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「桜を見る会」「IR疑惑」……自分のために働く“日本型エリート”とは何か。

今のエリートに、あの戦争を引き起こした「昭和のエリート」の姿が重なって見える――ノンフィクション作家の保阪正康氏はそう語る。問題が噴出する安倍政権。「諸悪の根源は、成績序列主義」だと、保阪氏は語る。

昭和のエリートの姿が

 日本のエリートの「型(かた)」は、いつの時代も変わらない――桜を見る会をめぐって噴出した内閣府の隠蔽体質や、IR汚職事件における国会議員の脇の甘さ、大不祥事が発覚してもなかなか辞任しない日本郵政グループや関西電力経営陣の居直り体質……昨年来つづく政治家や官僚、企業トップの体たらくを見るたびに、私はその思いを強くしています。

 在野の昭和史研究家として、私はこれまでに4000人以上の人から証言を得て、近現代史の実証的研究を続けてきました。そうして先達たちが昭和の時代をどう生き、歴史と向き合ってきたかを考察してきた私には、今のエリートとあの戦争を引き起こした「昭和のエリート」たちの姿が重なって見えてくるのです。

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保阪氏

 いうまでもなく、戦前の軍隊は「天皇の軍隊」と自らを称し、大元帥である天皇に忠誠を誓っていました。一方、今のエリート官僚たちは「公僕」であり、主権者である国民に奉仕する義務を負っています。

 しかし、昭和10年代に台頭した軍人たちの「天皇のため」はある種の偽装でした。「天皇のため」と口では言いながら、実際には「自分たちのため」であり、自らの勢力拡大と名誉を求めた結果、日本を泥沼の戦争へと導いたのです。

 明治15(1882)年に下された軍人勅諭はその冒頭で、「我が国の軍隊は世世(よよ)天皇の統率し給ふ所にそある」として、自分たちは天皇に忠誠を誓った軍隊であることを強調しています。ここでいう「天皇」の意味するところは、明治15年という時代を考えると、具体的に血肉を伴った大元帥としての明治天皇であることは明白でした。

天皇を神にしてしまった

 しかし、それから60年後の昭和18年8月に陸軍教育総監部が出した『皇軍史』を読むと忠誠を誓うべき天皇の意味が変化していることに気づきます。

『皇軍史』はもともと下級将校の教育本として軍内で読まれたもので、太平洋戦争が苛烈になるにつれ、一般向けに軍内教育がどのように行われているかを知らせるために刊行されました。当時戦況は切迫し、軍部は国民の全てを兵士化しようとしていましたから、その教科書にする狙いがあったのだろうと思います。全部で681頁もありますが、この本で重要なのは次の点です。

「日本の軍隊は神軍である」と序文で宣言し、皇軍を神軍としたこと。そして「その神軍は神武天皇という神が率いた軍が出発点だった」と強調されていることです。

 つまり、日本軍がこれまでの戦争で負けなかったのは、我々が神武天皇という神に率いられた軍隊を起源としているからだというのです。太平洋戦争末期に、日本は決して負けない、最後は神風が吹くからとか、特攻隊員を神風特攻隊と称した所以はまさにこの点にあるのですが、重要なのは『皇軍史』では、軍が忠誠を誓うべき天皇を、現実に存命する生ある存在から、神としての存在に置き換えてしまったことでした。

 神は具体的な人ではありませんから、勝手なことをしても何も咎められません。国民を総動員して戦場に送った後、次々と玉砕の報告が来ても、参謀たちは責任を取らない。作戦の外道と自覚しながら、神風特攻隊まで始めてしまう。忠誠を誓うべき対象を抽象化したことで「たが」が外れてしまったのです。

 こうしてなんでもかんでも「神のため」だとする究極の無責任体制が出来上がってしまいました。軍上層部に、連戦連敗の日本軍を「神軍」と本気で信じていたエリートがどれだけいたかは疑問です。

 翻って現代のエリート官僚にもこれと同じ構図が当てはまります。

 今の国家公務員は任用される際に宣誓書に署名して任命権者に提出することになっています。その宣誓書の中には次の一文があります。

〈私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います〉

 しかし、ここに記された「国民」とは誰なのか。「国民」と書くしかないのかもしれませんが具体的に誰のために奉仕するのかが抽象的で、イメージしにくいのです。

 戦後、GHQ占領下の日本で軍部は解体され、「天皇(神)のための軍隊」はなくなりました。しかし昭和22年に大日本帝国憲法から日本国憲法へ移行する際に、GHQは日本統治のため官僚組織の主要な制度をそのまま温存します。

