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渡邉恒雄 文藝春秋と私「百歳まで生涯一記者だ」

駆け出し時代から数えたら、45本も寄稿していた。/文・渡邉恒雄(読売新聞グループ本社代表取締役主筆)

記者修行の場が「文藝春秋」

僕は大正15年生まれ、今年で96歳になった。できるだけ仕事は控えているが、今も週に何度かは会社に出勤している。中曽根(康弘)さんが101歳で亡くなったことを考えると、自分もせめて100歳までは生きよう、なんて考えるね。

この歳になるまで「生涯一記者」だと思ってやってきた。岸田総理まで過去、何人もの総理大臣と付き合ってきたし、幾度となく政治の重大な場面に立ち会ってきたのも事実だ。政治家に深く食い込んだがために「癒着だ」なんて見当ちがいな批判を浴びたこともあった。だが、自分の気持ちの中では、あくまでも一記者に過ぎないと常に分を弁えてきたつもりだ。今も社の「主筆」であることを誇りにしている。

政治家はみんながみんな立派なわけじゃない。総理大臣の中にも不道徳な人もいれば、頭の回転が遅い人もいたよ。新聞記者は決して尊敬できない人が相手でも、尊敬しているかのように振舞って取材しなくてはいけない場面もある。それがこの職業のつらいところであり、記者という商売の悪い側面とも言えるな。いったい、今の若い記者たちは、そのあたりのことをどう考えているのか気になるね。

現場に出ていないから分からないが、最近はどこか折り目正しく、小さくまとまっている記者が増えたんじゃないか。僕らの時代の新聞記者はみんなもっと泥臭くて粗っぽかった。義理も人情もない、とにかく特ダネを抜きたい一心。かく言う僕もそういう考えだったね。仲間のことなんか関係なくて、あちこちに一人で潜り込んで取材に行ったものだよ。

ニュースソースには困らなかったな。努力をしていれば人は見てくれているもの。万が一、取材対象者が相手にしてくれなければ、知恵を絞って別のルートから情報を取る。一記者に過ぎなくても、努力を惜しまなければ大概のことができた。それが当時からの実感だ。

僕にとって記者修行の場となったひとつが、この「文藝春秋」だった。駆け出しの頃から多くの記事を書かせてもらったけれど、今回、改めて調べたら、その数は45本にのぼる。多い時は1年に何本も書いたな。

渡邉恒雄のコピー

渡邉氏

文春の天才的な編集者

そもそも文春との付き合いは、田川博一さんに出会ったことがきっかけだった。本当に彼にはお世話になったよ。田川さんは、戦後の文春復興の祖である池島信平さん指導のもと、30代の若さで「文藝春秋」の編集長になり、「週刊文春」の編集長も務めた。一方の僕はまだ政治部の駆け出し記者に過ぎなかった。

僕の目から見て、田川さんは天才的な編集者だった。そして何よりも顔が広かったな。銀座の超一流クラブ「おそめ」や「エスポワール」に連れて行ってくれた。そこでは政財界の大物や著名な文学者が、ワイワイ一緒になって酒を飲んでいる。白洲次郎や、右翼の大物だった三浦義一なんてのもいた。彼らに接することができたのも、田川さんのお蔭だよ。

そんな田川さんからある日、「ナベちゃん、政界の裏話に精通している人を集めてくれる?」と頼まれたことがあった。「どうするの?」と聞くと、「記事にするから、話を聞きたい」と。

それで僕が5、6人の選りすぐりの政治記者を集めて夕食をとりながら、あれこれ政治談議をしたんだ。当時、銀座にあった文藝春秋ビルの中のレストランだった。田川さんが上手いこと聞き役に徹するものだから、みんなも酒が進んで安心して喋っちゃう。あれは、田川さんの人徳のなせる業だよ。

その話をぜんぶ速記にとって僕が一本の記事にまとめる。それが「政界夜話」という匿名連載になった。今でいうところの「赤坂太郎」と同じだな。ただ、少し違うのは、その時は、なぜか記事の最後に筆名で「V・O・J」(ヴォイス・オブ・ジャパン)と入れたんだよ。これが何とも洒落ていたね。

田川さんが紹介してくれた人たちは、その後、僕が取材するうえでも一流のニュースソースになった。そのネタで読売新聞の記事を書いたことだってあるよ。「他人の褌で相撲を取るとは、けしからん!」なんて批判されそうだが、本当のことだから仕方がない。逆に文春の記事の手伝いをして、田川さんが喜ぶなら何でもしたね。一時は「僕は文春の記者なんじゃないか」と錯覚したくらいだ(笑)。

そうやって田川さんとはいつも一緒だった。だから、彼が亡くなった時は悲しかった。大袈裟じゃなく、この世で僕が一番落ち込んだんじゃないかな。

「殺しちまおう」と囁く声

入社当時は社会部希望だった。政治部ではなかったんだ。新人は地方の支局に行って5、6年は草むしりするのが普通だったけれど、「僕はそんなことしてる暇はないな」と。東京本社で求人している部署を探したら、ちょうど社会部は募集があった。ただ、定員1名のところに3名の希望者がいて、落ちる可能性があるという。だから、すぐに週刊紙の「読売ウィークリー」に希望を変えた。ここなら地方に行かなくて済むからね。

