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なぜ渋谷は日本初の別荘地なのか 門井慶喜「この東京のかたち」#20

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※本連載は第20回です。最初から読む方はこちら。

 大岡昇平は戦後を代表する作家、評論家である。

『野火』『レイテ戦記』のような戦争小説、『武蔵野夫人』のような恋愛小説、『文学における虚と実』のような文芸評論とたいへん広範囲な活動をしたが、しかし子供のころ育った範囲はせまかった。渋谷という同一の地域のなかで、たびたび引っ越しをしたのである。

 その回数は計7度……とは、大岡みずからが「幼年」(後述)に述べるところである。父は株屋の外交員だった。当時のその職業は、こんにちの証券会社社員とはちがい、自分でも相場をやるのが普通だったらしいというより、やらなければ暮らしが立たなかったらしい。相場には勝ちも負けもある。大岡家の収入はかなり大幅に増減し、そのつど引っ越しとなったわけだが、この逸話には、当時の渋谷という街の、住宅地としての器の大きさがうかがえる。貧しい家族も、ゆたかな家族も、それぞれにふさわしい暮らしが送れる借家の供給を意味するからだ。

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    渋谷第一尋常高等小学校に初登校したころの大岡昇平 

この場合の「当時」とはいつか。大岡昇平は明治42年(1909)生まれだから、おおむね大正期前半ということになる。
「幼年」は60代になって書いた自伝的中篇だが、それによれば、昇平少年はそこで「大事件」に際会した。
 これはどうやら富よりも貧のほうに近い時期のことだったらしいが、彼は或る日、向かいの家の兄妹といっしょに路地の井戸で遊んでいた。
 ポンプ式でなく、つるべ式の井戸だった。そのふたの上に立つのは大人に禁じられていたけれど、いつものように立っていたところ、ふたの片側が外れて落ちた。
 向かいの家の男の子は井戸側にしがみつき、大人たちに引き上げられて事なきを得たが(さぞかし昇平は叱られたにちがいない)、ついでに井戸さらいをすることになり、2、3日後に井戸屋が来た。その情景を大岡はこう書く。

 腹巻きだけの裸になって刺青(いれずみ)を見せた小父さんが、井戸の中の両側に足をふんばって、段々下へ降りて行くのを、われわれは感嘆の眼で眺めた。

 彼はどんどん汲み出した。水ははじめ青く、だんだん赤い濁りになり、或る程度まで透明になった。「それは盛大な水のお祭りだった」。井戸さらいが終わると、大人たちは、水が澄むまで半日くらい汲むのを禁じられたという。水がたまり、不純物が沈澱するのを待ったということだろう。

 「幼年」のこのくだり、さすがは『野火』の作者である。きわめて視像明確でありつつも、水のにおいまで感じられる生々しさがある。けれども文学の魅力は魅力として、さしあたり歴史的に興味ぶかいのは、このささやかな逸話が、かなりの程度、渋谷という土地の本質をあらわしていることだった。つまり井戸屋がたったひとりで(もちろん近所の大人も手伝ったろうが)仕事ができるほど、それほどこの井戸は浅いのだ。井戸を掘ったときに水が出る、その水面を地下水面というが、それが高かったのである。

 東京都は、西高東低である。

 海抜の高さで言うと東部が低地、中西部がいわゆる武蔵野台地である。その低地と台地のちょうど境目にあるのが渋谷なので、もちろんこの境界線上にはほかにも新宿、池袋といったような街があるけれども(厳密には新宿、池袋では台地はもう少し東へ張り出している)、それらと渋谷がちがうのは、上から見ると、ちょうど台地のはしっこが人間の手を伏せたような地形になっていることである。

 つまり、谷が入り組んでいる。谷はそれぞれ支谷(しこく)をのばし、より複雑な凹凸をかたちづくる。渋谷というのは、そう、文字どおり谷の街なのだ。

 実際、地勢的には渋谷圏に属する旧代々木村は、江戸時代には、

 ――代々木九十九谷(くじゅうくたに)。

 などと呼ばれたというし、私自身の経験もある。私は昨年の秋、渋谷のNHK放送センターへ行くのにタクシーを使う機会があったが、目的地が近づくと、運転手さんが、

「雪の日は、このへんはヤだねえ」

 とつぶやいたのはおもしろかった。小さな急坂が多いからスリップしやすいのだ。

 こうした地形のありさまは、大岡昇平の子供のころはもっと明確だったろう。

 もっと谷と山があらわだったろう。もしも例の、友達が落ちそうになった井戸がやはり谷底というか、スリバチの底のような場所にあったとしたら(その可能性は高い)、その井戸が掘りあてた地下水の地層は、まわりの高いところの地層と斜めにつながっているかもしれず、だとしたら地下水面も高くなる。高低差による圧力を受けて、地表へ出ようとするわけだ。