 つまり日本の官僚組織は、戦後「天皇のため」が「国民のため」に置き換わっただけで、「自分のため」という実態がそのまま残ってしまったのです。

 ここが今日のエリートを理解するうえで重要なポイントです。今の官僚たちも口では、「国民のため」とは言いながら、実は「自分のため」に行動していることがあります。つまり「天皇(神)のための軍隊」と「国民のための官僚」というのは、ともに軍人や官僚の野心や保身、あるいは不都合な真実を隠すための偽装であり、それが日本のエリートの一つの「型」になっていると私には見えるのです。

“天皇のため”の方がマシ

 戦前、奉仕する対象が具体的にイメージできる、生身の「天皇」であったうちは、その制度内に生きる官僚や軍人にもある種の禁欲さと真面目さが自然にそなわっていた印象があります。昭和の初め、若槻礼次郎や浜口雄幸が首相を務めた時代までの官僚には、「天皇のための官吏」としての誇りやモラルがたしかにありました。

 もちろん、この時代のすべてが道徳的だったわけではありません。「松島遊郭疑獄」が起こり、若槻礼次郎が現職の総理大臣ながら予審尋問を受け、内閣総辞職の要因になるなど、「政治とカネ」の問題もありました。しかし官僚たちはその中でも比較的大人しく節度を保っていたようにみえるのです。

 誤解を恐れずいえば、「天皇のための官吏」は「国民のための官僚」よりはマシだったのかもしれません。今、桜を見る会に関して起きている一連の不祥事を見るにつけ、「国民のための官僚」がいかに偽善に満ちたものか痛感させられます。

 桜を見る会が国会で問題になったとき、名簿を管理していた内閣府の担当審議官は、「名簿は廃棄した」と説明しました。本当に破棄したのか、実際にはまだ存在しているのかはわかりません。しかしこの説明のためにつじつまが合わなくなり、菅義偉官房長官が公文書管理法違反を認め、歴代人事課長6人が厳重注意処分を受ける事態に発展しました。さらに桜を見る会の推薦者名簿の推薦部局を隠して国会に提出していたことが発覚するなど、問題は広がりを見せています。

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菅官房長官(桜を見る会にて)

 この一連の流れから見えてくるのは、官僚にとっては「国民のため」よりも、「首相や官房長官のため」のほうがずっとリアルで、行動原理として有効に働くということです。国民に奉仕しろと言われてもピンとこないけれど、首相や官房長官、あるいは省内の上司の意向を忖度し、要領よく振舞えば自分は評価してもらえる。こういった心理が官僚の行動に影響をあたえているのは間違いありません。

 2018年に、森友問題に関連して財務省の文書改ざん問題があったばかりです。日本が「あったことをなかったことにする」国になってしまったら、その不名誉の代償は計り知れません。徴用工問題でも韓国に突っこまれてしまいます。

 2年前の問題で、公文書の管理体制は強化されたはずなのに、なぜこのようなことがまた起きてしまうのか。それは官僚たちが、国民のことよりも自分たちの評価を常に意識していることが大きいでしょう。例えば、内閣府の歴代人事課長は、今回処分を受けましたが、今後も政治家をかばい続けていれば、次の人事では厚遇してくれるかもしれないという期待を持つはずです。

 彼らにとって大事なのは、世間の評判より省内の出世。日本のエリートに、「国民のため」を期待するのは難しい。彼らはおそらく「政治家のため」にも働いていない。実は、常に「自分のため」だけに働いているのです。

後藤田正晴の怒り

 旧内務省出身で警察庁長官を務めたのち、政界に進出した後藤田正晴は、中曽根内閣で官房長官として辣腕(らつわん)をふるうなど、官僚をうまく使いこなした政治家として知られます。私は評伝を書いたので交流がありましたが、彼が折に触れて口にしたのは、「(官僚に)睨みを利かすだけでは限界がある。制度そのものを変えなければ」ということでした。

