」とねぎらいの言葉をかけてくれて。この言葉はオンエアされてないと思うんですけど、「そっか、私頑張ったんだよね」と思えて、それはすごく嬉しかったです。

 一番忙しかった時期は、それこそ一日何時間カメラの前にいたんだろうっていうくらいで……週6稼働で一日2、3現場は当たり前でした。月曜日だけはクリニックの診察に出ていたのでお休みしましたが、マネージャーはタレントの仕事が入らない日に熱を出してくれるんですね(笑)。あまりに忙しくて、周りが倒れることはよくありました。

――そんなに多忙な中で、ご意見番としての情報収集はどうやって続けていたのでしょう。

西川 「週刊文春」はよく読んでますよ、本当に。これは自分自身が書かれる立場を体験したから言えますけど、他の週刊誌と比べて文春はものすごく正確なんです。何回か載りましたけど、ほぼ全部合っていましたから。裏取りがしっかりしているんだと思いました。写真が綺麗なのは「FRIDAY」ですね。本当の情報を求めるなら文春で、自分が撮られるなら「FRIDAY」だねって、山本モナちゃんと話し合ったことがあります。

 今も「これってどう思う?」って何か意見を求められる時、「『サンジャポ』的にお願い」って言われることがあるんです。でも私はもう牙(きば)が抜けてしまっているから、だいたいが「別にいいんじゃない?」なんです。「死ぬわけじゃないしさ」と。でもそうなるとテレビ的ではなくなってくるんですよね。

――西川先生がかつて出した本のタイトルは『女盛りは、賞味期限が切れてから』『年収4000万にこだわる理由(わけ)』などですが、今こういった発言は……。

西川 さすがの私も気をつけています。制作側が求めるものも、以前とは変わってきました。『年収4000万にこだわる理由』は、最初は全然違うタイトルだったんですけど、数字を入れたほうがインパクトがあるだろうとか、いろいろ考えた末に決めたものでした。やっぱり「こういう方が面白いじゃん」という時代だったんですよね。

 そもそも「4000万」という数字は、勤務先のクリニックの院長が「君の生活は4000万か、3000万にプラス経費がそうとう認められる相手なら大丈夫ではないか」と算出してくれた数字なんですよ。私は3000万円だと思っていたんですけど。だから事実には基づいているんですが、今は何でもかんでも事実を言っていいわけではないんだと思います。

 これからのテレビは本当に面白くてためになるものが残っていく。今はそういう時代に向けた過渡期なのかなって思っています。

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――ご自身のことを今では「牙が抜けている」と。きっかけは何だったのでしょうか。

西川 離婚したことが大きいと思います。すごく傷ついたので、それでようやく辛い立場にいる人の気持ちが分かるようになりました。それこそ昔は「フラれる方が悪い!」という考え方をしていました。失敗や挫折を恐れていたんでしょうね。常に恋愛では計算して動いていましたし、女友達にも弱みを見せることはなかったんです。

――結婚生活中、夫の前でだらしない姿を晒すようなこともなかったのでしょうか。

西川 絶対、まったくなかったですね。

――でも、仕事から帰ってきたら疲れてませんか……?

西川 そこからが勝負でしたよね。結婚している間は24時間営業みたいな感じで、夫といるとゲップやおならも引っ込みました。妻とはそういうものだと、勝手に思い込んでいたんです。

――理想の結婚や夫婦像があったんですね。

西川 毎朝早く起きて化粧をしてから夫を起こし、夜は毎日一緒に夕飯を食べる。常に一歩下がって夫を立て、生活費をたっぷりいただいて年に2回は海外旅行に行きたい……と思っていましたが、気づくと私が彼の3歩前を歩いているし、19時半の夕飯に夫が間に合わないと激怒してしまう。別にいいじゃないですか、忙しければ外食でも別々に食べる日があっても。でも当時はそれが許せなかったんですね。

――改めて振り返ってみて、西川先生にとって結婚生活とはどんなものでしたか。

西川 あの時は本当に何も分かってなくて申し訳なかったと、今は思います。夢を抱いて、そこがゴールだと思って結婚して、「夫婦とはこうあるべき」を相手に押しつけた。「医師」としての自分も「タレント」としての自分もうまくいったから、ならば「妻」も完璧にやりたい、やってみせると思っていました。