 あの刺青を入れた井戸屋の「小父さん」も、容易に仕事することができることになる。そういえば大岡は「幼年」の、この井戸さらいの直前のくだりで、

 この辺の地勢は(中略)南から北へゆるやかな下り斜面になっている。従って私の家の敷地は、路地より少し高くなっていた。玄関まで一メートル弱の段をなしていて、板が渡してあった。

 と記している。やはり高低差があったのだ。

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   キーボードを弾く大岡昇平 

渋谷とはつまり、全体的に、こういう起伏に富んだところだった。古代、中世、近世を通じてそこを通過する大きな街道が存在しなかったのは当然である。工事があんまり面倒にすぎるのだ。徳川時代には、甲州街道が整備されたのは北のほうの平坦地だった。

 ほんのわずかの距離なのに、街道ぞいの内藤新宿(こんにちの新宿)がだんだん人口が多くなり、だんだん繁華になるのに比して、渋谷のほうは何もなく、ただただ田んぼや畑ばかり……いや、ちがう。たしかに田畑は多いけれども、それ以上に、切絵図(当時の地図)をよく見ると、武家地が多いのである。

 それらはたいてい面積が大きい。大名の下屋敷だった。薩摩藩の島津家、広島藩の浅野家、河内国丹南藩の高木家……旗本の別邸もかなりある。これらの殿様は、いうまでもなく、ふだんは渋谷などでは生活していなかったにちがいないのだ。

 もっと江戸城に近いところに上屋敷または本邸を持ち、そこからお城へのぼっていた。都心在住の通勤者なのだ。それがわざわざ渋谷という郊外にもうひとつ屋敷をこしらえたのはなぜか。万が一、城下が火事になったときの避難所という面もあるけれど、

 ――別荘。

 という意味あいも強かった。

 渋谷では、庭のながめが美しいのである。何しろ土地がむやみに広い上、もともと起伏に富んでいるから築山(つきやま)がつくりやすく、さらには地下水が容易に得られるため池もつくりやすく涸れにくい。いわゆる池泉(ちせん)回遊式の和風庭園の成立のために、これほど適した土地はなかった。

 街道がないから閑静でもある。世間の塵(ちり)から遠ざかるためにあるような場所。渋谷というのは、或る意味、日本最初の別荘地なのである。

 箱根や那須や軽井沢のはるか前に成立した、純日本製の別荘地。この当時の渋谷をもしも何かに喩えるとしたら、私なら、

 ――五月人形みたいだ。

 と言いたい気がする。おっとりしていて、純朴で、かんたんに他人にだまされそうな感じ。あの甲州街道ぞいの内藤新宿がすでにしてそれこそ生き馬の目を抜くような一大商業地だったことを考えると、わずかの距離で、これは何とまあ天と地ほどの差だったろう。まったく現在の渋谷とは、

 ――ぜんぜん違う。

 と言いたいところだが、しかし実際のところ、この街には、現在もそんな一面がある。

 こんにちではむしろ渋谷圏と呼ぶほうが正確かもしれないが、そこにはたとえば松濤(しょうとう)の高級住宅地があるし、前述のNHK放送センターもあるし、代々木の各種スポーツ施設もある。

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 いずれも土地をざっくりと切り取った、鷹揚な感じのする、商売っ気のない用途である。

 五月人形をずらりとならべたような、と言うこともゆるされるだろう。その最たるものである明治神宮は、その広大な境内は、江戸時代には熊本藩加藤家、および彦根藩井伊家の下屋敷だったのである。

 だが現在の渋谷圏は、もう一面において、やはり火花の出るような商都である。

「おっとり」どころか、あざとさ全開。JR渋谷駅周辺だけでもセンター街やSHIBUYA109のような伝統的な(!)商業施設があり、そこへさらに渋谷ヒカリエとか、渋谷ストリームとか、渋谷スクランブルスクエアとか、渋谷フクラスとかが林立した。

 それらのなかでお客を待つショップやカフェやレストランの数がどれほどになるか、想像するのも億劫な上、まわりには原宿や青山の街がある。たいへんなものだ。よってたかってお客から――特に若いお客から――一円でも多く巻きあげようという新宿さながらの「生き馬の目を抜く」場所。にぎやかを超えて渾沌の巷。

 こういう渋谷の商都化、新宿化をなしとげたのは、事実上、たったひとりの男だった。

 彼が大正から戦後にかけて、ほとんど、

 ――渋谷王。

 とでも呼びたいような迫力でもって君臨したことで、この街は「おっとり」路線がねじまげられた。

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 五月人形が働き蜂にされた。五島慶太(ごとうけいた)、長野県出身。東京急行電鉄(東急)の実質的な創業者だけれども、このことに関しては、また稿をあらためて述べるべきだろう。

(連載第20回)
★第21回を読む。

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。


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