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菅義偉政権が知らない「パージ」の近現代史|保阪正康

昭和史研究家の保阪正康が、日本の近現代が歩んだ150年を再検証。今回のテーマは「パージ」。歴史を振り返ると、政府に批判的な人物の追放には、ある方程式があった。/構成・栗原俊雄(毎日新聞記者)

<この記事のポイント>
●日本学術会議の任命拒否の件は、近現代史を振り返ると、政府による「パージ(追放)」と位置付けるべき
●「滝川事件」「天皇機関説事件」という2つの事件を振り返ることで学ぶべきことがある
●政府が気に入らない人物を排除する場合には方程式がある。「権力者→扇動者→攻撃者→威圧者」という流れで排除されていく

保阪

保阪氏

言論・学問の弾圧は繰り返されてきた

発足したばかりの菅義偉政権が日本学術会議の人事に介入し、新会員6人の任命を拒否した。従来は学術会議側が推薦する名簿に沿って首相が承認するのが慣習であったため、驚きが広がった。

問題は、任命拒否の理由を菅政権が一切説明しないことだ。この6人は特定秘密保護法や安保法制などに反対したり、政府の方針に注文をつけた学者たちである。そうした人物を意図的に排除した疑いがある。

学術会議側は、推薦の理由を政府側に説明している。それを政権側が拒否するならば、相応の説明をするのが当然だ。たとえば菅首相が「政府の政策に反対してきた人物を、公務員に準ずる扱いにはできない」などと具体的な理由を挙げて説明するならば、それに同意できるかどうかは別として、それなりに筋は通る。

だが菅首相は「総合的、俯瞰的」に判断したと言うばかりで、具体的な理由を明らかにしない。指導者の発言にしてはあまりにもお粗末で、むしろ役人の責任逃れの弁に近い。

仮に学術会議という組織に改善すべき点があるとしても、人事は別の問題であり、政府が何の説明もしなくてよい理由にはならない。菅首相が「国民にいちいち説明などする必要はない」と考えたのであれば、これは独裁の次元に足を踏み入れたと指摘せざるを得ない。

今回の件を「令和の滝川事件」「美濃部事件の再来」とする指摘もある。両事件については後述するが、学説の思想的な面が争点となったものであり、今回とは異なるものだと私には思える。近現代史を振り返ると、今回の件は政府による「パージ(追放)」と位置づけるべきだ。

日本の近現代史においては、言論・学問の自由の弾圧は幾度となく繰り返されてきた。それらを検証することで、菅政権の本質を確認することができる。逆に言えば、菅政権は歴史に無知であるからこそ、事の重大さを認識できておらず、適切な対応を取れないのかもしれない。

そこで今回は、明治維新以降のパージについて、振り返ってみたい。

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菅義偉首相

民権派を離間させる策略

維新政府では、薩摩や長州など特定の藩出身者らによる藩閥政治が横行していた。これに対して「一握りの上級役人による専制政治」であるとの批判が高まった。自由民権運動の論者たちは、より多くの国民が国政に参加すべきであると訴え、国会開設を求める運動へとつながった。

危機感を持った政府は明治13(1880)年に集会条例を定めた。政治結社や集会を届け出制にし、軍人や警官、教員らの政治結社と集会への参加を禁止した。だが国会開設運動はさらに高まり、明治14年、国会開設の勅諭が出された。9年後の明治23年に帝国議会を開設する約束をしたのだ。

この勅諭を契機に、さまざまな政党が誕生した。たとえば板垣退助を党首とする自由党や、大隈重信が率いる立憲改進党がある。

政府は政治結社への弾圧を強める一方、政党内の分断を図った。その一環として、板垣と、同じく自由党の最高幹部である後藤象二郎に、明治15(1882)年末から翌年にかけて、欧州外遊をさせた。資金は長州出身の井上馨のあっせんで、三井財閥が出した。

政府の狙いは、2人の幹部の不在による政党の弱体化であった。また、2人に欧州の政治状況を実見させることで、自由党が現実的な政治にかじを切ることを期待していた。実際、板垣は自由民権の母国とされていたフランスの政治的混乱を見て、学ぶべきはフランスではなくイギリスであると考えを改めた。

しかし、自由党内には2人の外遊に「政府に買収された」との反発が強まった。また同じく国会開設を訴えていた改進党も、自由党の政府との関係を激しく批判した。逆に自由党は、大隈と三菱の密接な関係を非難した。民権運動推進の核となるべき両党が泥仕合のような非難合戦で消耗し、運動は停滞した。

統制がとれなくなった自由党では、急進派による武装蜂起によって政府転覆を図る動きがあった。明治17(1884)年、埼玉県秩父地方では、困窮した農民らが自由党急進派の影響を受けて蜂起した。「秩父事件」である。同様の暴動事件は東日本各地で相次いだ。同年10月、自由党は解党した。ライバルの改進党も、大隈や河野敏鎌などの幹部が脱党し、民権派は分裂。政府の離間作戦は、奏功したのである。

自由民権運動が再び盛り上がったのは、明治19(1886)年だ。藩閥政府に対抗するため、在野の反政府勢力が結集した。帝国議会開設に向けた動きで、大同団結運動と言われる。翌年には民権各派の代表が言論集会の自由と地租軽減、外交失策の挽回を求める「三大事件建白運動」を進めた。

これに対して同年12月25日、時の第1次伊藤博文内閣は「保安条例」を発布した。伊藤と同じ長州出身の内務大臣・山縣有朋、薩摩出身の警視総監・三島通庸が布告し、即日施行した。条例は全七条で、「秘密結社及び集会の禁止」「一定地域では全般的に集会禁止、旅行や移動の自由を制限する」「内乱を陰謀、教唆しまたは治安を妨害する恐れのあるものは皇居から3里(約12キロ)外へ退去させる」ことなどが布告された。これは露骨な物理的パージであった。反対勢力を政治の中心空間から排除するという考え方である。

保安条例によって、土佐出身の思想家・中江兆民や、のちに「憲政の神様」と言われる政治家の尾崎行雄ら451人が追放された。ただ、保安条例には批判が強く、明治31(1898)年、第3次伊藤博文内閣によって廃止された。

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中江兆民(左)と尾崎行雄(右)

滝川教授の刺激的な設問

さて、こうした経緯を踏まえたうえで「滝川事件」に触れておきたい。先に述べたように、滝川事件の焦点はあくまで思想的な面であり、日本学術会議の件と混同して考えるべきではない。だが、権力が介入する手口が、わかりやすいかたちで現れているという点では参考になる。

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