 あんなに安らげない堅苦しい結婚生活、逆によく3年ももったと思います。ただそこには一番いい状態の私を見てほしい、もっと愛されたいという気持ちもあったんです。「おいしい」って言ってほしくて料理本を数十冊買い、「まずい」と言われた時の保険、その保険の保険と大量のおかずを作るので、夕食後はへとへとになっていました。でも、そんなことをしたって愛されるわけではないんですよね。

――結婚・出産とキャリアの両立で悩む人も多いですが、西川先生はその両立をどのように考えていましたか。

西川 20~30代は完全に仕事が優先でした。38歳で結婚したのは、子どもが欲しいと思ったから。自分の遺伝子を残したい、本能的に「今結婚しなきゃ」と感じたタイミングでした。でも結局途中から夫と仲が悪くなって子づくりどころじゃなくなってしまったから、自然の流れで子どもを持たずに終わったという感じです。

 産まない人生もあれば、産めない人生もあって、産む人生もある。どれが幸せかなんて分からないけど、どれでもいいじゃんって今は思います。だって絶対にどれかひとつの道しか選べないんですから、他と比べても仕方がないですよね。50歳になって、本当に気持ちが楽になりました。私は「仕事といったら仕事、結婚といったら結婚」という過激な性格なので、子どもがいたら子どもに一直線……という感じで大変なことになっていただろうとは思います。ただ今は2匹の犬(ココとしのぶ)に4つの瞳でずっと見られていて、それはそれで苦しいんですけども(笑)。

【#3 カンバン】NS6_8434

――離婚後、一時は入院されるほど心身にダメージを負ったそうですね。

西川 42歳で離婚して、直後にマンションを買ったりトイプードルを飼い始めたりしました。周りに「かわいそうな人」と思われたくなかったんです。でも、180万円で買った「ヘブンリーベッド」で悪夢ばかり見るし、テレビ番組の生放送前に吐き気が止まらなくて、一時期はお尻の下にエチケット袋を忍ばせてオンエアに臨むような状態でした。

 犬(初代ココ)が原因不明の病気で突然死してしまい、そのことも体調を崩す大きなきっかけだったと思います。周りに気付かれないようにと思っていましたけど、きっとみんなわかっていたでしょうね。頭皮には赤や黄色のまずい湿疹ができて、最終的に急性胃腸炎で入院したのが44歳です。病院のベッドで、「ああ、これで本当に私はかわいそうな人になってしまった」と思いました。

――その感覚は、人生ではじめてのことだったのでしょうか。

西川 それまでの私は、「目標」「成功」「気合い」「努力」みたいなフレーズが好きで、いつも何かに向かって前進しなくちゃいけない、そんな強迫観念がありました。でも病気をして無理ができなくなってはじめて、自分自身がすごく傷ついていたことに気付いたんですよね。40を過ぎてはじめて、思うようにいかない現実もある、という「挫折」を経験したんです。それは医者としてもすごくよかったことで、大変な人の気持ちに寄り添うことがどういうことなのか、ようやく理解できました。

 それからは離婚や不倫のニュースを見ても、「お互いいろいろあったんだろうな」と思えるようになりました。前は「絶対にこいつが悪い!」とかやってたんです。白黒つけなきゃ気が済まない性格でしたけど、今は「どっちもグレーね」です。

――周囲に素を出せるようになりましたか。

西川 弱みを見せたところで何も取られるわけじゃなし、むしろ分かり合えたりするのに……若いときはそれができなかった。特に女は全員敵だと思ってて、合コンのメンバーが揃えばいいくらいの存在でした。女同士でパジャマパーティとかディズニーランドとか、「なんて生産性のないことをするんだろう」と本気で思っていましたから。旅行だって女の子と行くなんて考えたこともなかったです。誰が荷物持ってくれるの? みたいなね。でも争ったり比べたりする必要がないとわかった今は、女の子と胸襟を開いて話す時間が楽しいです。

――お友達や若手芸人さんらを家に招いて「西川会」を開催されているんですよね。

西川 前はよくやってたんですけど、(双子のお笑いコンビの)ザ・たっちが家のじゅうたんに醤油をこぼしたんです。それから彼らを出禁にして、だいぶ会が滞ってしまいました。

