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出口治明の歴史解説! 日本で神道と仏教が混ざった理由

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年4月のテーマは、「宗教」です。

★前回の記事はこちら。
※本連載は第21回です。最初から読む方はこちら。

【質問1】お寺の境内にお稲荷さんなどを見かけると不思議な気持ちになります。初詣もお寺も神社も関係なくいきますし、人気の御朱印巡りでも、2つを区別していないひともたくさんいます。日本では、どうして神道と仏教が混ざったのでしょうか。


 実に日本らしい話です。仏教が百済(4世紀前半~660)から日本に伝わったのは6世紀半ばのことです。それ以前にも、朝鮮半島からきた渡来人のなかに仏教徒がいたかもしれません。

 新しい教えが入ってくれば、「日本の神様と仏教の神様、どちらがホンモノなんやろ?」「日本の神様と仏教の神様の関係は?」などの疑問が生じますね。どちらか一方がホンモノ、もう一方がニセモノとなれば、それぞれの関係者は困ります。「そうか、わかった! こう解決すればええんや」と提案したのが、日本の神様と仏教の神様は同じ神様なんや、という考え方でした。大日如来が日本では天照大御神の姿になり、阿弥陀如来は八幡神の姿になったんだ、という理屈です。

 これを本地垂迹(ほんじすいじゃく)説といいます。本地である仏・如来や菩薩が、衆生を救うために日本の在来の神様の姿をとってこの世にあらわれる(垂迹)と考えたのです。きっと最初に言い出した人は「なるほど、賢い!」と褒められたに違いありません。地域によって姿を変えていると考えれば、新しく伝来した教えも異教とはならないので丸く収まります。

 ただ、神道の関係者は「仏教がオリジナルで、日本の神様が複製というのはおもしろくないな」と思ったのでしょう。鎌倉時代の中期には、反本地垂迹説が出てきます。日本の神様がオリジナルで、仏や如来がその権化だとする神本仏迹(しんぽんぶつじゃく)説です。どちらにしても、神様と仏様は同じという発想に違いはありません。

 こうして日本はずっと神仏習合でやってきたわけですが、仏教のほうがずっと強い立場でした。先祖が天照大御神とされている皇室でさえ、真言宗の泉涌寺(せんにゅうじ)という菩提寺があります。

 神道は開祖がいませんし、体系だった経典もなく、きちんと理論化されるのは平田篤胤(1776~1843)あたりまで時代が下ってからです。それまでは仏教がインテリ階級の教養と見なされ、鎌倉幕府、室町幕府では将軍のアドバイザーはほとんど臨済宗のお坊さんでした。いまでいえば、首相補佐官です。

 徳川家康のアドバイザーとしてよく知られている南光坊天海(1536~1643)は天台宗、以心崇伝(いしんすうでん、1569~1633)は、金地院崇伝(こんちいんすうでん)とも呼ばれていますが、臨済宗のお坊さんです。崇伝は、法律の立案から外交、宗教統制などを任されたので「黒衣の宰相」という異名があるほどです。

 江戸時代には儒学者の林家(りんけ)もスタッフとして頑張っていたやないか、という人もいますが、実態を見るとこれもお坊さんのパワーにははるかに及びませんでした。林家の祖である林羅山は、ゴマすりがうまくて家康に取り入りました。家康は「おまえ、そこそこ学があるんやな。よっしゃ、補佐官の末席に加えたるわ」と彼を取り立てましたが、家康は仏教と儒教の違いをあまり理解していなかったのでしょう。「でも、補佐官になるには坊主姿じゃないとあかんよ」と林羅山に頭を丸めさせ、僧形にさせています。

 林羅山はおそらく「わかっとらんなぁ」と不満顔だったことでしょう。しかし、出世願望が強い彼は「はい」と答えて頭を剃り、僧服で家康に仕えました。林家の儒学者が髪の毛を伸ばして武士の格好を許されるのは、孔子廟の湯島聖堂ができた頃で、五代将軍綱吉の時代です。学問好きの綱吉は、仏教と朱子学(儒教)の違いがわかっていたのでしょう。

