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どうして高校野球は東京でやらないのか  門井慶喜「この東京のかたち」#11

★前回の話はこちら。
※本連載は第11回です。最初から読む方はこちら。

 私自身も学童野球をやっていたからでしょう。小学生のころ、テレビで春夏の甲子園を見るのが大好きでした。横浜高校の愛甲猛、早稲田実業の荒木大輔、PL学園の清原、桑田……指を折って数えてみれば自分と年齢が少ししか違わないはずの「大人」たちの一投一打に息をのみつつ、ふしぎだったのは、

 ――どうして大阪なんだろう。 ということでした。

 全国からこれほど上手な選手をあつめて、応援団を呼んで、翌日の新聞にも大きく取り上げられるようなお祭りを、どうして大阪なんかでやるんだろう。日本の中心である東京でやるのが当たり前じゃないか。

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 私は当時、宇都宮に住んでいました。地理的にも近いし、親戚もいたし、東京中心主義に毒されていたのかもしれません。何しろ甲子園球場がじつは大阪府ではなく、兵庫県西宮市にあることさえ知らなかったのです。

 がしかし、それは或る意味、もっともな疑問ではあります。いまの私なら答えられます、それは朝日新聞の内部事情によるのだと。

 もともと野球というスポーツは、東京でさかんになりました。明治4年(1871)、神田の大学南校(のちの東京大学)に来たアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが伝えたとか何とかいう起源論は、ちょっと考証の余地もありそうですが、学校がからむところは正しい。

 いったいにスポーツというのは、どんな競技にしろ、

 1 年齢が若く、
 2 余暇を持ち、
 3 土地を持ち、
 4 用具を買う金を持つ

 という4つの条件のそろった人でなければやれないのが歴史の事実です。西洋には貴族というものがありましたが、近代日本にはいませんから、そのかわりスポーツの担い手になったのが学生でした。特に、大学と高等学校のそれです(戦後はどちらも「大学」にふくまれる)。なるほど4条件をみたしています。

 そうして大学と高等学校はやはり東京に多かったから、野球の普及も、おのずから、

 ――東京から、東京以外へ。

 という道をたどりました。

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 大正時代に入るころには、すっかり全国に普及しました。各道府県の主要都市にひととおり中学校(生徒は男子のみ。戦後の「高校」にあたる)ができると、それぞれに野球部が誕生し、ところによっては高等女学校(やはり戦後の「高校」にあたる)にも誕生しました。むかしも野球女子はいたんです。

 これに目をつけたのが朝日新聞です……いや、ちがう、大阪朝日新聞です。大正時代というのはまた新聞普及の時代でもありましたから、宣伝も兼ねて、

 ――全国大会をやろう。

 そんな企画が出たのでした。

 当然、東京朝日のほうへも相談しましたが、東京朝日は難色を示しました。

 ――うちの社説と、ちがう。

 というのがその大きな理由だったなどと言うと、こんにちの私たちは「社説に東西があるものか」と首をかしげたくなりますが、ありました。何しろ当時の朝日新聞は、ほかの大新聞も同様でしたが、大阪と東京はそれぞれ半独立の状態だったのですから。

 経営の上では同一の合資会社だったけれど、じつのところは決算も別、社員の職務規程も別、おそらく人事交流もほとんどなかったのではないでしょうか。

 編集委員も別だから、社説ももちろん別になります。たとえば明治38年(1905)、この新聞が日露戦争後のポーツマス条約に反対する論陣を張ったときも、反対の調子が東西で微妙にちがったため、政府に命じられた発売停止(いわゆる発停)期間も変わりました。

 連載小説ですら東京と大阪で別のこともあったほどで、とにかく全国大会の企画に対して、東京朝日は難色を示した。うちの社説と、ちがう。

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 ここで言う「うちの社説」とは、野球撲滅論です。あまりの野球の普及ぶりに、

 ――教育の場には、野球は必要ない。
 ――勉学がおろそかになる。

 等々とキャンペーンを展開しました。あまり本質的な意見ではありません。いつの世でも大人というものは若者の流行を否定したがるという一症例にすぎませんが、そんな経緯があってみれば、なるほどいまさら「全国大会をやりましょう」とは言いづらい。そこで大阪朝日が主導して、球場の手配をつけ、各地区の予選をおこない……第1回全国中等学校優勝野球大会は、大正4年(1915)夏、こうして大阪の豊中グラウンドでおこなわれました。参加校は10校で、優勝は京都二中。お客もかなり入ったらしく、客席ではもうカチワリが売られていたそうです。

 甲子園球場ができてからは、そちらへ場所をうつすことになる。「夏の甲子園」の誕生です。してみると、子供の私が高校野球を、

 ――大阪でやってる。

 と思いこんだのは、案外、さほどの誤解ではなかったのかもしれません。主催も発祥も大阪だったのですから。

 全国大会の宣伝効果はよほど大きかったらしい。9年後からはライバルの毎日新聞も、毎年春に、おなじ甲子園球場で、全国選抜中等学校野球大会をやるようになりました。

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 いわゆる「春のセンバツ」のはじまりです。これも東京の球場でやらなかったあたり、中学野球=大阪(兵庫)という常識は、この時点ですでに定着していたのでしょう。そののち大阪朝日と東京朝日は題号を「朝日新聞」に統一しましたので、東西の別はわかりづらくなりましたが。

 近代日本は、中央集権国家である。

 などと、私たちは学校で習います。なるほどそれは一面において正しいけれど、現実には、徳川時代の60余州が明治元年にとつぜん磁石のように密着したはずはないので、地方はやっぱり独立していた。

 分権割拠の状態から、少しずつ、少しずつ一体化したのです。そんな過渡期のありさまを現在にまで残しているのが春夏の甲子園であるとしたら、私たちは、テレビで全国の高校球児の奮闘を見ながら「日本はひとつだ」などと安易につぶやくことはできません。

 今春の大会中止は残念でした。少なくともコロナウィルスの脅威の前では、日本はひとつになってしまいました。

(連載第11回)
★第12回を読む。

門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
2020年2月24日、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた新刊小説『東京、はじまる』が刊行された。
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