――ザ・たっちのせいで西川会が崩壊したということですか。

西川 そうです。どっちが醤油をこぼしたかはいまだにわからないんですけども(笑)。

――実は以前、ホテルオークラで西川先生を何度かお見かけしたことがあります。ゴージャスな毛皮を着た方が早足で歩いていると思ったら、西川先生でした。

西川 その時はきっと気を張っていたんですよ。オン/オフでいえば、オークラのロビーは絶対にオンでしたから。披露宴をやった場所でもあるので、スタッフの人にも知り合いが多くて、絶対にすっぴんでは歩けない、気の抜けない場所でした。でも今は改装してしまったので、そうなるともう関係ないやって感じです。今は、かなり足遅いですよ(笑)。

【#1 アイコン、カンバン】NS6_8441

――「毒舌」「自信家」というパブリックイメージがあるように思うのですが、結婚中のエピソードをお伺いしても、西川先生は真面目で努力家というか。

西川 心配性なんですよね。大学受験の時も過去問3年分では安心できず、1971年の創立当時から全部集めて解きました。小学校の時から夏休みの宿題は7月中に終わらせていましたし、2泊の香港旅行のために用意したガイドブックは8冊。そんな性格だから、思いつきで明日からインドへバックパックで行く、みたいなことは絶対できないですね。

――では学生時代は真面目なタイプだったのでしょうか。

西川 狂ったように遊んでいましたが、家に帰ったら3分後には参考書を開いているような生活でした。母がとにかく教育熱心で、かなり偏りがあったんですけども、医者になるためには他のものをすべて犠牲にしてもいい、みたいな教育方針だったんです。朝帰りしてもまったく怒られなかったけど、とにかく勉強だけは必ずやれと。お小遣いも好きなだけくれたので、その散財っぷりから大学では「湯水ちゃん」と呼ばれていました。

――お母様の教育方針は大胆なものが多かったそうですね。

西川 極端ですよね。家庭科や美術といった医者になるのに関係のない教科の宿題は全部、母が業者に外注していました。バレンタインデーのチョコも、パティシエの人に「少し下手に作ってください」と注文して、すごく嫌がられていました。

――それはすごいですね。恋愛や結婚についてもお母様からアドバイスはあったのですか。

西川 「股をかけろ」というのが母の方針で。相手のルックス、学歴、収入、生い立ちなどを全部数値化して、いろんな男を比べろと言っていました。私自身、合コンには誰より遅れて行って、どんなに楽しかったとしても一番早く帰るとか、どんな振る舞いをすれば男にモテるかを研究し尽くしていたので、20代までは相手を選ぶのが大変なほどでした。

――しかも大学在学中には「ミス日本」でフォトジェニック賞を受賞されて、「西川無双」ですよね。

西川 今思えばそれがよくなかったんですけどね。フラれるのが怖かったから二股をかけていた……ということもあるし、挫折の経験がないから極端に失敗や負けを恐れていました。自分に自信がなかった裏返しですよね。

 数値化できる男性をずっと求めてきたわけですが、離婚を経験した今となっては、楽しい時間を一緒に過ごせる、気の合う人の方がよっぽどいいなと思います。そういう相手がまた見つかればいいですね。

――42歳での離婚のあと飼い始めた愛犬を突然亡くされた経験から、体調不良に陥ってしまった。その当時までは「挫折知らず」で「人生初の挫折が40代」だった……という西川先生は、医師としてのキャリアを歩まれるなかでつらかったことはありますか。

西川 西川家は代々医師の家系だったので、母にお尻を叩かれながら、とにかく医者にならなくてはと必死に勉強して医師免許も取れました。でもいざ研修医になってみると月給は5万円。それまでバイトもしたことがなかったですから、働く大変さを身をもって学びました。

 最初は今やっている美容皮膚科を専門としていたわけではなく、整形外科にいたんです。でも力がなくて患者さんの身体を支えられなかったんですね。これは致命的だと感じました。そんな時にたまたまボトックス注射を日本に広めた松倉クリニックの松倉知之院長に出会って、「これだ!」と思いました。履歴書を持参して「雇ってください」とお願いして、今に至ります。

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