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小説「観月 KANGETSU」#30 麻生幾

第30話
熊坂洋平(3)

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「そうか──」

 七海は、そのことに今更ながら気がついた自分に苦笑した。

 あの刑事が私を呼びつけたのは、私が襲われたことを聞くためじゃない。

 熊坂さんのことについて聞きたいだけだったのだ

――それにしてん、なし、あげえしつこく熊坂さんのことを聞いちきたんやろう……。

 帰りの電車の中でもそのことをずっと考えてきた。

 でも、熊坂さんが奥さんを殺すなんて絶対にあり得ない、という思いは今でも変わらない。

 あの笑顔を絶やさない2人の姿を思い出す度に、その思いは強くなる一方だった。

――もしかしち、何か別んことで熊坂さんに関心を?

 いや、それはないな、と頭に浮かんだことをすぐに消し去った。

 涼の説明でも、自分たちは熊坂さんの奥さんの殺人事件の捜査をやっていると言っていたからだ。

 七海はふとそのことを思い出した。

 あの正木刑事は、こんなことを私に言った。

〈熊坂洋平んことで、これまで、何か、妙やら、不思議やら、なしなんか(なぜなのか)やら、そういったことを感じられた記憶がねえか?〉

 あれはどういう意味だったのだろう?

「なるほど」

 七海はひとり合点がいった。

 刑事は、熊坂さんの今のことより、過去のことに関心を寄せているのだ。

 しかし、すぐにまた壁にぶつかった。

 なぜ、過去のことを調べているのか、ということだ

 そのことと、奥さんが殺されたことと何か関係があるのか……。

 頭の中で堂々巡りをしているうちに、車は『商人の町』の一本道に入っていた。

 自宅近くの駐車場に車を駐めた七海は、五感をフル動員して、周囲の警戒をしながら自宅へと急いで向かった。

 そして最後の角を前にして思わず身を固くした。

 3日前、ここで、正体不明の男が出現し、襲われそうになったのだ。

 七海は、目の前の角を遠巻きにするようにして体を移動させ、角を曲がり切ると一気に駆け出した。

 家に辿り着いた七海は、鍵を開けて家に入ったと同時に、すぐに施錠した。

 息を整えてから、七海はやっと靴を脱いで玄関を上がった。

「ただいま~」

 七海は明るく家の中に声を掛けた。

 だが返事がなかった。

 いつもなら、のんびりとした母の声が返ってくる。

――お風呂かトイレなんやろか。

 七海はそう気にもせず、居間に足を向けた。

 格子戸を開けようとした、その手が止まった。

 格子の隙間から、七海はふと居間を見通した。

 母親が座っていた。

 その前には、テーブルの上に広げられた新聞があった。

 七海は目が釘付けとなった。

 母は口を手で被い、見開いた目で新聞を見つめている。

 七海が驚いたのは、母のその形相が、これまで一度として見たことがない、恐ろしく歪んだものになっていることだった。

 七海は気づいた。

 母は涙を流していた。

 そして、頬から一筋の涙が新聞に零れるのを見た。

 だが母はそれを拭おうともしなかった。

 七海は戸惑った。

 声をかけてもいいものかどうか……。
 でも、腹が減ってペコペコだし……なにかかわいそうな記事でも読んでいるんだろう……。

「ただいまぁ」

 七海がもう一度、声をかけた。

 その時、母がとった行動は、七海が想像もしていなかったことだった。

 母は、自分に顔を向けるより先に新聞を慌てて畳んだのだ。

「あっ、おかえりなさい」

 そう返事をしただけで母は背中を向けた。

 母が涙を拭ったことを七海は悟った。 

「どうかした?」

 七海は敢えて声をかけてみた。

「えっ、何が?」

 母のその声は明らかに動揺していた。

(続く)

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。

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