僕は最初から特ダネ狙い。あの頃の記事で最も印象に残っているのは、これがのちに僕が政治部に引き上げられるきっかけになったんだけど、「山村工作隊のアジトに乗込む」という探訪記事だ。ウィークリーの取材だったのに、会社の指令で本紙社会面トップ(1952年4月3日朝刊)になった。山村工作隊は、武力闘争路線を掲げていた日本共産党の一派。非合法テロ組織のようなものだな。

ある日、飲み屋の親父と話していたら、「奥多摩に山村工作隊という組織があるらしい」と言うので、興味を持って一人でふらっと探しに行ったんだ。木々を掻き分け、山奥に入っていくと、断崖絶壁の谷底にバラック小屋がある。よく見ると煙も上がっている。「あんなところに人が住んでいるのか」とノコノコ降りていった。すると木陰から一人、また一人と顔を出して、こちらをジっと見ている。たちまち山村工作隊のメンバー10数人に取り囲まれてしまったんだ。

学生時代、僕は共産党に入党して、東大細胞として活動していた。記者になった頃は除名されていたけど、その事情を山村工作隊のメンバーは知っていたんだな。僕を警戒しながら何やらコソコソ話す声が聞こえてくる。「こいつ脱党者だ」「このアジトを警察に垂れ込まれる」とかなんとか。挙句の果てに「殺しちまおう」「穴掘って埋めちまおう」なんて囁くのも聞こえて来た。さすがに不味いと思ったね。

ただ、中に良識派もいて「生きて返そう」と他のメンバーを制してくれた。それが後に作家になった高史明だ。結果的に彼にインタビューをして、何とか助かったわけだけど、あの時、もし殺されてたら、今ここにいないよ。

言葉は悪いがクソ度胸だな。あの状況でもなぜかまったく動じなかった。命を賭けなきゃ、特ダネは取れない。たとえ殺されても、奴らだって警察に捕まって無期懲役刑にはなるだろう、なんて考えていたよ。

「読売ウィークリー」の時代には何本も特ダネを抜いたよ。局長賞も2度もらった。当時の政治部長の古田徳次郎さんは「山村工作隊の記事を見て、お前を政治部に採る気になった」と言っていたな。

キッシンジャーのゴシップ

「文藝春秋」で名前を出して寄稿するようになったのは、ワシントン支局長時代の取材をもとに書いた「ニクソン奥の院の怪人たち」(1972年7月号)という記事からだな。ニクソンは閣僚や官僚のことは信用しないで、地元の顔利きや成金、胡散臭い法律家など、政治のアウトサイダーを重用していた。まあ、補佐官政治と言えるかもしれないが、その決定過程には不透明な部分が多く、当時メディアから「予測不能な大統領」「孤独な決断」などと揶揄されていたんだ。

本誌1972年7月号

本誌1972年7月号

そんなニクソンの取り巻きの一人がキッシンジャーだった。「影の国務長官」と呼ばれ絶大な権力を誇り、宮沢喜一との日米繊維交渉にも担当外であるはずなのに、米国側の代表として彼がすべてを決めてしまうほどだった。ただ一方で彼には「秘密の色事師」という綽名がつくほどスキャンダルも多かったね。

当時、米国の「タイム」や「ニューヨーク・タイムズ」にはゴシップ欄があって、やれキッシンジャーがバーに女連れで来たとか、やれ机の下で女と手を握っていたとか書かれていた。普通の新聞記者なら「くだらない」と無視する情報だろう。だが僕は、雑誌は、新聞に書けない政治の裏側や醜聞も書くべきで、それが魅力だと考えていたんだ。

だから「文藝春秋」の「ニクソン奥の院の怪人たち」にも、ゴシップ欄の要素をふんだんに盛り込んだよ。キッシンジャーがガールフレンドに、ホワイトハウスを去る時の相談をしていたとかね。別の浮気相手が書いた暴露手記まで引用した。

僕の著書『大統領と補佐官――キッシンジャーの権力とその背景』にも、キッシンジャーの女のことは書いたな。ただ、これには後日談があって、キッシンジャーが来日した際、僕が赤坂や新橋の高級料理店や一流のバーに案内したんだよ。そんな高額、とても払えないから、当時の副社長を連れてね。

その時、キッシンジャーに「あなたについて書いた本だ」と言って本を渡したんだ。彼は快く受け取ってくれたけど、あとになって副社長から、「どうせ日本語だから読まないと思って渡したんだろう。図々しい奴だ」なんて叱られてね。僕は「すみません」と平謝り。ただ内心では、そこまで書かないと売れやしないと思っていたよ。

キッシンジャー

キッシンジャー

親友・中川一郎との決裂

帰国して政治部長や論説委員長などになってからも、「文藝春秋」には積極的に寄稿していた。とくに1974年に書いた「『青嵐会』を論ず」(7月号)や、1980年の「モスクワ五輪は中止すべきだ」(6月号)は思い入れが深いね。僕自身の記者としての姿勢が色濃く滲み出た記事だ。つまり記者として書くべきことがあれば、たとえ恨まれようが覚悟を決めて書くんだ。

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