 新しい教えが出てきたら、「まぁ、だいたい同じやろ」と片づけてしまうのは、何も日本人の特徴だというわけではありません。インドのヒンドゥー教でも、仏陀はヴィシュヌという神様の化身とされています。ヴィシュヌは亀とか猪とか10のアヴァターラ(化身)でこの世に現れ、仏陀もそのうちの1つとされています。仏教発祥の地インドでもそう説明されたのですから「日本の神様と一緒やで」という発想が出てきても何も不思議ではないのです。

【質問2】大友宗麟、小西行長、高山右近、黒田如水などの戦国武将はどうしてキリスト教に入信したのでしょうか。


 戦国時代にキリスト教に入信したのは、何も武将だけではありません。関ヶ原の戦いあたりまで、キリスト教徒はどんどん増えていきました。当時、日本の人口が2000万前後だった中で、30万人ぐらいのキリスト教徒がいたようです。現在の日本で、キリスト教系の信者数は人口の1%ほどですから、当時のほうが割合が多かったのです。それだけ巨大な勢力だったのです。

 イエズス会のフランシスコ・ザビエル(1506頃~1552)が現在の鹿児島市に到着したのは1549年のことです。彼は薩摩、肥前(長崎県)、周防(山口県)、大坂の堺、京都、豊後(大分県)などで宣教活動に励みました。各地の宣教活動では、まず大名にキリスト教を理解してもらって布教の許可を得ることが大切です。たとえば、周防を中心に勢力を持っていた大内義隆には、メガネ、望遠鏡、置き時計など西洋の珍しい文物を献上しています。プレゼント作戦ですね。

 新しい教えが入ってくると、先ず興味を示すのはインテリ層です。仏教が伝わったときもそうでした。

 キリスト教は、アリストテレスの論理学で武装したイスラム神学の影響を受けてむちゃくちゃ堅固なロジックを構築していました。イスラム神学の教えは、プラトンやアリストテレスの古代ギリシア哲学をヨーロッパに再び持ち込み、イタリアのキリスト教神学者トマス・アクィナス(1225頃~1274)などは、その影響でキリスト教とアリストテレスの哲学をミックスさせて、キリスト教は神学を完成させました。

 ザビエルの宣教活動でも、理詰めの宗教論争が度々行われました。比叡山延暦寺の僧侶たちには論戦を挑んで拒否されています。

 インテリ層は新しいものに興味を示すと同時に、理詰めで説明されて納得すれば、自分の意見を簡単に変更するのがその特徴です。きちんと論証されて納得すれば、「私が間違っていました」と素直に認めるのがインテリなのです。そうでない人はいくら論証されても「どういう意味ですか?」となかなか理解できません。

 このことは、小坂井敏晶さんの名著『社会心理学講義 <閉ざされた社会>と<開かれた社会>』でも解説されているのでぜひ読んでみてください。

 90年代初めにオウム真理教がメディアを騒がせたとき、幹部のなかに理工系の修士号や博士号をもつインテリたちがいることが話題になりました。「あんなインテリがオウムを信じ込んでいる」とみんなが驚いたわけですが、インテリだからこそ信じたともいえるのです。

 戦国大名がキリスト教に入信した理由がもう1つあります。それは、キリスト教が交易船と一緒にやってきたこと。先ほどの献上物でもわかるように、数々の珍しい文物を見て「たくさん仕入れて、あちこちに売れば儲かるぞ」と思いつくのは自然なことです。この連載の第1回で紹介したように、平清盛は交易で儲けて権力の基盤をつくりました。徳川幕府が鎖国政策をとったのは、大名たちが交易で大儲けしていると、自分たちに歯向かうほどの力をつけてしまうからです。戦国大名にとっても、ヨーロッパとの交易はきっと魅力的だったのでしょう。

 ロジックで言い負かされて、素敵なモノをたくさん見せられたら誰だって転向しますよね。早い話がそういうことです。

(連載第21回)
★第22回を読む。

■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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