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後藤田正晴

 後藤田が「制度」としてどんなイメージを持っていたかはわかりませんが、その制度の根底には、今も昔も「成績序列主義」があります。それが官僚の行動を規定し、将来の昇進にかなりの影響をあたえてしまうことは、今も昔も変わりません。

 後藤田は内務省の地方局出身で、昭和15年に富山県警察部労政課長に出向しました。そこで、今でいうキャリアとノンキャリアの格差を目の当たりにして、義憤を感じたそうです。

 富山にかぎらず地方自治体には、雇員と呼ばれる現地採用の職員がいたのですが、後藤田ら本省採用の高等文官に比べ、給料が格段に安かった。査定をするのは、労政課長である後藤田の役割で、それが嫌だったと語っていました。

 さらに雇員と高等文官はトイレも別で、後藤田らが使うほうはいつもピカピカなのに、雇員のトイレは掃除も行き届かず汚れっぱなしだったそうです。最初のうちは、あからさまな格差に、若き日の後藤田も怒りを感じたそうですが、段々と慣れてしまったと当時の胸の内を打ち明けました。

 そうしたキャリアとノンキャリアの違いは、昔ほど極端ではないにしても、出世のスピードや昇進の限界など現代でも残っているはずです。その待遇の差を分けるのは、学歴や入省庁時のペーパーテストだけではないにせよ、最後までそれがつきまとうというのですから、いやはや、あきれるほかありません。

エリート官僚の妄執

 私はあるとき、こんな官僚OBに出会ったことがあります。

 彼はある省の次官級の役職を務めた人で、世間的には功成り名を遂げたといえる人でした。初対面のその人と私は共通の知人を挟んで3人で食事をしたのですが、2時間ほどの会食の間、彼は、学生時代に自分はいかに勉強ができたかとか、役所の試験でヤマを張ってそれが当たった話などを嬉しそうに延々と続けたのです。正直にいうと、私は辟易しました。ただ、彼が席を外した時に、知人がこう言ったのを聞いて救われた気がしたのです。

「ごめんな、保阪君。僕らにとってつまらん話でも、彼らにはそれが世界のすべてなんだ。我慢してくれ。彼らは本当にかわいそうなんだよ」

 この知人は、ある大企業の副社長でした。私は、彼の表現にエリート官僚の本質が指摘されていると思いました。われわれ一般人にとっては試験の成績順なんて年月がたてば何の意味もなくなる。しかし彼らにとっては、それが妄執となって一生付きまとうのです。それを知人は「かわいそう」と表現したのでした。

 また、こんなこともありました。旧知の財務省幹部から「昭和史を講義してくれ」と頼まれ、省内の勉強会で話をしたときのことです。会議室にコの字型に椅子がおかれていて、最初に40代の中堅官僚が入ってきたのですが、私から一番遠い席にわざわざ座ろうとする。私はもっと前の方に来たらどうですかと声をかけましたが、「いやいや」と手を振ります。その後、講演の時間ギリギリにきた次官や局長たちが前の方の席に迷いなく座ったのを見て、私はようやく「あ、こんな小さな勉強会でも座る席が決まっているんだ」と気づき、非常に驚いたのです。

すべてに序列を当てはめる

 さらに私の話が終わって質疑応答に移ると、不思議なことが続きました。ここでも、まず質問するのは、次官、次は主計局長……という具合で省内の序列順なのです。後ろの席で何か聞きたそうな顔をしていた若手職員は、結局、最後まで手を挙げませんでした。

 私はなるほどと思いました。彼らは席の位置から質疑の順番まで、一挙手一投足すべてに「序列」を当てはめている。そしてそれを踏み外さないために細心の注意を払っている。こうした、外から見れば全く意味があるようには思えない「秩序」を大事に守ることによって、彼らの権力は保たれているのだと。

 しかし、こんな内向きのルールを後生大事にしていたら、もし仮に省内で何らかの問題が起きて、その対処に当たった場合、世間の認識とのズレから問題を拡大してしまうばかりではないか。文書改ざん事件を主導した元国税庁長官は、財務省の中でも、とりわけ上司に気を配るタイプだったそうですから、あのときも成績序列主義が彼の心理になんらかの影響を与えたのかもしれません。

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